時非高校でアクション映画顔負けの戦闘が開始された頃、陽平は思いもよらなかった女性を相手にデートの真っ最中であった。
腕を組み、出来る限りのエスコートをしているつもりではあるが、いかんせん相手が上玉過ぎてまったく釣り合っていない。
そんなことは百も承知だというのに、当の本人が一番理解しているというにも関わらず、周囲の視線は否応なしに陽平を串刺しにする。
ああそうだ。自分は仲間たちに厄介な相手を押し付けたにも関わらず、極上の美人とデートなんかしているよ。だからってこの怨みや妬みの視線はやりすぎじゃないか? 世の男連中にしてみれば、相当美味しい思いをしているのはわかってるよ。仕方ないじゃないか。こういう星の下に生まれちゃったんだからさ。
そんな、やけに卑屈な思考になりながらも陽平は隣を歩く琥珀の様子が気になって仕方がないのだが、肝心の琥珀はというとどこ吹く風といった様子で、目にするものすべてに感動している真っ最中だった。
話がある。琥珀は確かにそう言った。しかし、そんな素振りはまったく見せないし、今だってほら、世界レベルのチェーンを誇るファーストフードの看板を指差してあれはなんだとしきりに尋ねてくる。
琥珀の意図がまったくわからない。よもや遊ぶために御忍びで現れたというわけでもあるまい。
それに、琥珀の鬼眼――読心ならば、今現在の陽平の葛藤が手に取るようにわかるはず。まさかと思いながらも、遊ばれているのかと疑いたくもなるのも無理からぬ話だ。
「あの……」
自分で思った以上に申し訳なさそうな声が出た。
聖母というよりも、いたずら好きの妖精のような笑顔がこちらを振り返り、陽平の心臓が大きく跳ね上がる。
だが陽平は見逃さなかった。ほんの一瞬だけど、琥珀の表情が今にも泣き出しそうなほどに陰ったことを。
その表情の意味するところはわからないが、少なくとも陽平には、なにか許しを乞うているよう感じた。
「もう少しだけ、わがままを許してください」
琥珀の言葉に黙って頷くと、陽平は組まれていた腕をほどき、琥珀の雪のように白い手をしっかりと握り締めた。
「え……?」
「琥珀さんの驚いた顔なんて初めて見た。だから、たぶんこれが正解なんだと思う」
有無を言わさず手を引く陽平に呆気に取られたのも束の間、すぐに笑顔に戻った琥珀は、少女のようにはしゃぎながら、逆に陽平の手を強く引っ張っていく。
「陽平さん、教えてください。陽平さんたちが、いつもどんなものを見て、感じて、過ごしているのかを……」
それは陽平たちくらいの年齢の時期を、使命という重荷を背負ったことで目を瞑って過ごしてしまった琥珀ならではの言葉だった。
走りながら振り返る琥珀に頷くと、陽平はすぐさま方向転換する。
そういう気持ちを味わいたいのなら、確かに主従という関係は邪魔になる。
少々失礼な気もしたが、ここは友人といるように接するのが正解なのだろうと割り切ることにする。
「箱入り娘にゃ、ちょっとばかしハードだけど?」
「臨むところです」
空いた手でガッツポーズを作る琥珀が可愛らしくて、陽平はついつい頬が緩むのを感じた。
「よっし。なら後悔するまで遊ぶぞ!」
なぜだかわからないけど、そうしなければいけない気がした。そうすることが琥珀を救うことになるような、そんな直感が陽平を無理矢理突き動かしていた。訊かねばならない。訊いて、琥珀を止めねばならないような予感を感じながらも、陽平はその可能性から目を背け続ける。それが琥珀の望みならば……と。
ゲームセンターで、騒々しさで目を回す琥珀が可笑しくて、涙が出るまで笑い転げた。
カラオケで、意外にも地球の歌を歌えたことに胸を張る琥珀が可愛らしくて、なんだか笑ってしまった。
立ち読みのできる本屋で、コミックを読破した琥珀が必死にストーリーを説明してくれるのが新鮮で、思わず聞き入ってしまった。
公園で、二人して両手のクレープを一度に口にしたことで、鼻の頭についたクリームが可笑しくて、指を刺して笑い合った。
いつもの喫茶店で、珈琲は苦いから嫌だと拗ねる琥珀に、ジュースを注文してやった。
通学路で、眩しい夕焼けをいつまでも見つめていた琥珀が切なく見えて、とても言葉をかけることができなかった。
気がつけば辺りは暗く、陽平は黙って琥珀が動くのをじっと待っていた。
結局こんな時間になってしまったが、琥珀の話を聞かないわけにもいかない。
遠慮がちに歩み寄る陽平に気づいたのか、琥珀は結った髪をほどきながら、徐に振り返った。
感情のない瞳が陽平を見上げ、その姿があまりに似ていることに陽平は絶句した。
「獣岬へ……行きましょうか」
そう呟いた琥珀の手を取り、陽平は静かに頷いた。
ゆっくりと歩みを進め、互いに無言のまま獣岬を目指していく。楽しい時間はもうお終い。獣岬に着けば、きっとまた、当主と忍者、主従の関係に戻ってしまう。
そのためだろうか。なぜかゆっくりと、一歩ずつをかみ締めるように歩いていく二人は、この瞬間を忘れぬよう握り合った手に力を込める。
風雅の里にはないイルミネーションが夜の街を彩る中、琥珀は夢を見ているような表情を浮かべていた。
行っちゃいけない。このまま帰るんだ。陽平の本能がそう告げている。警告を鳴らしている。知れば後悔すると後ろ髪を引いている。
そんな陽平の気持ちが見えたのか、琥珀は陽平の方を見ようとはせず、ただ小さく頭を振った。
時非駅を越えて、歩きにくい岩場に入っていく。
勇者忍者になってから知ったことだが、この獣岬を含めた時非市の一帯は風雅の私有地が多く存在しているらしい。それらはすべて、幼かった琥珀が覚えている、最後の土地だったからに他ならない。
獅子を象ったような岬に到着した二人は、どちらからともなく手を解き、少し距離を置いた。
空には月が顔を見せ、辛い過去が否応なしに陽平の胸をえぐっていく。そして、今日もまた……。
「まずは、貴方たちに謝罪しなければなりません」
そう言って膝をつき、両手をついた琥珀が、深々と陽平に頭を下げる。
さすがに驚いたが、陽平はそれを止めるようなことはせず、黙って話が終わるのを待つことにした。
「私は、陽平さんたちを利用していました。私個人の感情で、勇者忍軍の皆さんを危険に晒し続けてきました」
それは当主として当然の行為。そう思ったが、琥珀は今なんと言った。「私個人の感情で」と確かに口にしたではないか。陽平には、なんとなくそれの意味するところがわかっていたからこそ、ここで口を挟む気にはなれなかった。
「黒衣の獣王。彼がこの地に現れて以来、私の信念は揺るぎました。使命など、あの日から投げ捨てていました。彼を中心に据え、どう動くことが彼の利益になるかを考え、常に彼のためだけに行動を起こしてきました」
彼に一人でも仲間をと輝王センガの封印を緩め、感知しやすいようにしたこと。隕石事件の際、戦王ホウガが犠牲になることを承知で、彼が潜伏するだろう一帯を守ったこと。獣王クロスフウガが双武将に敗れた際、本当は彼を探しに現れていたのだということ。竜王は彼を守るための忍巨兵だったこと。竜王の早期投入は、囚われた彼を救い出すためだったこと。混沌の獣王が倒れたとき、彼をクロスガイアの元へ飛ばしたこともあった。陽平たち勇者忍軍に修行を施したのも、彼が復帰するまでの時間を稼ぐためだ。そして彼が陽平を追っていることを知りながら獣王の証を取りに行かせた。椿には、次に彼と接触することがあれば忍獣サイハを託すように言っておいた。
そう。すべては彼のために起こした行動だったのだ。
一向に頭を上げようとしない琥珀に、話を聞いた陽平はただ狼狽するばかりだった。
頭を上げてくれ。そう言うことができなかった。もし、今の感情を琥珀が見れば、きっと悲しませてしまうから。
でも、そんな感情もすぐに許すことができたのは、陽平が確信に近い推測をしていたからに他ならない。
「それは、琥珀さんが翡翠の姉妹だからですか?」
陽平の言葉に琥珀は驚かなかった。過去の世界で琥珀に出会っている以上、陽平にばれるのは時間の問題だとわかっていた。だからこうして打ち明ける気にもなった。
頷く琥珀に、陽平はやっぱりと思うと同時に、琥珀の行動を許せてしまえる気がした。
「釧は、琥珀さんにとっても兄貴なんですか?」
やはり琥珀は頷いた。
それは即ち、琥珀は風雅の当主や統巫女である以前に、リードの皇女であることを示している。
それならば話は早い。忍者にとって主人の命令は絶対で、陽平が主人と認めた翡翠の姉妹ともなれば、陽平にとっては翡翠と同じように大切な存在でもある。
そしてそれは、釧にとっても同じことなのだ。
光海とデートをした日、釧に出会って陽平が再確認した、自分の守るべき相手。それはリードという星の王家最後の生き残りである釧、琥珀、翡翠の三人だったのだ。
「でも、それならどうして誰も琥珀さんを"姫"って呼ばないンですか? 忍巨兵だけじゃない。親父も、椿さんもだ」
「私はある事件をきっかけに、姫という立場から逃げたのです。姫としての自分を捨て、和睦の使者としてこの地球に逃げ延びました。使命という言葉から逃れたい一心で故郷を捨てたのです。そんな女が姫でいられるはずがない」
自嘲気味に話す琥珀に、陽平はそんなことはないと小さく頭を振る。しかし、故郷を捨てた者が姫を名乗れるはずがないということもわからないわけでもない。王家とは責任を背負う一族のことを言うのだ。その一族が責任を放棄したならば、それはすでに王族ではない。
「私はリードの秘宝を使い、私に近しい者から順に当時の私の記憶を混濁させていきました。記憶を上書きしたと思っていただければわかるかもしれません」
相変わらず危険に満ちた秘宝の多い惑星だったのだと痛感させられる。不完全とはいえ、よもや記憶操作の秘宝まで存在したとは驚きだった。あくまで陽平の想像にすぎないが、翡翠もおそらくその秘宝の効果で琥珀のことを姉妹と認識できないのだろう。
「効果の薄かった者や忍巨兵には、和睦の使者としてリードを離れるためだと言い聞かせて"姫"と呼ぶことを禁じました」
「それで当主ですか」
「はい……。結局、リードは消滅して、私は遠いこの地において姫としての使命を再び突きつけられることになりました」
皮肉なものだ。逃げ出したために難を逃れることとなり、結果として姫としての使命を果たさねばならなくなった。
「その使命ってのは、いったい……」
「リード最大の秘宝。生命の奥義書の完成を以って、リードを蘇らせること」
リードが絶望に飲まれたとき生命の奥義書はその力を発揮すると、以前獣王クロスから聞かされた。しかし、その発動に王家の存在が不可欠であったとは驚きだった。
消滅する寸前、母星から送られてきた文が琥珀に全てを知らせ、この地球という地で風雅とガーナ・オーダの戦いが再開されたときから琥珀は"姫"に戻っていたのだ。
逃げたくても逃げられない。生まれ持った責の重さが、琥珀の心を常に責め立てたのだ。
それはどれほどの苦しみだったのだろうか。どれほど恐ろしくとも、どれほど力不足であろうとも、琥珀は全てを託され後に続く者たちの希望にされた。
そんなとき、頼りにしていた、大好きだった兄が現れればどうなる。そんなこと考えるまでもない。
琥珀はただ、一人ぼっちが心細くて兄にすがっただけなのだ。
「なら、しょうがないッスよね」
そう言って笑ってみせた陽平に、琥珀は驚きの表情で頭を上げる。
頬が涙で濡れている。それだけ、琥珀が自分の行為に罪の意識を感じていたということだ。
だから、もういい。もう許す。それ以前に気にしない。だって、琥珀のすることが陽平たちにとってすべてマイナスだったわけではないのだから。そして、守るべき姫君が涙を流して頭を下げた時点で、陽平こそ忍者失格だったわけで……。とりあえずバツが悪そうに苦笑を浮かべて見せた。
「陽平さんは、私を怨まないのですか? 私を、罵らないのですか?」
「琥珀さんなら聞かなくてもわかると思いますけど、怒りませんし、怨んでもいません。まぁ、他の連中には内緒にしときますけどね」
そう言って笑う陽平に、琥珀はわけがわからないといった表情で彼を見上げた。
そんなことで割り切ってしまっていいのか。陽平は忍者だからと、琥珀は姫だからと、それだけで本当に割り切れてしまうものなのだろうか。
「それでいいンすよ。だって俺、いちおうリードを守る勇者忍者みたいだし……」
ニッと笑った陽平は、照れ隠しでそっぽ向くものの、恥ずかしそうに頬を掻きながら琥珀に手を差し伸べる。
手を取る琥珀を引き起こし、涙で濡れた頬にそっと人差し指で触れる。
「琥珀さんが感情を露わにして、俺の前でだけ泣いた。これに勝る理由なんかないでしょ」
ちょっとスカし過ぎましたかね。と付け足し照れ笑いを浮かべる陽平に、琥珀は安堵と喜びの笑みを浮かべた。
「とにかく、琥珀さんがこれ以上責任とか感じることはないですし、ましてや俺たちに遠慮することなんかないってことです」
「陽平さん、貴方という人は本当に……」
小声で呟いたために最後の部分が聞き取れなかったが、琥珀の表情が全てを物語っている。この笑顔を見られただけで、自分の回答が間違っていなかったことを証明できたようなものだ。
「守りますから。俺が、必ず!」
翡翠を、琥珀を、そして釧を。それが勇者忍者の使命でなくとも、きっと守ってみせる。
しかし、そんな陽平の決意に水を刺したのは、何を隠そう琥珀自身の言葉であった。
花のような笑顔は瞬く間にしおれ、そこの残ったのは後悔の念を抱えた者の表情だった。
「陽平さん、それは無理なのです」
「釧のことですか? それなら多少強引に押さえつけてでも……」
「兄上のことではありません。私のことなのです」
来た。
陽平の本能が告げる警告音が耳鳴りになって聞こえるほど大きく膨れ上がっていく。
だめだ。聞いちゃいけない。そう告げる本能を抑えつけることができたのは、先ほど琥珀に誓った「守る」という言葉があったからだった。
先ほど話し始める前に、琥珀は「まず謝罪を」と言っていた。つまり、今から口にする話こそが本題。陽平に、琥珀個人として聞かせるための話ということだ。
「近い未来、私は命を落とします」
その言葉に、胸が苦しくなるほど激しい動悸が陽平に襲い掛かる。
「命を落とすって……病気とかですか」
琥珀は頭を左右に振る。
「じゃあ、俺たちの治療に命を削っていた……とか」
琥珀は再び頭を振る。
「じゃあ……!」
「私は、自ら命を絶ちます」
風が吹き抜けた。陽平の思いも、琥珀の涙も吹き飛ばしてしまうような風が二人の間を吹き抜けていった。
冗談でしょ? とも、うそですよね? と尋ねることもできず、目を見開いて拳を震わせる。
「それこそが、私たちリード王家の生き残りの願いなのです」
使命という二文字の重さが想像をはるかに超えていたことを、陽平はこのとき胸が痛むほどに痛感した。
時は遡り、陽平と琥珀が楽しげにデートをしていた頃、時非高校は戦場と化していた。
硝煙の臭いがたちこめる中、来栖──十字架が廊下の窓を開け放つ。
身を隠しながら攻撃を繰り返してた柊や楓は、正直これほどの使い手と思っていなかった自分たちを呪っていた。それは光海も同じらしく、十字架の戦闘力に迂闊に援護射撃を行うことすらできずにいた。
強い。身を隠しながら風雅忍軍の誰もがそう感じていた。この実力、風雅マスターと呼ばれる風雅雅夫に匹敵するものがある。
唯一の救いは彼が雅夫のように風之貢鎖人【カゼノクサリ】のような能力を持ち合わせていない、ただの人間だということくらい。あとは彼の武器が拳銃ゆえ、いつかは弾切れを起こすという安心感があることくらい。
しかし見事なものだ。手裏剣などの投擲を銃弾で落とすのではなく、銃身で叩き落して防御するなど常人では考えられない芸当だ。無駄弾は少なく、その射撃が恐ろしいほど正確無比。
風雅雅夫が刃物のエキスパートなら、この十字架という男は銃器のエキスパートなのかもしれない。
柊と楓の視線が十字架が両手に持つ拳銃に注がれる。拳銃との実践訓練経験がある双子には、相手の得物がなんのかを把握する癖がついている。
グロック22カスタムタイプ。装弾数は十五発。先に一発装填してからマガジンを入れておけば十六発。ポリマーフレームの柔軟性が撃った反動の衝撃を和らげるとはいえ、片手で連射できるような代物ではない。銃身はなんらかの合金カバーがついているらしく、刃物が通らないことは先刻承知済み。
術よりも早く、刃物よりも距離がある。銃火器を相手にする場合、建物の中で遮蔽物を利用して戦うのが定石だが、この男にはそんな定石が通用しない。
忍者に匹敵する歩法でも持っているのか、容易く忍者の間合いを殺してくる相手に柊も楓も完全に舌を巻いていた。
「かくれんぼか。あまり子供の遊びに付き合ってられんがな」
そう言って再び進攻を始める十字架に、柊が物陰から駆け出した。
疾風。そう表現するに相応しい速度で間合いを詰めた柊は、十字架の真正面で風遁の障壁を展開すると狙いをつけられない拳銃を無視して回し蹴りを放つ。
だが、十字架はそれを迎撃するつもりはないらしく、蹴りを避けつつ風の障壁の影響が出ないところまで後退すると、煙草の煙を吐き出しながら引き金を引いた。
「っととっ! アブねッ!」
銃弾を回避しつつ、慌てて柊も再び物陰へと駆け込んでいく。先ほどからこんな応酬が何度となく繰り返されている。
やはり決め手になる作戦でも練らない限り、この男を止めることはできそうもない。
だがこの男、相当場慣れしているらしく、こちらがアイコンタクトで作戦を伝えようにもそれだけで狙いがばれてしまう。さすがの楓もこれにはお手上げ状態であった。
一見手数で攻めるのが効果的に思えるが、十字架の射撃はとにかく早い。弾切れを起こしてもどこから取り出したのか、すぐに満タンのマガジンを装填される。極めつけは対刃対弾用繊維を縫いこんだ白衣。これを巧く振り回して楓の飛刀を容易く叩き落してくれるため、牽制が牽制にならないのだ。
あとは光海の弓が頼りの綱だが、十字架は常に光海の狙いにくい位置取りを行っているため、普通に射た程度では当たりそうもない。
再び鳴り響く銃声に柊と楓が同時に動き、楓は十字架めがけて手甲の忍器、鳳王之黒羽【ホウオウノクロハネ】から巫力の糸を無数に飛ばしていく。
だが、てっきり硬い銃身を絡ませて避けると思ったのも束の間、楓の目の前で回れ右をすると、十字架は撤退とばかりに駆け出していく。
「え、ちょっと!」
「さすがの俺様も、そんなもの相手に身を晒すほど頑丈じゃないんでな」
「んじゃ、オイラと踊ろうよ!」
すぐ隣まで追いついてきた柊の言葉に十字架が不敵な笑みを浮かべる。
「ダンスは苦手なんでな。一人で舞台に上がんな!」
十字架の持つ拳銃が火を噴き、柊は壁や天井を飛び跳ねながら回避し続ける。
やはり慣れない武器とはやりにくいと舌打ちする柊に、十字架は「やるねぇ」と感嘆の声を漏らす。
このままではジリ貧だ。いつまで経っても勝てやしないし、疲れればそれだけ経験の差で追い詰められるに違いない。
影衣をまとって仕留めるべきか。そんな考えが二人の脳裏を過ぎった瞬間、思いがけない手札が十字架の足を止めていた。
とりもちのように粘着性のある水が十字架の足を廊下に縫いつけ、その動きを止めたのだ。
すぐにそれが瑠璃と璃瑠の術だと気づき、柊と楓は顔を見合わせると、やれやれと溜め息をつきながら十字架へと近づいていく。
「チッ。これじゃまるでゴキブリじゃねぇか」
「随分と単純な手にかかりましたね。十字架さん」
辺りが暗かったからだろうか。いや違う。十字架がこんな単純な罠にかかったわけは、もう一人潜んでいた別の人物の介入があったからだ。
暗闇に浮かび上がるように現れた男の姿に、十字架は苦笑を浮かべ、柊と楓は驚いたように顔を見合わせる。
「ざまぁないな。十字架」
「凪【ナギ】。やっぱお前の関係者か。武器も戦い方も似てるからピンと来たぜ」
凪と呼ばれたその人物を双子は知っている。風雅忍軍の忍者マスターにして、風雅陽平の父親、風雅雅夫その人だ。
「お前の横槍がなけりゃこんなくだらねぇ手にかかりゃしなかったものを……」
「いや。ワシの手がなくともお前は投了していたさ」
顎をしゃくり、窓の外を指した雅夫につられて、その場の全員が隣の校舎の屋上を見上げる。
そこには、美しい月を背に弓を構え、今もなお十字架を狙い続けている光海の姿があった。
もしもここで歩みを止めていなければ、障害物などお構いなしに光海の矢が十字架を襲っていたことだろう。
「俺の敗因は隠れっぱなしのちっこいのを戦力外と無視したことと、あのガキがスナイパーだったことを見抜けなかった俺自身……か」
「あと、本気で殺そうとしなかったことだな。お前が本気なら、今頃身元不明の死体が転がっていただろうさ」
雅夫の言葉に苦笑を浮かべた十字架は、やれやれと溜め息をつきながら拳銃をしまうと、ようやく両手を挙げて降参の意思表示を見せた。
結局、十字架は雅夫が引き取ることで事件はひと段落。光海たちはおとなしく帰路についた。
それにしても人騒がせな事件だったと思わざるをえない。結局のところ十字架がなにをしたかったのかも、当の光海たちはわかっていないのだから。
白衣からいつものロングコートに戻った十字架の隣を歩き、雅夫は彼が話し始めるのを待っていた。
そこそこ長い付き合いから、雅夫はこの男の性格はよく知っているつもりだった。
案の定、沈黙に耐えられなくなった十字架は、国連軍の夜鷹奈緒から受けた依頼の内容を話し始めた。
「国連軍はあのガキどものことを欲しがってやがる。夜鷹サンは知らんだろうが、軍内部には力ずくで探し出そうって声も上がってる。むしろ、そっちの方が勢いは強いくらいだ」
わからなくもない。なすすべのない軍が抗う力を欲するのは当然のことだ。だからといって、これ以上無関係の人間に忍巨兵やリードの存在を公にしてしまうわけにはいかない。
過去、織田信長に渡ったリードの技術が、今もなおこうして戦の火種となっている。そんな過ちを再び繰り返させるわけにはいかない。
「で。あの若い戦士たちがそれに見合うだけの力を持つ者なのか、知りたくなったか」
「まぁな」
煙草をくわえ、銀のライターで火をつける。吐き出した紫煙が月夜に昇っていくのを見上げながら、二人は困ったように眉をひそめた。
「荒削りだが、若いクセによくやる」
「それだけに背負うものは大きい。だからこそワシらのような者が陰で動かねばならない」
「それでか。最近、少しずつだが国連軍の過激派連中が鳴りを潜めてやがるのは」
呆れ果てた十字架の言葉に、雅夫は笑って誤魔化した。
国連軍の過激派は、ガーナ・オーダだけでなく風雅忍軍さえも侵略者だと決めつけ、あらゆる方面から正体を探ろうと躍起になっているらしい。
忙しいはずだ。雅夫のやっていることを知ってしまった十字架は、あまりにばかばかしいことだと頭を振る。
「自分のケツぐらい自分に拭かせりゃいいのによぉ」
「いや。ワシらのケツを子供たちに拭かせているのだ。ならばこのくらい買って出ねばなるまい」
十字架はあえて風雅のことを尋ねようとはしなかった。聞けば関わることになるし、聞いたところで雅夫が答えるとも思っていないのだろう。そもそも、依頼以上のことはしない主義だ。
「お前に言うことじゃねぇだろうが、気をつけろ。俺たちの世界とそっくりな臭いがしてやがるぜ」
隣人さえ疑ってかからねばならない世界。裏の仕事と呼ばれる、十字架や凪──雅夫の舞台。それが今、陽平たちの立つ舞台に重なろうとしている。
十字架に忠告されたことがそれほど可笑しかったのか、笑いを堪えながら離れていく雅夫の背中に十字架は嫌がらせとばかりに紫煙を吹きかけておく。
それにしても世界は本当に面白い。これだけ特殊な環境に身を置いていながら、未だに理解できないことや未知の世界が広がっている。
えらく久しぶりに依頼に失敗したというのに、十字架の気持ちはどこか晴れ晴れとしていた。
風雅陽平。おそらくあれがあの中でのリーダーだ。あのメンバーであれだけの実力となると、それを率いる陽平の実力というのもかなりのものに違いない。
いつか、彼らが謎の侵略者を撃退した後の世界で自分と同じ舞台に立つことになるかもしれないと思うと、今からでもわくわくする気持ちが抑えられなかった。
そういう意味では自分も誰かを育ててみたくなる。教師というものは自分の性に合わないと思っていたが、案外そういうのもありかもしれない。そんな想像に頬を綻ばせ、十字架は紫煙を吹き出していく。
ふと歩みを止め、自分に近づいてくる複数の気配に、十字架は鬱陶しそうに目を細める。
ポケットに突っ込んだままの手を遊ばせ、いつでも銃が抜けるように身構える。
「十字架、我々と来てもらおうか」
黒ずくめの一人がすでに十字架に銃口を向けている。
「ノーと言えば……?」
他にも数名、十字架を取り囲むように銃口を向けたまま姿を見せる。
なるほど。彼らは件の国連軍過激派の連中で、十字架の得た情報を夜鷹奈緒に届けられる前に手中にしておきたいということか。
「返答は」
短く区切られる言葉に笑みをこぼし、声を発しないように口パクだけで「い、や、だ」と区切りながら答える。
リーダー格らしい男が顎をしゃくるのと、複数の銃声が鳴り響くのはほぼ同時であった。
ちかちかと明滅を繰り返す街灯が月明かりを濁し、アスファルトの地面にポトリと紫煙が上がったままの煙草が落ち、人が倒れる音だけが夜の沈黙に溶けていった。
<次回予告>
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