話に聴き入っていた。いつの間にか、黒い空が月に彩られるような時間になっていた。
けど、身体が震えているのは夜風に凍えたわけでも、ましてや父が、風雅雅夫が恐ろしいからでもない。伝えられた言葉が、語られた真実が、陽平の中で何一つ現実味を持たないのに、それを"事実"と受け止めている自分が悲しかった。
「その後、香苗さんは言葉の通りに森蘭丸を滅ぼした。お前が翡翠姫に出会ったあの日までガーナ・オーダの表立った動きがなかったのはそのためだ」
「母さんも……」
「俺たちは里に真実を隠蔽し、お前の"家族"に関する記憶を上書きした」
それはたぶん、以前に琥珀から聞かされていた、記憶を操作するリードの秘宝を用いたのだろう。
身体の震えが止まらない。どうして自分は泣いているんだろう。雅夫が言葉を紡ぐ度に、身を引き裂くような痛みに堪えているからなのか。
「これでわかっただろう。俺はお前の父を殺し、お前の記憶を操作することで、風雅陽平を勇者忍者に育てあげた。ただ一つ、兄者との約束のためだけに」
「そんなの、うそだ」
声に力はなく、まるで否定できていない。でも、真っ直ぐに親父を見ることも、事実と向き合うことも、とても無理だ。できっこない。
≪風之貢鎖人≫を纏い、戦いを挑んできた雅夫は、今語られたもう一人の親父、陽一と被って見える。
「親父はそうやって、俺を突き放して……でも、俺に風の継承をさせることで、俺を助けようとしてくれてる。そんなことがわかって、俺があんたに刃を向けられるかよっ!!」
「ならばお前は死ぬ。お前が死ねば、仲間が、友が、家族が、姫が死ぬ。お前が進むべき道は、多くの屍を越えてこそ開かれる。さぁ、もう十分に語っただろう。終わりにしよう。こんな……悲しい使命を背負う一族を」
できない。できっこない。雅夫の気持ちは真っ直ぐにこちらを向いているというのに、陽平にはそれを直視することができない。今の雅夫と向き合うには、雅夫を殺す覚悟が必要だ。そんな覚悟を陽平は持ち合わせていない。
たとえヘタレと罵られようと、自分には守りたい者と、未来を、天秤にかけることなんてできない。目の前の、偉大な先輩忍者のようにはなれない。
雅夫の気迫が膨れ上がり、ついに本気の無限斬を放たれるのだと無意識に悟った。
逃げよう。
気持ちが後ろ向きになった瞬間、自然と身体も下がり出していた。足が下がりのけ反るように体も逃げていく。そのまま背を向けて一心不乱に走り出してしまおうとした。でもそのとき、奇跡は起きていた。
≪──そんなの、よーへらしくないよ──≫
突然、陽平の背中に触れる、いや、抱きつかれた感触があった。柔らかな、暖かい感触。胸に手を回して抱きしめられたのだと気づいた陽平の目には、夜の闇から降り注ぐ月明かりが、なぜだかあの子のように映っていた。
「……かぐや?」
それは不思議な体験をした、夏の出会い。陽平が守れなかったことを、今でもずっと後悔していたひと夏の恋。何の前触れもなく陽平の前に現れて、陽平の心に触れていった、月の世界の少女。
「離して……くれ」
親父が来る。俺と殺し合うために、俺に殺されるために駆けて来る。
背中越しに頭を振られたのがわかり、陽平の焦りが大きくなる。
「逃げなきゃ。じゃないと、俺は親父を斬らなきゃいけないんだ!」
≪──よーへ。前を見て。ちゃんと顔を上げて、前を見て──≫
できない。親父と向き合う覚悟なんかできるはずがない。こんなことが必要なことだなんて、思いたくないんだ。
でも、かぐやは陽平を抱きしめる腕に、ギュッと力を込めた。
≪──あれは、誰?──≫
「親父だ。俺の親父だ!」
≪──そうだよ。おとーさんだよ、よーへ。よーへのおとーさんなんだよ!──≫
「でも、俺の親父は……」
なんでもかんでも黙ったまんまで、いつも俺に隠し事ばっかりしていて、尊敬なんてしたくない、いい加減な親父だ。
でも、なぜだろう。彼が実の父親でないと聞いたとき、信じられないくらい悲しかった。辛かった。こんなに似てるのに、この人と繋がってないことが、堪らなく痛かった。
≪──それは、よーへがおとーさんを好きだから。その辛さが、よーへとおとーさんの確かな時間だよ。あの日、あたしがよーへといられた短い時間より、ずっと確かな絆だよ──≫
「時間が……絆」
不意に抱擁が解かれ、かぐやの小さな手が、陽平の左手にクナイを握らせた。
刃のない、古びた風雅のクナイ。それは以前、お守りだと陽平がかぐやに渡したものだ。そして、
「俺と親父の、最初の絆」
≪──忘れ物、ちゃんと返したよ。よーへ──≫
「かぐや!」
かぐやの気配が遠退いていくのを感じ、陽平は慌てて空を振り返る。でも、そこに探した少女の姿はなくて、ただ優しい明かりで陽平の背中を押してくれる月が見守ってくれていた。
≪──大丈夫。よーへなら、きっとみんなが笑顔でいられる時間を繋げられるよ──≫
唇を噛み、逃げようとする足を地面に押し付ける。
≪──負けないで。あたしの勇者さま──≫
そんな言葉を最後に、もうかぐやの声や温もりを感じることはなかった。
「でも、俺には思い出がある! あいつといた、胸に宿る確かな絆が……」
二振りのクナイを手にして、陽平はようやく雅夫に振り返る。
「親父と俺の時間は確かに在った。それは偽りなんかじゃねぇ。だからこそ、今ここで親父から逃げたら、俺は二度とこの人を『親父』と呼べなくなる!」
足を踏ん張り、体を向ける。真正面から迫る雅夫と向き合い、陽平はようやく顔を上げた。
その瞬間、陽平の見ていた世界が赤い光に染め上げられた。
「ようやくその赤い眼を見せたか! 今ならできるだろう。このフウガマスターの無限斬を越えることが!!」
「越えるさ! 親父の目論みだって、人の限界だってなっ!!」
まるで、頭の中がとんでもない処理能力を持ったコンピュータにでもなったような気分だった。理解することで、想像した事象の設計図を細部に渡って脳内に描くことができる。
雅夫の纏うフウガマスターの秘術≪風之貢鎖人≫。その術の製法を識り、使用法を識る。更には埋めるべき欠陥を補うすべさえも構築すると、陽平は無意識にそれを身に纏っていた。
(体内巫力の凝縮を開始。続けて巫力収集を通常の二十倍に設定。吸収属性を『風』に"統一")
「折り重なれ、≪風之世炉衣【かぜのよろい】≫」
薄い膜のような巫力が全身を覆い、雅夫の纏う≪風之貢鎖人≫を吸収し始める。
やはりそうか。≪風之貢鎖人≫は陽平たち風雅忍者の使う巫力や巫術じゃない。これは巫力を用いる属性すべてに作用することで、風、火、水、土、氷、影、光、木、雷の九つの力を無力化。それらを力の根源である自然の生命力に分解吸収する力だ。つまり、この無力化の範囲を特定するすべがあれば、≪風之貢鎖人≫は制御可能な状態である≪風之世炉衣≫に変わる。
(鬼眼解放。目と耳と鼻に能力を限定)
赤い世界に親父の思考と、重なり合う分身がはっきりと描画されていく。
見える。これを迎撃するには、俺の無限斬じゃだめだ。釧のでも、親父自身のでもだめだ。
(総合巫力量を十と仮定。右手に四、左手に二、身体能力強化に残りを供給。≪風之世炉衣≫で巫力量を固定)
自らの思考を指示に変換して、全身に巫力が割り振られていく。
≪風之世炉衣≫と≪風之貢鎖人≫がある以上、全ての分身を無力化するのは難しい。ならば全てを迎撃しつつ、雅夫に直接攻撃を叩き込むしかない。
雅夫に向かって駆け出し、両手を右に振りかぶる。
しかし、こんなときに限って陽平の剣を迷わせるような思考が、赤い世界に広がっていく。
それは雅夫が幼い陽平を抱き締め、何かを叫んでいる姿。幼い陽平は、生きる気力を失ったように虚ろな瞳を見せ、こぼれ落ちる涙が精神を蝕んでいる。
これは、親父の記憶? なぜ今頃になってこんなことを思い出す。このタイミングで思い出すなんて、いったいどうして?
『生きてくれっ!』
それは雅夫の悲鳴だった。
『生きてくれ。ほかのなにをも犠牲にしたって構わない。朝陽さんの分まで、陽一さんの分まで生き続けてくれ!!』
これが親父の声? 体の痛みにも、心の傷みにも声を殺した親父が、俺のために泣いている。
そうだ。あのとき未熟過ぎる体で無限斬を放った幼い陽平は、全身から出血するほどのダメージを受けた。瀕死と言って差し支えない状態。いや、それ自体は香苗がいたからなんとかなった。問題だったのは直後。陽平は頭だけになった陽一を見てしまい、心が壊れそうになった。
『ご当主。陽平の、家族に関する記憶を消していただきたい。かつて貴女が行ったように』
俺は、こんなところでも親父に救われていたのか。
次に映った記憶は、雅夫が初めて早朝襲撃を仕掛けてきた朝のことだった。
雅夫と香苗が、神妙な面持ちで話し合っている。
『私は朝陽が育てるはずだった道を行きます。貴方はどうするつもりですか?』
『決まっている。強くならなくてもいい。戦うことを望まずともいい。ただ、あいつが生き残れるすべを教え込む。そのためなら父親だろうとなんだろうと、演じきってみせるさ』
その結果が敵意を敏感に察知できるようになるための早朝襲撃なのか。
ばかやろう。なにが『演じきってみせる』だよ。子供のために理想像を演じるのが父親ってもんだろ。あんたは間違いなく、俺の親父だったじゃねぇかよ。
次に見えたのは、陽平が先走ったためにクロスフウガを失ったあの場面。
雅夫は雨の中、一人血溜まりを見つめている。
『行かせたのがワシならば、逝かせてしまったのもワシだ。だが許してくれ。ワシは人類の未来と陽平を天秤にかけられる酷い人間だ』
あの雅夫が、涙も流さず泣いている。
次々と浮かんでは消えていく雅夫の記憶に、陽平はもう涙を堪えることができなかった。
「親父の……大ばかやろう。いつも知らねぇ顔して飄々としてやがるくせに! いつもいつもいつもいつも、俺のことばっかり考えてやがったなんて卑怯なんだよっ!」
腹が立つ。いい加減に堪忍袋も破裂するってもんだ。
逃げるもんか。ぜってぇに逃げてやるもんか。親父の思い通りになんて、絶対にさせてやらねぇ。
(属性感知と分解吸収を同時発動。合図で全巫力を攻撃力に変換)
速く。もっと速く。誰も我慢しなくていいくらい、誰も泣かずに済むくらい、もっと速く、ずっと近くへ。
陽平の願いも、雅夫の想いも違いはない。どちらも互いを思いやり、大切に思っている。それがすれ違うような状況を黙って見過ごすわけにはいかない。
陽平にとって雅夫は世界の中心だった。いつもそこにいて、すぐ目の前に背中が見えているのに、手を伸ばしたり、走ったりしただけじゃ追いつけない。でも、いつも陽平の手を引いて歩いてくれていた親父。
この人を死なせるもんか。この人を悲しませるもんか。親孝行もできないで、一人の少女の人生を変えるなんてできっこないんだ。
だから吠えよう。みんなに聞こえるように。『俺がなんとかするから』ってわかってもらえるように。
「ぅうああああああああああっ!!」
獅子の爪と竜の牙をその身に宿し、陽平はついに"速さ"という枠を越えた。
全てが静止した世界を駆け、陽平の全力をずっと見続けていた背中に叩き付ける。
見てくれ親父。俺はもう、親父に守られるだけの弱々しい子供じゃないんだ。だから守るよ。親父も、みんなも。
これは、風雅の奥義はただ命を奪うものじゃない。人の心を刃に宿し、誰かのためだけに使う必殺技なんだ!
だからこそ、これが正真正銘、無限を越えた風雅陽平だけの奥義之極、
「獅竜咆哮っ!! 獣っ帝っざあああああああああんっ!!」
切り抜ける陽平の背後で、雅夫が前のめりに吹っ飛び、蹴飛ばした石ころのように転がり、跳ね、何度もそれを繰り返してようやくその動きを止める。
陽平の荒い呼吸と、雅夫が巻き上げた枯れ葉が落ちる音だけが耳に届く。
山中が、十数時間ぶりに静寂を取り戻した。
「親父……親父ぃ!」
明らかに想像以上の一撃だったことで驚いたのは、受けた雅夫よりも放った陽平自身だった。
ただ刃のない武器による強烈な一撃で無力化させるつもりだったのに、今の破壊力は人一人を殺しても十分にお釣りが来る。
「くそっ! 全巫力を攻撃力に転換なんてしちまったせいで、分解吸収した親父の巫力をまとめて叩き返しちまったンだ!」
計算違いもいいところ。今の技は、対象の生命力が強ければ強いだけ相手を無力化して、それに比例するように威力を増してしまった。
あれを受けて生きている者がいるのだとすれば、それはおそらく人間を越えた存在でなければならないだろう。
パニックになりながらも急いで駆け寄り、変わり果てた雅夫の姿に思考が真っ白になる。
「親父っ! しっかりしろよ、なにやられたフリなんかしてンだよ! 冗談なんかもういいから、さっさと目ぇ開けていつもみたいにバカ笑いしろよ!」
鮮血の絨毯に横たわる雅夫の姿は凄惨なものだった。自分でやっておきながらも現実味はなく、なにをどうすればここまでボロボロにできるのか想像がつかない。
雅夫の無限斬とぶつかる瞬間、陽平は両手の武器に巫力を割り振り、左手のクナイで風雅陽一の無限斬を再現した。それで分身を迎撃した後、右の獣王式フウガクナイで釧の無限斬を再現。左の一撃に交差するように右の刃を合わせた。それが合図だ。交差を合図に≪風之世炉衣≫が触れた対象を属性から巫力に分解吸収。さらには全巫力を攻撃力として相手に叩き付けた。それで体勢を崩し、右に弾かれた勢いと遠心力を得た左で駄目押しの一撃。速度という枠を越えた時点で、これらの動作は一度に行われた。つまり、風雅陽一と釧の合体無限斬。威力の程は見ての通り。刃のないクナイを主な攻撃に使ったにも関わらず、本気のフウガマスターを一撃で瀕死にした。
胸と背中からの傷が交差するように内蔵まで切り裂き、肺や心臓が酷いダメージを受けたために呼吸すらままならないようだ。このまま放っておいたら雅夫は確実に死ぬ。それを確信できるだけの情報は目の前にあった。
「俺の斜陽くらいじゃ治せない。琥珀さん……いや、みんなで協力すりゃ助かる……か」
とにかく、一分でも一秒でも早く風雅の里に運ぶしかない。
しかし雅夫を背負い、走ろうとした瞬間、赤かった世界がより強い赤によって少しずつ塗り潰されていく。
こんなときになんだってンだ!
陽平が訝るより早く、世界は陽平を、現実から切り離した。
まるで血の海に沈んでいるような感覚に、陽平は露骨に不快な表情を浮かべた。
別に息苦しいわけでも、血の臭いがするわけでもない。それでも陽平が備えてしまった完全版の≪鬼眼≫が、陽平にとって危機的状況であることを理解させてくれる。
そうだ。理解した。ここはあいつの作り出した世界。俺はようやく、あいつに繋がるところまで来てしまったんだ。
理解すれば後は早かった。頭上でふわふわと漂う黒髪の少女を仰ぎ、陽平は苛立ちから唇を噛んだ。
『姿が似通っている理由も、わかるはずですね。陽平』
「声まで一緒たぁ驚いた。よぉ。初めて会えたな。涙姫【るいひめ】って呼んだ方がいいのか」
翡翠に良く似た少女は、目を閉じたまま陽平の言葉に微笑んだ。
『確かに、何度となく繰り返してきた、この"勇者忍伝"と呼ぶ世界において、あなたがここまで来たのは初めてですね』
説明されるより早く、≪鬼眼≫がすべてを理解させてくれる。そうだ。この≪赤い鬼眼≫は、この世界の全ての≪鬼眼≫が一つになった姿。
陽平の持つ≪目の鬼眼≫。翡翠の≪手の鬼眼≫。琥珀さんの≪耳の鬼眼≫。親父の≪鼻の鬼眼≫。菫の≪口の鬼眼≫。そして釧の持っていた≪"理解"の鬼眼≫。これら六つの≪鬼眼≫を限定解除で使用でき、さらには鬼眼の大元ともいうべき人物、涙姫とリンクすることで、全ての鬼眼の経験値さえも得ることのできる能力。
「何から何まであんたが関わってた。琥珀さんが地球に来たことも、忍巨兵が生まれたのも。風雅陽平ってファクターがこの勇者忍伝って世界に現れたことも」
『かつて、この世界を左右していた勇者はリードの皇、釧でした。でも、≪理解の鬼眼≫を与えても、彼は一度として勝利を得ることはできなかった』
「……だから、並行世界を用いて、気が遠くなるような回数を戦わせたんだな」
この≪理解の鬼眼≫というものは実に不愉快だ。世には"知らなくてもいいこと"がいくつもある。でも、それすらも理解してしまう融通の利かない能力。
『……ごめんなさい』
陽平の思考を読み取ったのだろう。眉をひそめて謝る涙姫に、陽平は頭を振った。
「いいよ。どーせ並行世界のことなんか、今ここに存在してる俺には関係ねぇンだし。だから、今は『ありがとう』って言わせてくれよ。この世界では、あっちの奴らに負けない力を得ることができたンだからさ」
『やはり、あなたはガイアに良く似ている』
「相棒……だからな。さぁ、そろそろ本題を話してくれ。挨拶のために、俺を呼んだわけじゃねぇンだろ?」
≪理解の鬼眼≫がそう教えてくれる。やはり用途に困る能力だ。話を聞かずとも、おおよその事情を察してしまえるのは、正直、人としてどうかと思う。やはり対話をしてこそ人間なのではないだろうかと思う。
『わたしがアレに打ち勝つために、いくつもの世界に≪鬼眼≫を放っていることは、もう理解していただいているかと思います。この≪勇者忍伝≫とわたしが呼んでいる世界だけでなく、他の勇者たちの世界にも、幾人もの≪鬼眼使い≫がいます』
それはつまり、涙姫の戦いは、まだまだ続くということを指している。すでに無限かと思われる時間を≪勇者忍伝≫に使い、それでも終わらない孤独な戦い。やはり無限の命というのも考え物かもしれない。
『その中で、≪赤い鬼眼≫にまで上り詰めたのは、あなたを合わせて二人。だから一人目の身に起きた事は、おそらくあなたにも起きると思います』
「回りくどいな。この≪赤い鬼眼≫を使い続けると、俺はどうなるんだ」
涙姫より早く≪理解の鬼眼≫が答えるが、陽平はあえて、その回答を跳ね退ける。
『わかっているはずです。完全に覚醒して六回目の使用を迎えたとき、あなたはこの世を去らねばならなくなります』
わかってはいたが、やはり実際に聞くとショックは大きいものだ。
どんな形で去ることになるのかはわからない。でも、そのときを迎えた陽平は、もう人としての生を送ることはできないだろう。
雅夫との対決で一回。残り、あと五回。それを使い切るまでに、なんとしてもガーナ・オーダとの戦いを終えなければならない。
「わかった。忠告、ありがとな」
『いえ。もとはわたしたちに責任があるのですから』
陽平の言葉に涙姫が寂しげな表情を見せる理由はわかっている。何もこれだけを忠告するために、陽平はここに呼ばれたわけじゃない。永遠の孤独。言葉にするだけなら、あまりにたやすいこの地獄をその身に宿す涙姫は、純粋に寂しいのだ。
なら、勇者なんて呼ばれた陽平のかける言葉は一つしかない。
「涙姫。今はまだ、お前を寂しさから守ることはできねぇけど、いつか必ず、俺たちがそこまで迎えにいくよ」
驚きと、困惑と、嬉しさが同居したようなその表情を、陽平はこの先、一度として忘れることはないだろう。
赤い世界が晴れていく。どうやらこの夢からも、ようやく覚めるらしい。
冷たい風が髪を揺らし、首筋を撫でていく感触に、陽平は慌てて目を覚ました。
不自然に屈み込んだ姿勢のまま気を失っていたらしい。足に痺れがあることを考えると、結構な時間をあの世界で過ごしたのだろう。いつまでもそのままというわけにもいかず、陽平は立ち上がって腰と背中をぐっとのけ反らせた。
筋肉と背骨が悲鳴をあげている。やはりあの世界にいた間は、あの姿勢のまま気を失っていたようだ。
なんで自分は、あんな体勢のままだったのだろうか。そこに思考が回って、初めて雅夫の姿がないことに気がついた。
「親父! どこだ、親父っ!」
背負っていたはずだ。血まみれで、息も絶え絶えになった雅夫を背負った記憶はある。直後、あの世界に呼ばれて意識を失っていたんだとすれば、雅夫はその辺に転がっているはずだ。それなのに……
「いない! どこに消えちまったんだよ、親父!」
「落ち着きなさい、陽平。雅夫さんなら、ここにいるわ」
「え? か、母さん!」
いつからそこにいたのだろうか。少し離れたところで、陽平か雅夫のどちらかに切り倒された木に腰掛ける香苗は、なぜか雅夫を膝枕しながら陽平に手を振っている。
「母さん。親父は……?」
「大丈夫。ちゃんと生きているわ。今は強い薬で眠っているだけ」
確かに。苦しそうな表情をするでもなく、雅夫は"いつもの親父"のまま寝息を立てている。
時々香苗が頬や額に触れると、むずかゆいのか、しきりに顔を歪ませている。
なるほど。いたって無事のようだ。
「ったく。心配かけやがって……」
斬った本人の台詞じゃないなと思いながらも、心の底から安堵の息が洩れた。
「陽平……」
「なに? 母さん」
雅夫の寝顔に呆れつつ、香苗に向き直る。そこに見たことのない顔をした母親がいたことに、陽平の心臓が一際大きな鼓動を打った。
「雅夫さんから、全部聞いたわね」
何を。と、とぼけることもできると思った。そうすればなかったことにできるんじゃないかって。でも、それは命懸けで伝えてくれた雅夫を裏切る行為だ。だからこそ、陽平は香苗の言葉に黙って頷いた。
「そう。ねぇ、どう思った? 酷い人だと、最低な親だと、憎いと思った?」
首を左右に振って、陽平は香苗の言葉を否定する。
「幸せだって、思ったよ。俺には産んでくれた親と、育ててくれた親。二倍の愛情に支えられて生きてきたんだって、はっきりと感じられたから」
普通は一人ずつしかいないはずの父さんと母さん。それが自分には二人ずついて、しかもその両親はいつもずっと、陽平のことを想ってくれていた。これが幸せでなくてなんだというんだ。
「だから、誰が何と言おうと、母さんは俺の母さんだし、親父だって俺の親父だ。反論は認めない」
「……そう」
そう呟くと、香苗はそれ以上を語ろうとはしなかった。
ただ、黙って雅夫の額に触れている香苗の表情は、どこか幸せそうに見えた。それは多分……いや、絶対に見間違いなんかじゃない。
「陽平。まだ、戦えるわね」
「当たり前だ」
「現状はかなり切羽詰まっている。風雅は敗走して散り散りに。ガーナ・オーダは風雅の最終兵器を手に入れてしまったわ。事態は最悪と言って差し支えない。ひょっとしたら、戦えるのはもう陽平だけかもしれない」
聞くからにヤバいものが、ガーナ・オーダに渡ってしまったらしい。なるほど。確かに事態は急を要するようだ。
「大丈夫。あいつらはそんなヤワな連中じゃねぇよ。それに俺は、獣帝はまだ、負けてねぇからな。だから戦える。俺は翡翠を守る勇者忍者だから」
その気持ちに偽りはない。むしろ今回のことで、気持ちはより強いものになった。
たとえひとりきりになろうと、翡翠を守り抜いてみせる。いや、もう誰かが欠けるようなことがあっちゃいけない。そのために風雅陽平はここに在る。
「陽平……」
「親父! 目ぇ覚ましたのか!」
まだ起き上がることはできないのか、香苗に膝枕されたままの雅夫は、陽平の言葉に頷くと香苗に手を差し出した。
「香苗さん。預けていたあれを」
「ここに」
香苗が雅夫に渡したのは、獣王式フウガクナイよりも更に大きめのクナイだった。鍔のある形状はクナイというよりも剣のようだけど、なぜだか陽平にはこれがクナイであることわかった。
「陽平、こっちへ」
言われるままに近寄り、雅夫の目線に合わせて膝をつく。
「陽一さんと、朝陽さんの残した風雅の希望。そして俺と香苗さんの……自慢の息子。必ず俺や陽一さんを越える日が来ると思っていたが……」
不意に手を握られ、陽平はビクッと肩を跳ねさせた。
「こんなに早く、強く……」
「親父……」
「泣くことは許さん。今のお前には、これを持つ資格があるんだ。陽一さんが遺した忍器をベースに風雅の秘法を以って生み出された獣王と竜王を従える忍器……」
手渡されたそれは、獣王式フウガクナイよりもやや重く、それなのに掌に吸い付くような感覚と、長年使い続けた武器のような馴染みある手触りが、これが風雅陽平のためだけに生まれたものだと確信を持って言うことができる。
「≪獣王之牙【けものおうのきば】≫だ」
「いや。これは≪獣王之牙≫じゃねぇよ。これは今から≪獣帝之牙【けものみかどのきば】≫だ」
受けとって立ち上がり、陽平は父と母に背を向けて歩き出す。
「見てくれ。親父と母さんが育ててくれた、風雅陽平の姿を」
振り返り、両親が黙って頷いてくれたのを合図に、陽平は忍器を解き放つ。
「影衣着装っ!」
月明かりに映し出された陽平の影が、足元から全身に絡み付いていく。今までの影衣とは違う感覚が、違う脈動が、二人の見守る前で、陽平を決戦用の装束で包んでいく。
腰布が夜風になびく。重さを感じない装飾が、忍者とは不釣り合いながらも陽平を、獣帝をイメージしたシャドウフウガに変える。
「シャドウフウガ、マスターフォームってとこかな」
月明かりをスポットライト代わりに雅夫たちを振り返る。
なるほど。実際に纏ってわかったが、柊や楓の忍器のように、この≪獣帝之牙≫もまた、雅夫や香苗の手が加わっているようだ。
これを身に纏って戦う以上、陽平に敗北は許されない。
「どうだ。ちったぁ成長を感じただろ」
「戯れ事を。しかし、晴れてワシからお前に『フウガマスター』を譲れるというわけだ」
「……冗談だろ」
質の悪い冗談かとも思ったが、どうやら本気で言っているらしい。雅夫の目は、いたって本気だ。
「不服か?」
「ああ。でも、せっかくだから空いてる方の名前は貰っておくぜ」
≪シャドウマスター≫。風雅陽一がマスターだった頃、雅夫が名乗っていた称号。
「シャドウフウガマスターって名前じゃ、長すぎるしな」
照れ隠しをしたのがバレバレらしく、雅夫はフン、と鼻で笑っている。
本心を言うなら、陽平はフウガマスターよりもシャドウマスターの名前が欲しかったのだ。二人の父親から名前を貰いたかった。『陽平』と『シャドウマスター』。この二つの名前を忘れない限り、陽平は二人の父親の背中を追い続けられる。
「親父、母さん。それにとーさんとかーさん。見ててくれ。俺が風雅の使命ってやつを終わらせる。シャドウマスター、風雅陽平が!」
夜の山中に、陽平の声が響き渡っていく。
これは『約束』だ。陽平と風雅の歴史が交わす、絶対に破ることのできない約束。
俺はこの約束を言霊に変える。責務とか、使命とかじゃない。俺自身が決めた約束だ。
俺、風雅陽平は、翡翠を守り抜き、風雅の戦いを終わらせることを誓う
仲間たちと共に、誰ひとり欠けることなく
必ず。
<次回予告>
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