「……ごめん、椿さん。それに柊も、楓も。もう限界だ」
 そんな陽平の言葉に、二人はまさかと顔を上げる。
 そこにあったのは、陽平に抱き抱えられ、少しずつ穏やかな呼吸を取り戻していく椿の姿。
 柊と楓のつけた傷痕はなく、椿自身もなにが起こったのかわからないといった様子で、自分を支える陽平を振り返った。
「≪風之世炉衣【かぜのよろい】≫。命懸けでやってもらうとは言ったけど、本当に死なれるわけにはいかないからな」
 そう言って苦笑を浮かべる陽平に、椿は参ったとばかりに溜息をこぼし、柊と楓はようやく状況を理解したらしい。
 つまりさっきの姉弟喧嘩は、陽平の仕組んだ命懸けの仲直りだということ。
 理解すると、後に残るのは嵌めた相手への怒りばかり。へたり込む柊とは対照的に、楓は陽平に掴みかかっていた。
「いくらなんでも、姉さんの命をかけるのはやり過ぎですっ。失敗していたら、姉さんが死んでいたらどうするつもりだったんですかっ!」
「失敗なんかしないさ。瀕死を治した前例もあったし、俺はもう、絶対に仲間を死なせない」
 その自信はどこからくるのか。楓は椿と同じ顔をして、陽平に溜息をついた。
「誰が欠けてもだめなんだ。楓、もちろんお前が欠けたってな。だから俺が守る。お前たちの守りたいものも全部。反論は認めねぇ」
「先輩……」
「でも、そのためとはいえ、やったことはひとでなしだった。つーわけで椿さん。あなたよりも"ひとでなし"がいるんだ。もう自分の過去を引きずって、未来を諦めるのはやめてください」
「まったく、あなたという人は……」
 椿の苦笑に頷くと、陽平は改めて二人に向き直る。
 表情からただ事ではないと察した双子は、黙して陽平の言葉を待った。今の陽平なら、きっと本当にみんなを未来へ連れていってくれる。そんな気さえしてくるというのに、陽平からかけられた言葉は、双子にとってあまりに予想外であった。
「柊、楓。今この時をもって、お前たち二人を風雅忍軍から除名する」
 これには椿も驚いたのだろう。つい先ほど、誰ひとり欠かせないと言った陽平の言葉とは思えず、椿は無意識に身体を支える陽平の腕を痛いくらいに掴んでいた。
「先輩。それはつまり、風雅を一番に考えられない者に、風雅忍者として戦う資格はないと、そういうことですかっ」
 楓の言葉にも、おもわず熱が入る。
「アニキっ。オイラはまだ風雅のために戦えるよ。それでもオイラたちはいらないっての?」
 すがるような柊の視線に、陽平はそんなことはないと頭を振った。
「お前たちを除名したのは、別にお前たちがいらないからじゃねぇよ。むしろ来てもらわなきゃ俺が困る」
「だったら──」
「風雅にはもう時間がない。今すぐにでも、信長の首を取りに行かなきゃならねぇ。そんな命懸けの決戦を前に、気持ちの準備もできてないお前たちを連れていくわけにはいかない。だから、お前たちは少しでもいい。椿さんと一緒にいて、家族の絆を感じるんだ。俺たちはこの"絆"を武器に戦うんだからな」
 とんっと胸を叩かれた柊は、まるで暖かい塊を陽平から託されたように感じて、叩かれたところにそっと触れる。
「それで幸せな家族を堪能したら、今度は俺を助けに来てくれ。俺の部下とか、使命だとかじゃない。同じ未来を勝ち取る仲間として」
「仲間……」
 柊の呟きに、陽平は正解とばかりにグッと親指を立てる。
「過去はもちろん大事だけど、俺はお前たちの未来がほしい。二人の……いや、三人の未来を俺に預けてくれ」
 陽平が順に三人と視線を交わしていけば、なぜか楓だけは顔を赤くして顔を背けてしまう。
 怪訝に思い、楓の顔が見えるよう首を傾げてみるが、やはり顔を背けられた。
「楓。ひょっとして怒ってるか?」
 無理もない。姉弟間の和解のためとはいえ、最愛の姉を殺されかけたのだから。
 どう謝ったものかと陽平が困り果てていると、意外にも助け舟を出したのは柊だった。
「楓。嬉しいなら素直にそう言えばいーじゃんか」
 呆れ混じりの柊に、楓は目を閉じて、耳まで真っ赤にして頭を振る。
「楓。オイラがわかんないはずないでしょ。アニキと主従関係がなくなったってことは、つまり──」
「それ以上言ったら口を縫い付けますっ!」
 柊の口を掌で塞ぎ、楓の顔は今や暴竜のように赤く染まっている。
 今の会話でおおよその事情を把握した陽平は、楓が深呼吸して落ち着くのを黙って待ち続けた。
 楓の何度目かの深呼吸のとき、椿にジロリと睨みつけられたが、陽平は「幸せに対する税金のようなもの」と甘んじて受けることにした。
 楓も落ち着いたのだろう。顔は相変わらず赤いままだが、その瞳は真剣そのもの。まるで今から斬り殺されるのでは、などと良からぬことを考える陽平に、楓がようやく口を開いた。
「せ、先輩っ!」
「はいっ! なんでしょうかっ」
 楓の気迫に、ついつい敬語で返してしまった。状況が状況なら、互いに正座して向き合っていたかもしれない。
「あの、先輩は私たちに『未来をくれ』とおっしゃいましたよね」
 射抜くような視線から、今度はすがる小動物のような目をされた。
 楓の問い掛けに陽平が頷くと、楓はここでもう一度深呼吸をした。
「私の未来をあなたにあげます。私もあなたの過去はいりません。ですから……その……」
 なぜか柊と椿から刺さるような視線を受けつつ、陽平は楓の言葉を待ち続ける。
「あなたの、陽平先輩の未来を私にくださいっ! あなたの妻として、立派に支えてみせますからっ!」
 楓にしてはめずらしく、なにも考えずの一言だったのではないだろうか。言い終わってからパニックになっている楓にこっそりと笑みを浮かべると、陽平はスッと楓の手を取った。
「言ったはずだぜ。みんなわかってるから、もう演じる必要なんかないんだって。だから楓も、俺に好意を持ってるような素振りをする必要はないんだ」
「ち、違いますっ! 私は本当に先輩のことが好きなんですっ! 今更こんなことを言っても信じてもらえないかもしれませんが、私は、作られた自分を演じていながら、先輩の前だけはどんどん裸にされていました。この気持ちに、ウソも、偽りもありません」
 あまりに真摯な眼差しに気圧されて、陽平も困ったように視線を泳がせる。
 すでにその胸中に答えがあるわけでもなく、かといって断る素振りでもない。言葉を選んでいるのだと楓がわかるまで、数分の沈黙を要した。
「なぁ、楓。その答え待ってもらっていいか?」
「……やっぱり、光海先輩のことですか?」
 光海が陽平を好いている。いや、強く想っているのは自他共に認めること。当然、陽平もそれに気づいているはずだ。
「ん……。ここで『なんのことだ』なんて、今更すっとぼける気はないけど、俺さ、そういうのをまだ、ちゃんと真剣に考えたことってなかったんだよ」
 幼い頃、年上の幼馴染みの彩姉に告白したことがあった。最近、クラスメイトの椎名咲に告白された。夏にはお伽話のお姫様に恋をして、そしてずっと傍にいた光海の気持ちにようやく気が付いた。
 恋愛初心者の陽平には、あまりに目まぐるしい一年で、まだ一度だって立ち止まって考えていない。
 だからこそ、ちゃんと考えなければと、ようやく思えるようになったばかりだ。
「信長の野郎をぶっ倒して、この戦いにケリがついたら、俺も自分のそういう気持ちと向き合うから。ずるい答え方ってのは承知の上だ。でも、それまで待ってもらっていいか?」
「だめなはず、ないじゃないですか。私は先輩にお願いした身です。本当ならすぐにフラれるかもしれないのに、考えてもらえるなんて儲けものですから。だから……」
 そう言って近づいてくる楓に、陽平の心臓が跳ね上がる。ドキリとさせられる楓の表情にどぎまぎしていると、柔らかなものが陽平の唇に触れた。
「なっ!?」
「前借りは、ありですよね?」
 耳まで真っ赤になりながらも悪戯っぽい笑みは忘れない。キスくらいで真っ赤になるとかクノイチらしくないなどと感じながらも、やはり楓は生粋のクノイチなのだと思い知らされた瞬間だった。
「陽平くん。楓を泣かせたら、ただでは済みません」
「アニキ。楓とくっついたら、オイラたち本当の兄弟じゃんか。それってすっごい楽しそうだよね!」
「い、いや。俺は……」
 似た者三人の忍者姉弟。そんな彼女たちの輪に囲まれながら、陽平は思いを馳せる。
 もし。陽一父さんや、朝陽母さんが生きていたのなら、それはきっと、とても楽しい家族団らんになるのではないだろうか。
 この日、風魔の家では一つの"初めて"が生まれた。
 家族四人が揃って食卓を囲むのは、思った以上に気恥ずかしく、そして楽しいもの。だったそうだ。






 獣岬の洞窟から出て、少女は海の向こうに沈む夕日を眺めていた。
 白い、胸に大きく"LOVE"とプリントされたトレーナーにレース飾りのたくさんついた黒のスカート。寒さを考えて素足はストッキングに包まれている。一人物憂げに海を見つめる少女──翡翠は、もう三日、ここでこうして身を隠していた。
「ようへい。……すみれ」
 翡翠をいつも守ってくれる少年忍者は、翡翠の実兄、釧が連れて行ってしまった。そして友達になったばかりの少女、菫も、いつの間にか姿を消していた。
 急に一人ぼっちになってしまったような錯覚に、翡翠は肩を震わせる。
「翡翠さま。潮風はお体に良くないです。もし流行り病にでもかかれば……」
「それに、雅夫さまから、勇者忍者が迎えに来るまでの間、姫さまを絶対に隠し通すよう、申しつかっています」
 そんな声に振り返れば、翡翠といくつも年の変わらない少女が二人。同じ顔、同じ姿。違うといえば頭についたお団子が左右逆ということくらい。目立たぬようにと言われ、今は着慣れない洋服に袖を通しているものの、この二人、れっきとした風雅の巫女である。
「るり、りる……」
 背後からショールをかけられ、それが落ちてしまわないようそっと手を添える。
 そんな気遣いさえも、今の翡翠を温かな気持ちにするには十分だった。
「ありがとう」
 そう言って笑うと、二人は恐縮したようで、困ったような、照れたような笑顔を返した。
「るり、りる。ようへいは?」
 最後に会ったとき、陽平は眠っていた。夏を境に、陽平は自分の周りに目を向けるようになった。広い視野を持つことは悪いことではない。忍び頭として、むしろ良い傾向ですらある。だが、今までずっと傍にいた翡翠にとっては置き去りにされたようなもの。最後に話したのは、いったいいつだっただろうか。
 陽平に会いたい。会って話しがしたい。他愛もない翡翠の話で、一喜一憂する陽平が見たい。
 そんな陽平への想いが募る一方では、急に姿を消してしまった友達のことや、兄のこれからの身の振り方が気になっている。
 考えるしかできないというのは、思った以上に重労働だ。
「姫さま。勇者忍者さまならきっと、直にいらっしゃいます」
「ですから、今しばらくのご辛抱を」
 瑠璃も璃瑠も、とても気遣ってくれている。それがわかってしまうだけに、翡翠もそれ以上は言えなかった。
 二人に連れられて、また洞窟の中に戻っていく。なんだか自分が、土竜にでもなってしまったようで、思わず目が点になっていないか、ぺたぺたと触れてみる。
 明日。太陽が昇れば、陽平は迎えにきてくれるだろうか。
 ううん。きっと来てくれる。だから待とう。話したいことをたくさん用意して。
 前向きになったら、待つのも少しだけ楽しくなった。
 光海はいつも、こんな気持ちでいたのだろうか。そう思うと、彼女の抱く恋という感情に、少しだけ興味が沸いた翡翠だった。













<次回予告>