光海や光洋がジェノサイドダークロウズの大群と奮闘していた頃、そんな二人を探していたはずの風雅陽平がいたのはまったく見当はずれの場所だった。
 光海を探すつもりで光洋の足跡を辿り、わざわざ東京湾の国連軍基地くんだりまで出向いたというのに、光海どころか光洋もいないという見事な空振り。仕方なく基地を後にしようとしたときそれを見れたのは、本当に偶然だった。
 飛行場に積み上げられた荷物の陰に身を潜めていたところ、到着したばかりのレスキューヘリから降りてきたのは民間人ばかり。年齢もばらばらで統一性がないところを見ると、彼らは見たままの救助された民間人ということでよかったのだろう。
 しかし解せないのは、そんな民間人が揃って軍の人間に詰め寄っているという不可解な行動をとっていたこと。さすがに聞き取れる距離でもなかったため《鼻の鬼眼》で状況を探ってみたところ、どうやら彼らは軍が戦いもせずに基地まで逃げ帰ってきたことに腹を立てているようだった。
 しかし無理もない。《耳の鬼眼》で心を読み取り、彼らの記憶に潜む黒い影を見つけたとき、陽平も相手が悪すぎると素直に思えたのだから。
 ジェノサイドダークロウズ量産型。オリジナルよりも性能ダウンしていたとはいえ、決して過小評価できる性能ではないこの機体は、合体していない忍巨兵では追い込まれるほどの強さを持つ。事実、天城瑪瑙の駆る天王サイガも高い機体性能と瑪瑙自身の技術に恵まれながらも、これを相手に苦戦を強いられたほど。
 陽平の感想も、あれの大群を相手に無事に逃げ帰ってこられたこと事態が奇跡。十分にそう思える相手のはずだ。
 しかし、ここで新たな疑問が芽生えた。
 このレスキューヘリは、あれの大群を相手にしながらどうして無事に帰ってくることができたのか。
 それこそ最新鋭の戦闘機だろうと数秒とかからず撃ち落されるだろうし、ガーナ・オーダの技術提供で生み出された虎の子の擬似忍巨兵、《J−X 斬風【きりかぜ】》を出してきたところでそれほど戦力差が埋まるとは思えない。
 答えは当然、そこで言い合っている民間人と、そして救助に向かった軍人たちが知っていた。

「あんたら軍人なんだろう! だったらどうして同じ軍人を助けてやれないんだ!」

「あの軍人さんは、私たちを必死に守ってくれたのに! どうしてあのまま捨て置いたりするんだ!」

「おねがいします。ちゃんと軍人さんのこと信じるから、軍人のお兄ちゃんを助けてください!」

「ゆうしゃのぐんじんさんを、たすけてください」

「あなたがたの言い分はわかりますが、我々の装備では歯が立たないのです! なにより、これは自分の上官である蓬莱光洋大尉の命令です。"あなたがたを守り、安全な場所に連れて行く"これが自分の受けた命令なのです!」

「命令がなんだってんだ! あの人がやられちまうのを、上官を見殺しにするのが軍のやり方なのかよ!」

 あまりのことに状況を把握できずにいた陽平も、その名が出たことで血の気が引いていくのを感じた。
 あの光海至上主義の軍人が、あのツリ目の暴力軍人が、民間人とその救助に現れた部下たちを守るために、その身を盾にしたというのだ。
 まさか。条件反射で思わずそう感じてしまう陽平も、その場にいる全員の心から読み取れる光洋の姿に信じざるを得なくなる。
「はは……。マジかよ。あの軍人が、ねぇ」
 それはきっと、陽平自慢の幼馴染が彼を変えた結果なのだろう。
 だから彼らは戦っている。自分の守ると決めたなにかを守り抜くために。己の身を刃と化して。
 行かねばならない。そこにいるのは紛れもなく、忍巨兵を駆る風雅の仲間だ。
「よぉし。待ってろよ光海。それとツリ目軍人」
 足元の影が《獣帝之牙》によって陽平の身を包み込む。次の瞬間にはシャドウフウガマスターとなった勇者忍者がそこにいた。
 人の目も気にすることはなく、その場で忍巨兵──竜王ヴァルフウガを召喚すると、熱風を纏い、人が認識することさえ適わない速度で大空へと飛び立っていく。
「ガーナ・オーダの似非忍巨兵が。俺の仲間に何かしやがったらただじゃおかねぇ!」



 こうして風雅忍軍忍び頭──風雅陽平は、黒翼舞い散る戦場に降り立った。
 力尽きて崩れ落ちるパンツァークロスフウガに乗り移り、疲労困憊の幼馴染を抱き寄せて支えると、瞬時に忍巨兵の制御を自らに移していく。
「何へばってやがる。らしくねぇぜクロスフウガ」
「キミがいなかったから。では不服か?」
「それだけ言い返せるなら、戦えるよな!」
 パンツァークロスフウガを立ち上がらせて、満身創痍のレイガを守るようにジェノサイドダークロウズの群に立ちふさがる。
「生命の輝きにて、邪悪な翼を断ち切らん。折り重なれ、《風之世炉衣》」
 陽平を中心に渦巻く流れが、闇に隠れるジェノサイドダークロウズから力の源たる巫力を奪い取り、仲間たちに分け与えていく。
 みるみるうちに逆転していく力関係に、クロスフウガとコウガも驚嘆の声を漏らす。
「おお! これこそは風雅の秘伝中の秘伝。しかしこれは究極の忍者と究極の巫女がいてこその技」
「それを一人で扱うとは。……ついに超えたのだな、陽平」
「おかげさまでな。さぁて、ここからはシャドウフウガマスター風雅陽平の一幕だぜ!」
 話している間も《風之世炉衣》は絶えずジェノサイドダークロウズの巫力を蝕み、すでにクロスフウガたちの力を満たし始めている。
 力を失い次々と墜落を始めた大鴉を一瞥すると、陽平は背後で沈黙を守るレイガを振り返る。
 傷が深すぎるのか、一向に治癒が始まらないレイガに舌打ちすると、陽平は《風之世炉衣》の中心をレイガと光洋に移し替える。これで瀕死の重傷くらいならば持ちこたえるはずだ。
「死んだりしたら、承知しねぇぞ」
 死んでさえいなければなんとかなる。それはもう何度か立証済みなのだから。
 あとは、光洋たちの生きる気力次第。
「それにしても、ちっとばかし重てぇな。コウガ、忍獣だけドッキングアウトだ」
「陽平殿、実はそれができないのです」
「は?」
 一瞬、何と言われたかわからず、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
「できねぇって、どういうことだよ」
「光海の持つ巫力とは異質の力が、今の合体を維持している。ワタシたちにはその力の使い方がわからないのだ」
 正直ぐうの音も出なかった。よもや巫力とは異質の力などと、どうやら光海も陽平と同じくどこか普通ではなかったらしい。
「《赤い眼》で《理解の鬼眼》を使えばわかるんだろうけどな。さすがに無駄遣いはできねぇ」
 腕の中でうとうとしている光海を軽く揺すり、あまり回復した様子のない幼馴染みの顔を覗き込む。
 どうやらただの疲労や、巫力切れというわけではないらしい。これはおそらく時間が癒してくれることを待つ以外にない。
「しゃあねぇな。このままやるぞ」
「大丈夫なのですか?」
「ハンデにもならねぇよ。ただ、使い慣れない装備を外そうと思っただけだしな」
 その証拠にと、闇に潜んだまま気配を殺して接近していたジェノサイドダークロウズを《獣爪》で二つに裂くと、《影牙》で作り出したクナイで立ち上がろうとしていた前方の二体の額を撃ち抜く。
「言っておくが、マスターって高みはてぇめぇらが想像してるより遥かにすげぇんだ」
 それは陽平自身がもっとも近い場所で感じたこと。
 両手に刀を構え、すっと目を細めて、恐怖を知らない機械人形に向けて殺気を放つ。
「この、シャドウフウガマスターの前に立ったことを不幸と思え」
 そう低い声で言い放ち、風雅最強の刃が闇夜に煌めいた。



 波の音が聞こえる。
 ふわふわと体に心地好くて、しばらくその感覚に身を委ねる。
 いったいここはどこだろう。そんな疑問が浮かんだところで光海はゆっくりと目を開いた。
 まだ薄暗い空。時間は明け方くらいだろうか。
 潮風が肌寒いのと、身を委ねていたい暖かさを一度に感じるのは、たぶん誰かの温もりを一番近くで分けてもらっていたからに違いない。
「ヨーヘー」
「よ。目ぇ覚めたか」
 頷いて、一度状況を整理する。
 どうやらどこかの海岸にいるらしく、砂の上に胡座をかいた陽平が光海を抱えている。
 なぜこんなことになったのか、記憶が曖昧で理解が追いつかないが、どうやらもう、安心してもいいということだけははっきりした。
「体、大丈夫か」
「うん。……ねぇ、ヨーヘー。私の体、どこかヘンじゃない?」
 聖弓を使ったとき、光海は確かに変化した。とくに髪が銀色になったのは、光海の中でも大きな衝撃だった。
 銀色の髪。陽平のくれた真珠色のリボンが映えない髪。陽平が似合うと言ってくれた、大切な場所だ。
 しかし、そんな光海の心中を知ってか知らずか、陽平はどこかおどけた笑みを浮かべる。
「どっこもヘンじゃねぇよ。ちゃんと、いつもの光海だよ。たとえどこかおかしくなっちまっても、お前は俺にとって、変わらず光海だろ」
 まるで自分に言い聞かせるような言葉。ひょっとしたら陽平にもなにか大きな変化があったのかもしれない。光海のような、そして光洋のような変化が。
「そうだ。ヨーヘー、お兄ちゃんとレイガは! ヨーヘーが来てくれたんだもん。二人とも無事なんだよね」
 ぐるりと視線を動かすが、光洋の姿もレイガの姿も見当たらない。
 いったいどこに行ってしまったのだろうか。あの怪我だ。そうそう動き回られても困るというものだ。
 それに、ようやく昔の光洋に戻ってくれた。いや、それ以上に家族として新たな一歩を踏み出せたのだ。話したいことはたくさんある。
「ねぇ。お兄ちゃんはどこ?」
「……ここにはいねぇ」
「やっぱり動き回ってるのね。どうして止めてくれなかったのよ」
「悪ぃ。俺じゃ……止められなかったんだ」
「でも仕方ないよね。お兄ちゃん、ヨーヘーのこと嫌ってるもんね」
 不意に、陽平が肩を抱く力が強くなり、光海は驚きのあまり陽平の顔を覗き込んだ。
「ヨーヘー?」
「ごめん……」
 一瞬、どうして陽平が謝ったのか、勘違いしていた。
 てっきり抱きしめる力加減を間違ったことかと思ったのに、陽平は再び謝罪を口にした。
「ごめん、光海」
「なんで、謝るの? ヨーヘーが謝るなんて、おかしいよ」
「……俺は、神様じゃない」
 当たり前のこと。だけどその言葉は、光海に心臓を鷲掴みにされたような錯覚を与えた。
「……う、そ」
 陽平がいるから大丈夫。きっとなんでもできる。そう思っていた幻想が砕かれたような衝撃に、光海は思わず陽平の胸元に掴みかかっていた。
「ヨーヘー、うそだよね? うそだって言ってよ! ねぇ、ヨーヘーっ!」
 されるがままに揺さぶられる陽平は、光海になにを言い返すでもなく、ただ「ごめん」と繰り返す。
「きっとまだ間に合うはず──」
 慌てて立ち上がろうとするが、抱きしめる陽平の腕がそれを許さない。
「ヨーヘーっ! 放して、お願いっ!」
「放して……どこに行こうってんだよ」
「お兄ちゃんを探しにいくのっ! わかるでしょ? ヨーヘーも手伝って」
「ここには、もういねぇよ」
「そんなことないっ! お兄ちゃん、私たちのこと守ってくれるって言ってたもん!」
「いねぇって言ってんだろっ!!」
 陽平の怒鳴り声に動けなくなり、抱きしめられるままに顔を埋める。
 喉が痛い。そう思ったときには、もう嗚咽も涙も我慢ができなくなっていた。
「どうしてっ! どうしていなくなっちゃったの! 私まだ、話したいことたくさんあったのに!」
 陽平が悪いわけではない。そんなことはわかっている。それなのに、行き場のない怒りを陽平にぶつけずにはいられなかった。
「お兄ちゃんを返してっ! 誰か、返してよっ! ねぇ! 返してってら……」
 陽平に髪を撫でられながら、光海は嗚咽を繰り返す。
 しばらく離れて暮らしていたからだろうか。不思議と思い出せるのは、幼い頃のことばかり。泣いていたらいつの間にか傍にいて、抱きしめてくれたこと。風邪で寝込んだとき、朝まで付き添ってくれたこと。ぎこちないながらも、初めて「お兄ちゃん」と呼べるようになったときのこと。
 涙が思い出まで流してしまいそうで、次から次に溢れ出すのを手の甲で拭うけれど、それでも涙は止まってはくれなくて。光海はぐりぐりと押し付けるように陽平の胸に顔を埋める。
 胸も、頭もいっぱいいっぱいで、悲しみに押し潰されてしまいそうな感情を、悲鳴のような泣き声でひた隠す。
 どんな恨み言を吐いても、どんなに理不尽な八つ当たりをしても、光海の闇は、一向に晴れる気配を見せてはくれない。
 誰に救いを求めたらいいのか。何を信じればいいのかわからなくて、光海はただ叫び続けた。
「私もうわからないよっ! 何を信じたらいいのかわからない! こんなの、何も信じられないよっ! 助けてよ! 助けてよ、ヨーヘーっ!」
「……なら、俺との約束を信じろよ」
 そんな言葉と共に、頭を抱え込むように陽平に抱きしめられた。
「俺は、光海との約束を守る。お前のこと、いつだって助けにいくから。ずっと、光海の隣にいるから」
「……ヨーヘー」
 縋り付き、陽平の手にあやされながら、高ぶった感情が少しずつ落ち着きを取り戻していくのを感じる。
「うそ、つかないよね。ヨーヘーはちゃんと、約束守ってくれるよね」
「守る。たとえ遅れることになっちまったとしても、どんなにカッコ悪い姿見せることになっても守ってみせる」
 少しも言い淀むことなく断言する陽平に、光海はもう何も言うことができなかった。
 陽平はきっと、もっとたくさんの約束を守るために生き続ける。どれだけ時間がかかったとしても、約束を交わしたすべての人が納得のいく形を模索するに違いない。
 そしてその中に、今光海との新たな約束が含まれた。
「ヨーヘー……」
「ん?」
「約束……だよ」
「おう。任せとけ」
 そんな、いつも通りの約束は、波紋だらけの光海の気持ちを鎮めていく。
 光海にとっての日常は、相手が普通じゃないだとか、状況が切羽詰まっているだとか関係なしに、陽平と共に在る。ただ、それだけなのだと思い知らされる。
 だからこそ光海は、涙を拭って、こう言ってやるのだ。できるだけいつもどおりに、自分らしく。
「うそついたら、的にするんだから」
 一瞬驚いた顔を見せた陽平も、すぐに光海の意図が伝わったのか、いつもどおりに笑っていた。



 永遠に続くかと思われた攻防に突然の終わりが来たのは、彼ら──星王イクスフウガと、その巫女、菫が戦い始めてから、もう二十四時間以上が経った頃であった。
 全高八百メートルという途方もないサイズの敵と、それを守護するように集まった黒い忍巨兵の群れ。
 それらは今、アメリカの大地を離れて太平洋上へと移動している。
 大地を焼き尽くさんばかりの攻撃は、敵味方一斉に弾薬が尽きた戦場のように静まり返り、イクスフウガはずいぶん前に鴉の群れを残して見えなくなった風雅城の背をじっと見送っていた。
 決して軽くはない傷を抱えたイクスフウガが、その翼を休めるようにゆっくりと地上に降りると、今までイクスフウガの中に控えていた菫が慌てて飛び出してきた。
「イクスっ!」
 今にも泣き出してしまいそうな菫の声に、イクスフウガはフェイスマスクを開いて笑顔を見せる。
「菫。少し休んだら、あれを追いかける。今の姿なら、きっと追いつけるから」
「むり、しないで。イクスはもう、十分以上に戦ったから。もう休んでいいの」
「うん。少しだけ、休ませてもらうね」
「そうじゃないっ」
 白い天使の翼のようだったイクスフウガの身体も、いたるところが裂傷や溶解といったダメージに覆われ、今では美しいままの箇所を探す方が難しい。
 菫が直接触れることで、多少なりと自己修復は早まっているようだが、残念ながら焼石に水のようだった。
「ごめん、菫。僕は君を悲しませることをしているんだね」
「イクス。もう……」
「やめることはできない。遠い昔に、自分自身で決めたことなんだ。心配ないよ。僕はもう、十分すぎるくらいに生きたから」
 優しく笑いかけるイクスフウガに、菫は「違う。そうじゃない」と頭を振る。
 どう言葉にしたら伝わるのかわからず、菫はイクスフウガの足を全身で抱きしめる。
 せめて菫がこうしている間は、留まって欲しい。
「イクス……行っちゃだめ」
 死なないで。傷つかないで。もうこれ以上、自分を犠牲にしないで。
 そんな菫の気持ちは、イクスフウガに確かに伝わっていた。
 だからこそイクスフウガは身体を休め、菫を抱きしめるように、掌でそっと包み込む。
「ありがとう、菫。でも誰かがやらなきゃいけないんだ。さっきの巨兵。あれがこの地を退いた理由が、僕たちがいたからだとは思えない。たぶん獣帝たちが、ガーナ・オーダに最後の戦いを仕掛けようとしているんだ」
 少しでもいい。ほんのちょっとでも、ガーナ・オーダに多くの傷をつけなければならない。
 ……とはいったものの。このダメージでは、よしんば追いつけたとして、再びあの巨兵と満足に戦えるとは思えない。
「陽平、クロス……。僕は必ずキミたちの糧になる。だから少しだけ、ほんの少しだけ、僕に時間を……」
 日本がある方を見つめるイクスフウガの誓いに、剣は静かに脈動した。
 風雅忍軍最後の戦いは近い。それを強く意識したまま、イクスフウガの意識は自らの内に落ちていった。



 もう夜が明ける。
 あれから、どちらからとなく寄り添い砂浜に落ち着いた陽平と光海は、かれこれ数十分は無言で海を眺めていた。
 陽平としても光海の気持ちが落ち着き、動き出すのを待ってやるつもりだったのだが、なぜかこの場にすっかり落ち着いてしまった。
 ボーッと、寄せては返す波を見つめ、心地好い眠気に抗うこともなくウトウト船漕ぎを繰り返す。ただし、たまに吹き抜ける風が季節相応に冷たくて、一気に眠気を吹き飛ばされる。
 そんな何も起きない時間を、何もせずに過ごしたのはいつ以来だろうか。
 隣の光海も同じ気持ちなのだろうか。どことなく眠そうに半目を開いて、陽平の左肩に頭を預けたまま、じっと海を見つめている。
 気まずい。
 なんとなく沈黙に耐えられず、パクパクと金魚のように口を開いては閉じるを繰り返しながら何を話そうか考えていると、陽平の心中を察してくれたのか、ようやく光海が頭を起こしてくれた。
「ねぇ、ヨーヘー」
「なんだよ」
「私が、もっともっと弓を上手になれば、お兄ちゃんにも気持ち、届けられるようになるのかな」
 落ち着いた声でそう尋ねる光海の本心はわからない。盗み見るつもりもない。だけど、それはきっと光海の新たな決意なのだということは、なんとなく陽平にもわかった。
 陽平は先へ進むために、誰かと"約束"を交わす。約束があればそこまで頑張れるし、目標にもなる。たくさんあれば、なおのこと。光海にとってのそれは"弓を上手くなる"ことであり、そうして自分を奮い立たせているのだろう。
 だから陽平は頷いた。
「そうだな。たぶん、あのカタブツそうな人にも届くさ」
「うん。……でも」
 光海の表情が目に見えて陰る。それはきっと、ここから去っていった男が原因だ。
「ちゃんと、伝えられる間に伝えたかったな」
「伝えればいいんだよ。これから何度でも、届くまでな」
「無理だよ。お兄ちゃんがいる場所は、ちょっと遠すぎるもん」
「そうでもないだろ。行けば会えるんだし、遊びに行くくらいの気持ちで行ってみろよ」
 そうだ。何度だってチャレンジすればいい。光海くらいまっすぐに気持ちを向けることのできる人物もそうはいない。あの仁王像のように表情が固まった軍人にだって、きっとすぐに届くはずだ。
 だがどうしたことか。光海は少し驚いたような表情で陽平を見つめたまま硬直している。
「遊びに行くって……どうやって?」
「どうって、別に電車でも行けるだろ。いざとなれば忍巨兵を使えばひとっ飛びだ」
「で、電車でいけるの?」
 やはり光海の表情は驚きのまま固まっている。しかも電車で行けるのが相当驚きなのか、わけがわからないとばかりに首を傾げている。
「そりゃ規則とかあるだろうからすぐには会えないかもしれねぇけど、さすがに家族と面会くらい許してくれるさ」
「め、面会? 規則?」
 やはり意味がわからないとばかりに目を丸くする光海に、今度は陽平が首を傾げる番だった。
 おかしい。何か話が噛み合っていない気がする。
「光海が言ってるのって、あの軍人兄ちゃんでいいんだよな?」
「ヨーヘー、こそ。お兄ちゃん……死んじゃったんだよ……ね?」
「え、なんで?」
 そこで、二人の間に流れる空気が凍りついたような音を聞いた気がした。
 確かに話が噛み合っていないとは思ったが、なにやら盛大な誤解が生じているらしいことは、今の光海の発言からもわかる。
「だって、さっきヨーヘーが『もういない』って……」
「ああ。だから、もうここにはいねぇって伝えただろ? 光海だって見てたじゃねぇか。あの軍人兄ちゃんが連れていかれるところ」
「え? 見てないよ。私、ヨーヘーが助けにきてくれてから目が覚めるまで、その間の記憶ないもん」
「嘘つけ! 半目開けてずっと起きてただろ! 兄ちゃんが連れていかれるときだって、名残惜しそうに『いかないで』とか言ってたじゃねぇか」
「言ってないわよ! そもそもヨーヘーがあんなまぎらわしい言い方するから……」
 その瞬間、陽平は確かに見た。なにもない場所から突然現れて、光海の左手にしっかりと握られる彼女のマイ・弓を。
 ゆらりと怒りのオーラが見えたような気がして、陽平は慌ててその場を飛びのいた。
「この……ばかヨーヘーっ!」
 素晴らしい精度で飛んでくる矢をひらりとかわし、首筋に流れる冷や汗にゾクリと背を震わせる。
「ばかはどっちだよっ! 今本気で当てにきやがったなっ! 俺じゃなきゃ串刺しになってたとこだぞっ!」
「うるさい、ばかっ! 私、すっごく驚いたんだから。すっごく悲しかったんだから!」
「いや、俺だって光海は知ってる前提で話してたんだぞ! 無茶言うなよ!」
 眉間を狙う矢をのけ反りかわして、そのままバク転で距離を取る。
 前提条件が違うなら光海の言わんとしていることもわからなくはないが、いくらなんでも勘違いで串刺しなんて冗談じゃない。
「なんで避けるのよっ!」
「避けなきゃ死ぬだろぉがっ!」
「当たりなさいよっ、ばかっ!」
「嫌に決まってンだろっ、ばかっ!」
 そのまま脱兎の如く逃げ出そうとも考えたが、よく考えてみると光海を迎えに来ておいて置いていくとか本末転倒な気がしてくる。
 渋々ながら、付かず離れずを保ちつつ、光海の矢をかわし続けること十数分。焦れに焦れきった光海が怒りに任せて聖弓を使ったことで、陽平は砂浜の一角ごと吹き飛ばされることになった。
 器用に空中で体勢を整え、胡座のままで着地した直後に土砂降りの砂を一身に受ける。
「ぶぇっ! しょっぺぇしジャリジャリするし、口の中気持ち悪ぃ」
 頭から被った砂を払い、ペッペッと砂を吐き出す陽平に、光海がジト目で詰め寄ってくる。
「ヨーヘーがさっさと当たらないのが悪いんでしょ」
「当たってたまるかっ!」
 そんな理不尽なことを言いながらも、頭や肩にかかった砂を払う光海に、陽平は不機嫌を隠そうともせずに睨み返した。
「それで。お兄ちゃんはどうなったの? 連れて行かれたって言ったけど……」
「ああ。軍人兄ちゃんが重傷だったのは覚えてるんだよな。俺が巫力を分けて傷を治そうと思ったんだけど、思った以上に酷くてな。穴の空いたバケツに水を入れるようなもんだったんだ」
 光海は知らないが、風雅城内で深手を負った琥珀も同じ状態だった。ただし光洋の場合、それに輪をかけて酷い状態だった。
 同じバケツに例えるなら、全体が網で出来ていて、さらにぽっかりと底が抜けている状態だ。
「それに巫力を満たして治そうと思うと、先に隙間を埋めるしかなかったんだ。もうこぼれるより先満たすとか、そういうレベルの状態はとっくに過ぎてたからな」
「お兄ちゃん、そんなになるまで……」
「結局、俺の巫力で穴という穴に栓をして、改めて巫力を分けてやったんだけど……」
 語尾が弱まったのを察してか、光海は少し言い難いことに気づいたようだ。
「ヨーヘー?」
「ああ。まぁ、その……なんだ。逆に詰まっちゃってな。あの軍人兄ちゃん、巫力を使えなくなっちまったんだ」
「詰まった?」
「ああ。詰まった。生き物はみんな、巫力を体外に出す出口みたいなのを全身に持ってるんだけどな。そこを無理矢理全部埋めてから注ぎ込んだせいか、その穴全部が塞がっちゃってな。人として生活する分には頑丈すぎるくらいだとは思うけど、もう忍巨兵では戦えない。風雅の忍者としては死んじまったようなもんだ」
 なんとか生き長らえさせることは成功した。でも、それでもきっと光洋は陽平を恨むだろう。光海のために力を得て、誰かを守るために戦った光洋には、あまりに酷な話だ。
「そんなわけでなんとか一命を取り留めた……というか、もう怪我に関しては大丈夫なんだけどな。死ぬ寸前だった人間がすぐに同じように動くというのは、普通に生活するよりも巫力を消耗する。だから、あいつを迎えに来た国連軍の部下って連中に任せたんだ」
 きっとあのとき抗議をしていた民間人に、突き動かされたに違いない。光洋を探しに来た軍人はみんな決死の覚悟をしていた。それになにより、光洋を大切に思う気持ちが痛いほど伝わってきた。
 もっとも、その軍人たちに質問攻めにされたのはさすがに予想外だったが、結局ほとんど何を話すでもなく光洋を任せて陽平はその場を立ち去っている。
「じゃあ、お兄ちゃんは今、国連軍の基地にいるの?」
「たぶんな。または、関連の病院にでも搬送されたんじゃないかと思う」
「……お兄ちゃん」
「まぁ、そのなんだ。悪かったな。俺も勘違いしてたとはいえ、紛らわしい言い方だったかもしれねぇ」
「かも、じゃなくて、本当に紛らわしかった」
「悪ぃ……」
「でも。ヨーヘーは自分を神様じゃないって言ったけど、それって本当なんだね」
 当たり前だ。それこそ神様なんて存在が本当に在るのだとすれば、それはきっとあの赤い世界の少女のことを指すに違いない。
 でもそれは、光海たちが知る必要のないことだ。これから先もずっと。
 一瞬の思考を隠すように頬を掻き、じっと見つめる光海から目を逸らす。
「でもヨーヘーは、私たちの"勇者"だもんね」
「あんましハードル上げるなよ。これでも俺、いっぱいいっぱいなんだからさ」
 気が緩んでいたのだろうか。僅かに出た本音に光海の表情が驚きに変わっていた。
「ヨーヘー、辛いの?」
 そう尋ねられて「はい」と答えるのはあまりに情けない。かといって光海に隠すようなことでもないと思う部分もある。
 少し回答に迷っていると、光海はなぜか満足そうに笑っていた。
「なんだよ。俺がいっぱいいっぱいだとそんなに嬉しいのかよ」
「そうじゃないよ。ヨーヘーは、変わってないってわかったのが嬉しかっただけだよ」
「変わってない、ね。結局人ってもンは、周りの環境が変わっちまうとそれに慣れようとするだけで、本質は変わらないのかもしれねぇな」
 それは釧や琥珀、柊や楓、瑪瑙や浩介、そして光洋を見ていて思ったことだ。
「手ぇ伸ばせば、こんな簡単に繋がれるはずなのにな」
「そうだよね」
 陽平の伸ばした手を光海が握り返す。たったこれだけのことで人は気持ちを繋げることができるというのに、どうしてこうも回り道をしたがるのか。
 それこそ、光海の矢のようにどこまでもまっすぐに飛んでいけばいいのにとさえ思う。
「ぶぇ。まだ口の中ジャリジャリいってやがる。くっそ。目の前にこれだけ水があるってのに、うがいには向いてないときたもんだ」
 立ち上がりズボンの砂を払い落として、再度口の中の砂をペッペッと吐き出す。やはり一度水かなにかで濯いでしまうのがいいだろう。
「もぉ。ばかなんだから。ほら、顔にも砂ついてるよ」
「お、悪ぃな。って、これお前のせいじゃねぇかよ」
「わかってるわよ。だから払ってあげてるでしょ」
「いや、割に合わないだろ。って、やっぱ気持ち悪ぃな。ちょっとジュースでも買ってくるか」
 ぐるりと周囲を見渡して自動販売機の姿を探してみる。どうしてああいうどこにでもあるはずのものというのは、探しているときに限って近くにないのだろうか。
「少し戻らねぇとさすがにねぇか。しゃぁねぇな……」
「ヨーヘー」
「ん? どうし──」
 背後から光海が近づいてきているのはわかっていた。でも、声をかけられて振り返った瞬間、光海の不意打ちは陽平の神経を一瞬で焼き尽くした。
 光海の両腕が陽平の首の後ろに回されて、陽平の口が光海の唇で塞がれて、ふわりと浮かぶ黒髪が、朝日に照らされて美しく輝いて。
 なにが起こったのか理解するのに、ほんの少しだけ時間を要した。
 キスを、された。
 驚きのあまり硬直したが、目を閉じたままの光海に流されるように陽平も自然と目を閉じる。
 少しの静寂が訪れた。聞こえるのは小波の音と、風が二人の横を通り過ぎていく音だけ。
 ゆっくりと離れる光海に合わせて目を開き、思わず指先で自らの唇に触れる。
「光海……」
「本当。少しじゃりじゃりしたね」
「いや、そうじゃなくて──」
「私ね、やっぱりヨーヘーのこと、大好きなの」
 そう言ってくれた光海の頬は朝焼けの中でもはっきりとわかるくらいに赤くて、きっと自分も同じくらい赤くなっているのだと思うと気恥ずかしくなってくる。でも、目を逸らせない。逸らすわけにはいかない。今、光海はまっすぐに想いを伝えてくれているのだから。
「私ね、ヨーヘーがいない間、ずっと考えていたことがあるの。なんだかわかる?」
「……いや、わからねぇよ」
 《鬼眼》を使って心を盗み見るつもりも毛頭ない。
「ずっと、『いつになったら日常に戻れるのかな。こんなところまで来ちゃって、ちゃんと元通りに戻れるのかな』って思ってた」
 そう言われると、こんな世界に連れ込むきっかけになってしまった身としては申し訳なくなってくる。
 しかし光海は陽平の気持ちを察し、そうじゃないと首を横に振った。
「それって、私が勘違いしていただけなの」
「勘違い?」
「うん。実際、ヨーヘーに会うたびに、私はきっといつもの私に、日常に戻っていた。さっきだって……」
 そう言われると、そう思わなくもない。確かに光海といるときは、なぜか素のままの自分でいた気がする。
「きっと私の日常ってね、ヨーヘーの中にあるんだよ」
 そう言って笑う光海から、思わず目を逸らしそうになるのを踏みとどまる。光海の言葉を最後まで聞くのは陽平の義務だ。
 いや、そうじゃない。

──俺は光海の言葉を聞きたいと思っている。

 陽平がそう、はっきりと認識した瞬間、光海は髪からリボンを解いて、それを大事そうに胸の前で抱きしめた。
「ヨーヘー、大好きだよ。ずっとずっと、いつまでだって大好きでいたいよ」
 まっすぐな想いが、陽平の胸に打ち込まれていく。
 どうやらもうこの幼馴染は、これ以上ないくらいに"矢文"が上手くなっていたらしい。
「……正直、驚いてる」
「うん。そうだろうね。今のヨーヘー、そういう顔してるよ」
「すぐに顔に出ちまうなんて、忍者失格だな。でも、嬉しいとも思ってるよ」
 クラスメイトの咲や、楓たちの言葉で察することができた。気づくことができたときも驚きはしたけれど、そのときは戸惑いの方が大きかった。でも今は、確かに嬉しいと感じ、光海の視線に緊張している。
「強いな。まっすぐで、なんつーか本当にでっかく見える」
「だって、私はたくさんの人に支えられてるから。親友の恋心も託してもらった。私の想いはたくさんの心に、人の気持ちっていう広い海に抱きしめられているから。だから独りでいるときよりも、ずっとずっと強くなれる」
 あまりの恥ずかしさに視線を逸らしたかったけれど、なぜか光海の目から視線を外すことができなかった。
 誇らしげに語る光海は、どこか幻想的で。陽平の目にはきらきらと輝いて見えた。
 陽光を背にしているからとか、そんな現実的な話ではなくて、ただ純粋に綺麗だと、そう感じていた。
「ねぇ、ヨーヘー。ひょっとして私以外にも……言われたの?」
 一瞬、放心していたかもしれない。なかなか答えない陽平に心配になったのか、尋ねる光海はどこか不安そうに見える。
「楓ちゃんとか、瑪瑙ちゃんとか、翡翠ちゃんだっているもんね」
「ちょ、ちょっと待て。確かに楓にはプロポーズまでされたけど、瑪瑙も翡翠もありえねぇだろ」
 瑪瑙はずっと待ち続けた存在があり、翡翠にいたっては主であり、尚且つまだ子供だ。どちらも光海の杞憂にはなりえない。
 しかし光海はそう思ってはいないらしく、じと目で陽平を睨みつけている。
「ふーん。とにかく、楓ちゃんは目下のライバルってわけだね。ひょっとしてヨーヘー、もう楓ちゃんに応えたの?」
「ま、まさか! ガーナ・オーダとの決戦を控えてるってのに、さすがにそこまで節操なくねぇよ」
 それに、光海の気持ちをちゃんと聞いておきたいと思ったのだけれど、それは黙っていることにした。
「よかった。それなら私も、答えはみんな終わってからでいいよ。私だけ先に答えてもらうの、ズルいもんね。それに」
「……それに?」
「まだ時間があるのなら、私はもっとヨーヘーを好きになれるし、ヨーヘーに好きって思わせることもできるから」
 さすがにこう好き好きと連発されると、陽平も恥ずかしさが窮まってくる。それはたぶん光海も同じなのだろう。先程よりもずっと頬が赤い。
 照れ隠しに頭を掻き、視線を宙に泳がせる。
「ねぇ、ヨーヘー」
「なん──」
 言い終わるより前に、光海が胸に飛び込んできた。
 背中に回された腕には力が篭り、光海の震えが伝わってくる。
「約束だよ。ちゃんと終わらせて、私たちみんなに答え、聞かせてくれなきゃダメだからね」
 約束。この言葉をいったい何度紡いだだろうか。
 この言葉があったから頑張れた。この言葉があったから進むことができた。この言葉があったから、立ち上がることができた。
 だからきっと、今度もこの"約束"のために帰ってくる。
 だから陽平は、光海の耳にだけ聞こえるようにそっとささやいた。
「約束だ。ガーナ・オーダをぶっ倒したら、ちゃんと返事する」
「約束だよ。倒すっていうのも、約束になったよ?」
「当たり前だ。俺だって、今こうして、海に抱かれてるんだ。どこまでだって強くなれるさ」
 どのくらいそうしていただろう。緊張の沈黙を破るように、慌てて言葉を紡いだのは光海だった。
「ヨーヘー……。私ね、すっごく嫌な子なんだよ」
「……そうか? どっちかってぇと、光海は気を遣いすぎるくらいだと思うけどな」
 自分のことよりも、困っている誰かのため。そんな生き方が誰よりも似合っている光海を嫌がるやつはそうそういないだろう。
「ううん。私ね、喜んでるの。お兄ちゃんが大変なことになって、楓ちゃんがまだ答えをもらってないって知ったのに。ヨーヘーとこうしてることが嬉しくて、他のなにを犠牲にしてもいいくらいに幸せで……」
 首に回された光海の腕が、僅かに強張った。
「ヨーヘー……離れたくないよ。ずっと繋がっていたい。どんな形でだって構わないの。ヨーヘーの傍にいたい」
 飾らない気持ち。さらけ出した本心が鼓膜に響く。首筋を通り、脳髄に焼き付くような声が、陽平を求め続ける。
 答えを先送りにすることが、傷つける人を増やしているだけだということもわかっている。
 理解しているのに、応える勇気がないのは、未だに自分の気持ちと向き合えていないからなのか。
 鼻腔を擽る香りが陽平の思考を鈍らせる。理性を焼き尽くすような甘い声が、何度も耳に囁かれる。
 抱きしめる腕を無理矢理引きはがし、光海の両肩を掴んで勢いよく身体を離す。
「拒絶されちゃった……ね」
「いや。このままじゃ俺がどうにかなっちまいそうだったから。……だから今は、これでごまかされてくれないか」
 そう言うや否や。陽平は照れているのがバレないように、勢いで顔を近づける。
 驚きで固まった光海の顔を横切り、髪をさっと掻き上げて光海の頬に唇で触れる。
 ゆっくりと時間をかけて離れた二人が、顔を真っ赤に向き合っている姿というのも滑稽なものだが、まるで金縛りにでもあってしまったかのように動けないのでどうしようもない。
 それは光海だけでなく、自分からやった陽平も同様で。目の泳ぎっぷりが、陽平の動揺を測るバロメーターであるかのように忙しなく動き回っている。
 沈黙の間だけ気まずくなり、いざなにか口にしようと光海の様子を伺えば、さっきにも増して耳まで赤くなった光海が、なにかを言いたげに陽平をじっと見つめていた。
「よ、ヨーヘー……」
 喉を鳴らして息を呑み、だんだんと光海の唇にだけ意識が集中していく。
 仄かに光ったピンクの唇が震え、少しずつ開かれていく動きから目が離せない。
「わ、私──」
 しかし、光海の言葉が最後まで紡がれることはなく、突然の突風が二人を包み込むように吹き荒れる。
顔をしかめた陽平は、突如として頭上に現れた超獣王グレートカオスフウガの姿に光海を庇うように空を仰いだ。
「グレート……カオスフウガ。釧?」
 陽平の言葉を肯定するかのように姿を見せた釧は、普段の彼から想像もつかないほど、血相を変えて陽平に声を張り上げた。
「風雅陽平! 早く、マスタークロスフウガをっ。このままでは翡翠が奴等の首魁の手に渡ってしまうっ! もう時間がないんだっ!!」
「翡翠が! どういうことなんだっ!?」
「ここで詳しく説明している時間はないっ! 急げ、風雅陽平っ!」
 光海の手に触れられた腕は、心が満たされるほどに温かいのに、なぜか釧の言葉は陽平に今までにない悪寒を走らせる。
 独りでいるのが肌寒い十二月。この地球という惑星を舞台に、風雅忍軍対ガーナ・オーダの、決戦の火蓋は切って落とされた。













<次回予告>