AM6:00──

 風雅陽平の朝は騒がしい。
 決して、大量の目覚まし時計がセットされているわけでも、口やかましい幼馴染が玄関前で恥ずかしいあだ名を叫ぶわけでも、妹がジャンピングボディープレスをしかけてくるわけでもないが、とにかく騒がしい。
 まず、陽平の思考をはっきりとさせるのは接近する者の気配だ。悪意というか、悪戯心に近いその感情をひしひしと感じることで、陽平は自然と目を覚ます。これはもう何年も続けてきた陽平の日課だった。
 最近になって、相手がわざとそういう気配を向けているということに気づいたのだが、それはそれで腹が立つ。というか、普通にムカついた。
 そういうところも含めて、すべてが相手の思惑通りだと思うと、ただむやみに怒りをぶつけるというのも躊躇われた。
 続いて、ドアの隙間から放り込まれる煙球は、毎度の事ながら凄まじい黒煙を噴き出して転がっていく。最近は煙球にも凝ってきたのか、不規則に転がっていくものだから始末に悪い。
 焦らず慌てず、ベッドに寝転んだまま、念のために敷いておいた風呂敷を引っ張ると、風呂敷の四方が手元に集まることで容易く煙球を捕まえ、ばかばかしいとばかりに窓の外に放り投げる。既に日課になりつつある行動なので、窓の下にはゴミ箱が待機しているので安心だ。
 そして、息を潜めた相手が既に室内に侵入しているということも、やはりいつも通り。
 無数の手裏剣が舞い、陽平が先ほどまでいた場所──ベッドに突き刺さる。これを修繕するのが誰かということを考えてからしてほしいのだが、生憎そういうことを考えて攻撃してくる襲撃者はいない。
 ベッドの下に隠してあった袋を素早く取り出し、包まれた小刀を両手に身を屈める。
(来る──ッ!)
 そう思った瞬間、予想通りなにかが部屋の天井すれすれに舞い上がった。
 だが、それが囮であることは言うに及ばず。手にした小刀で迎撃すると、落ちてきた枕(陽平のもの)を無視してベッドという名のバリケードから飛び出していく。
「そうやって、いつもいつも人様の部屋の備品を台無しにしやがってっ!」
 怒りと共に、裾に仕込んでいた短刀を引き抜き、影に向かって斬りつける。
 容易くかわされたがそれは想定内での行動だ。手にした小刀を幾度にも分けて投げつけることで相手を後退させ、短刀で追い討ちをかけながら左手に巫力を注いでいく。
「これでも……くらいやがれッ!」
 突き出した手刀が相手の喉元に突き刺さる。いや、それが変わり身であることは攻撃した陽平自身が一番良く知っている。
 突き刺した指先から弾けるように広がった巫力は、枕(やはり陽平の)をバラバラにするだけに留まらず、部屋の壁に指の数だけ穴を開ける。どうやら、風雅流忍術風牙≠フひとつである角牙≠ヘ既にマスターしたようだ。
「って、また俺のかよっ!?」
 そんな陽平の反応に、相手がニヤリと邪悪な笑いを浮かべる。陽平の反応のひとつひとつにまで楽しみを見出してる辺り、どこまでも底意地の悪い相手だ。
 まるで風のようにドアの隙間から逃げ出す相手に、陽平もまた素早くドアの隙間を潜っていく。大丈夫だ、相手の気配は遠退いている。待ち伏せの心配はない。
 だが、部屋を出た瞬間に陽平は相手がいつも以上に張り切っていたことにようやく気がついた。
 目に見えるものからそうでないものまで、廊下に備えられたありとあらゆる罠の数々。その数を数えるだけで気が遠くなりそうだった。
(そもそもこの中をどうやって逃げてったンだよ……)
 それこそ足の踏み場もないようなこの状況。正直、相手の技量が自分を上回っていることを認めてしまいそうな光景であった。
 だが、そんな光景に変化が起きた。
 陽平の部屋からそう遠くない場所にあるもう一つの部屋。そこは、彼の主君であり、当風雅家の居候である翡翠の部屋なのだが、その部屋のドアがゆっくりと開いていくではないか。
(まずいッ!)
 いかに普通の少女よりも幾らかかけ離れた運動神経を持った翡翠でも、この罠の中に寝ぼけ眼で飛び込んでいくのは、自ら進んで焚き火に飛び込む兎のようなもの。
「待てッ、開けるな翡翠ぃっ!」
 たとえ自らを盾にしようとも、必ず翡翠を守り抜くと誓ったのだ。こんなところで怪我をさせるわけにはいかない。
 進んで自らが罠へ飛び込むことで翡翠を部屋に押し戻す……はずだったのだが。そこから現れたのは彼の大事な姫君ではなく、憎らしい肉親の姿であった。
「未熟者め」
 父、雅夫の白ぉ〜い目が陽平に突き刺さる。
 一瞬、世界がスローモーションのように見えた。しかし、次の瞬間には世界はいつも通りに動き出し、哀れ陽平は罠の海へとダイブすることとなる。
「こんのぉ……クソ親父いいいいいいいいぃぃぃ──ッ!」
 雅夫がすべての罠が正常に作動したのを確認すると、けたたましい音をゴングの代わりに、本日の親父襲撃はようやく終わりを迎えたのだった。






『自問自答 - Day when it doesn't fight -』







 AM8:30──

 その正体が惑星リードの皇女であっても、地球では風雅家の一員。
 故に平日は、翡翠もただの小学生。
 そんな日は、ガーナ・オーダのことも忘れて、友達と思いっきり遊べばいい。しかし、世の中そう上手くいくわけもなく、時非小学校ではロボット対異星人のことで話題は持ちきりだった。
 男の子だろうと女の子だろうと、やはり未知の相手には想像を膨らませるもの。
「おはよう、翡翠。ねぇ、昨日も出たんだって」
「出た?」
 突然、クラスメイトの女の子に話を振られ、翡翠はなんのことか分からずに小首を傾げる。
「うん。あのロボットのこと! 最近増えた、青い竜の!」
 それが陽平の駆る竜王ヴァルフウガだと分かってはいたが、口止めされているのであえて分からないフリをする。
「かっこいいよなぁ! どう見たって青いのが最強ジャン!」
 急に現れたクラスメイトの男の子に、翡翠は少し驚いて目をぱちくりさせる。
 まるで忍者みたい。そう思ってはいても、やはり口には出さず、
「おはよ」
 とだけ、挨拶を交わすのだった。
「なぁ、風雅はやっぱ青いのがいいよな!」
 青いの。と言われても、実際には青い忍巨兵は三体もいるわけで、それが竜王なのか、牙王なのか、海王なのかはわからない。
「ほら。またすぐそうやって新しいものばっかり。これだから男子って……」
 少女の言葉に、少年はカチン、ときたのか、お互いに食って掛かる姿は、まるで猫同士のケンカを見ているような気分になってくる。
「じゃあ、お前はどうなんだよ。どれが好きなんだ?」
「当然、黒いのに決まってるじゃない。あんまり出てこないけど、颯爽と現れて異星人たちをやっつけていく。あんたたちガキにはないかっこよさよ」
 そうやって得意げに話す少女には悪いが、黒いのもやはり二つ。闇王と、黒衣の獣王が存在する。
「ガキぃ! お前だって同じ歳だろ! それにな、黒いのは悪いやつなんだって、とーちゃんが言ってたぞ!」
「黒いから悪人なんて安直なのよ! これだから男子って……」
 そんな熱戦を繰り広げている二人に置いていかれ、翡翠は仕方なく自分の席につく。
 ランドセルには、陽平がお守りだと言ってつけてくれた、小さな匂い袋が揺れている。
 その小さくて綺麗な袋を見るたびに、翡翠は陽平への想いを募らせていくのだ。
「ねぇ、翡翠! 翡翠なら分かってくれるわよね!」
「そーだよ! 風雅なら青いのが一番だって思うよな!」
 机の周りに来てまで舌戦を繰り広げられても困るが、陽平や、実の兄、釧のことを好きだと言われているようで、少し嬉しい気持ちになってくる。
「翡翠はどっち! 黒? 青?」
「もちろん青だろ! なぁ、風雅!」
 それは、陽平が好きか、釧が好きか、ということなのだろうか。
 正体を知らない以上、それが陽平たちであるということはわからないかもしれないが、翡翠にとってはそういうことになってしまう。
 この二人のどちらが好きと言われても、翡翠には比べることなんてできはしない。二人とも、という回答ではだめなのだろうか。
 ほとほと困り果てた翡翠を見るに見かねたか、救出すべく手を差し伸べたのは、クラスで一番仲の良い少女であった。
「あのね! 翡翠をそんなつまらないことに巻き込まないの!」
 神崎静姫【かんざきしずめ】。転校という扱いで小学校に入学した翡翠が、話し方などでイジメに合っていたところを助けてくれたのが彼女だった。
 この少女を一言で表すならば静かなる獅子=Bなんでも、父親が相当な腕前の剣道家であることから、幼いながらも剣を握っていた静姫は、弱い者イジメや悪をとことん嫌う傾向にあったらしい。
 普段はとても怒ったりはしなさそうな彼女も、翡翠のことになると、不思議とこうして世話を焼いてくれているのだった。
「どっちがどっちでもいいでしょ! 翡翠、困ってるよ?」
 静姫に言われ、ようやく翡翠が戸惑っていることに気づいたのか、少年と少女はすまなさそうに頭を下げるのだった。
「ごめん、翡翠」
「悪かったよ……」
 バツが悪そうに頭を下げる二人に、翡翠は気にしないと頭を振り、助けてくれた静姫にも小さく手を振るのだった。
「わたし、どっちも好き。だから、みんないっしょ」
「もぉ、翡翠! そういうこと言うならもっと早く言ってよ」
 これでは自分が悪者みたいだと、翡翠の頬をくいっと引っ張る静姫に、翡翠は嬉しそうに「ん……」と頷くのであった。
 何処にでもあって、誰もが良く見かける光景。
 そんな中に身を投じた少女が、誰よりも辛い使命を背負っているなどと、誰が想像できようか。
 だからせめて、少しの間でもいい。小さな安らぎと、彼女が笑っていられるような安息の日々を与えたい。
 風雅陽平が翡翠に伝えた言葉には、そんな内容もあったそうな。






 PM1:00──

 時非高校生徒会室の隣に位置する資料室。
 そこには、生徒会役員でさえ立ち入ることのできない開かずの間があった。
 普段は見えないその扉。スライド式の本棚を動かすことで、その奥に続く扉を見つけることができる。
 役員は完全指名制で、その存在さえも噂程度にしか知られていない組織、裏生徒会。
 その主な活動内容は、生徒会の手の届かない所のサポートと、生徒会という学生組織で手に負えない大きな事態に対処すること。
 故に、そのメンバーには非常識な人間ばかりが多く集まる傾向にあるようだ。
 前会長から席を譲られ、こうして日々業務に勤しんでいるのは、勇者忍軍の参謀的な役割を持つ少女、風魔──いや、ここでの名は、風間楓であった。
 生真面目そうに見える伊達眼鏡をかけ、やはり真面目を印象付ける黒くて長い、ストレートの髪。カチューシャは幼い頃からつけていたもので、直しながら使われているのがよくわかる。
 裏生徒会の役員にしか与えられない鍵を使い、資料室から裏生徒会室へ。
 楓は手にした大量の書類に視線を落としながら、やれやれとばかりに溜め息をついた。
「風間楓、入ります」
 会長である楓を迎える、裏生徒会のメンバーたち。その誰もがクセの強い者たちばかりで、彼らは皆、普段の姿からはとても想像できないようなスキルを持っているのだ。
「時間ぴったりです、会長」
 書記の少女の言葉に頷き、楓は会長である自分に割り振られた皮製の椅子に腰をかける。
 この書記の凄いところは、ニュートン力学的未来予測というとんでもない能力。どういう原理かはわからないが、三秒先の未来に起こる出来事を予測するというものらしい。
 そのため、現在進行中である会議の内容をメモしている彼女が、まだ話していないはずの内容をメモしている風景は、既に見慣れた光景となっていた。
「本日の議題は、終業式に起こった謎の襲撃事件≠ノついてです」
 夏休みという空白があったにも関わらず、誰の頭にも鮮明に残ってしまった光景。それは実に衝撃的なもので、一部の生徒間ではそれに対する怖心を植えつけられてしまった者までいるという。
 教師陣がいろいろ手を尽くしているようだが、生徒の事は生徒が一番良く分かっている。
「会長。既にいくつかの案をまとめてみました」
 一応目を通してくださいと、副会長から手渡された書類の束に、楓は「わかりました」と頷きながらも内心溜め息をつく。
 この副会長は有能だ。正直、スーパーコンピューターの頭脳でも持っているのではないかと言われるほどに有能だ。
 なんでも、非公式ながらどこかの企業の社長であり、その会社を設立したのは若干9歳の頃だというからとんでもない。
 正直、この副会長がいるという時点で、自分の存在意義を見失ってしまいそうに感じるのは、決して気のせいではないはずだ。
「なんでも登校拒否を起こして、夏休みが終わっても出てこない生徒もいるようです」
「しゃぁねぇよな。みんな夏休みが好きなんだしよォ」
 今のは会計と、もう一人の副会長だ。
 この会計は、高い計算能力ではなく、高い記憶力を持つことで有名だ。
 一度見た数字の羅列は忘れないらしく、どんな計算式を見せても記憶の中から同じ計算式を探し出し、その回答を記入する。
 ある意味、書記として欲しい能力なのだが、当組織ではそれ以上に書記としての人材が強固なため、あえて会計に回ってもらった形になる。
 もう一人の副会長は、学生からも多大な支持を得ている生徒だ。
 もしもなにかがあった場合、彼のような生徒は教師以上に強大な武器になる。
 そして、それらをまとめるために楓がいるわけなのだが、正直アクの強いメンバーなために、これをまとめていくのは至難の業だ。
「では、私がこれに目を通しますので、その間は自由に食事をしていてください」
 楓の言葉もやはり予測済みだったのか、書記はさっさと弁当箱を取り出して、箸を手にしていた。
 次々に弁当箱を取り出すメンバーに溜め息をつき、楓は自分も弁当を取り出すと書類の束をその横に置いた。
 最近はすっかり活動規模が縮小したガーナ・オーダのことなど、考えることは山ほどあるというのに、自分はこんなことをしていてもいいのだろうか。
 たまには陽平とデートに行った……。
 そこまで考えて、楓は慌てて自らの思考を切り捨てた。
 まったく、最近の自分はどうかしている。
 光海と陽平の仲が険悪なのをいいことに、あの二人の間に割って入ろうなんて。
「はぁ。本当にどうかしてるのかも」
 そんな呟きが周囲に丸聞こえだったことを知ったのは、本日の昼休み会議が終わった時の話だった。






 PM3:30──

 一日の授業を終え、いつものように弓道場へ向かうのは、時非高校の女ロビン・フッドこと、桔梗光海である。
 近頃めっきり元気がないという噂は、ひとりでに尾ひれを付け、今では全米が泣くほどのロマンチックな大失恋をしたことにまでなっていた。
 だが、それもそのはず。
 当の光海は、その噂に対してまったく否定をしないからである。
 噂もそうだが、ガーナ・オーダとの戦いで、夏季大会も最後の方しか参加できなかった彼女は、正直、あまり部活も居心地の良い場所ではなくなっていた。
 それでもこうして足しげく通っているのは、もはや染み付いてしまった日課だったからというだけではなく、ここに来ている以上、陽平と顔を突き合せないで済むからだった。
 頭の中がもやもやして、とても集中できるような状態ではないことはわかっている。
 光海は弓道着を手にすると、一人シャワールームに駆け込み、まだ服も脱いでいないというのに思いっきり水の方の蛇口を捻る。
 頭上から降り注ぐ水は、まだ9月だというのに少し肌寒く感じた。
 すぐにずぶ濡れになった制服は肌にまとわり付き、まるで自分の頭にかかった靄のようにすぐには離れない。
 そんなことをしている自分が情けなかったのか、それともまったく別の理由からか、光海は降り注ぐ水と共に涙を流した。
 大丈夫。誰も聞いてはいない。そんな気持ちが、光海の我慢という堤防を容易く突き崩した。
 泣きたかったというよりも、ただ叫びたかった。
 本当は、助けてと言ってしまいたかった。
 でも、本当に助けて欲しい少年は、きっと自分のことを軽蔑している。
 そんな気持ちが、光海をただ泣かせるだけに留めていた。
 こんなことを続けて、もう一週間近くなる。
 当たり前のようだが親友が、こんな状態の光海に気づかないはずがなく、椎名咲は今日もこっそりと、そんな壊れてしまいそうな光海を見守っていた。






 PM5:30──

 実家で請け負った仕事を無事に終えた風魔の長女は、冷たくなり始めた風にスッと目を細めた。
 風魔の家が持ってくる仕事は、正直どれも好きにはなれない。
 対象を抹殺せよ。
 そんな、命を奪うことばかりが椿に回されてくる。
 だが、それは仕方のないことだ。自分がやらねば、この仕事は弟や妹に持っていかれる。
 二人に命を奪わせたくないなどと、甘いことを言うつもりはない。風魔に生まれたからには、当然のこととして受け止めてもらわねばならない。しかし、今は極力そういう仕事に関わらせたくはなかった。
 二人はまだ高校生だ。せめて、残りの数年が終わるまでは、自分が二人の代わりをしよう。
 母の温もりを、ただの一度も与えられなかった子供たち。
 これは、優しかった母を覚えている自分に対する報いなのかもしれない。
 母の名は、風魔恵果【ふうまけいか】。
 優しい瞳と、少し緑がかった長い黒髪が印象的な女性だった。
 修行が辛かったとき、母の腕に抱かれて泣いたこともある。友達を作れなくて悔しかったとき、母は決まって椿の遊び相手をしてくれた。
 だがある日、母は突然他界した。
 周囲には病死ということになっていたが、本当は違う。その真相を知っているのは、当時はまだ修行中で力もなく、幼く泣き虫だった椿だけ。
 母は、殺されたのだ。
 事切れる際、母は仕方のないことだと笑っていた。風魔の家に嫁ぐという時点で、こういう結末は予想していたに違いない。
 だから父も泣かなかった。まだ赤ん坊だった柊と楓を抱きかかえたまま、父は怒りに肩を震わせていた。
 あの日から、椿は父が泣いているのを見たことはない。
 そんなことを思い出し、椿は小さく溜め息をついた。
「椿、どうしたの?」
 すぐ後ろにある縁側から声をかけてきたのは、椿のたった一人の親友だ。
 ここは、出雲にある風雅忍軍の隠れ里。彼女はその里の者たちの当主をしている。名前は……
「何でもない、と言っても、貴女には見えてるんでしょ。琥珀」
 責めているわけではないが、そんな椿の言葉に琥珀は申し訳なさそうに俯いた。
 椿の持つ不思議な瞳、鬼眼。その瞳は、見た相手の心を見る。
 それが彼女の意思に関わらず見えているのはわかっている。だから椿は、そのことで一度も琥珀を恨んだことなどなかった。
 母に良く似た緑がかった黒髪と、どこかあどけない幼さを残した顔つき、そしてなにより、この世でただ一人、椿が心を許した相手。
「もう、何年の付き合いになると思ってるの。琥珀も、私にはそういう気遣いはやめてって言ってるのに」
「ごめんなさい。でも、やっぱり他人に心を覗き見されるのは、いい気分はしないもの」
 申し訳なさそうに表情を翳らせる琥珀に、椿は「まったく」と子供でも見るかのように微笑むと、その隣に寄り添うように並び立つ。
「貴女がいてくれたおかげで、私はこうして今も生きている。生きている実感を持つことができるの」
 二人が出会ったのは十二年前。椿も琥珀も、まだ十二歳だった頃の話だ。
 母が死に、その復讐のために過酷な修行を行っていた椿は、いつしか心を氷のように冷たく閉ざしてしまっていた。
 そんな氷の壁をいとも容易く解かしてくれたのが、当時封印から目覚めたばかりの琥珀だ。それ以来、二人の親友という関係は続いている。
「椿。気持ちはわかるけど、少し自分で背負いすぎじゃないかな」
 どちらからともなく縁側に腰を下ろし、琥珀はそんな事を呟いた。
「人を殺めることを良しとは言わない。けど、柊さんや楓さんは、貴女が思う以上に大きく成長しているわ」
 琥珀の言葉は正しい。自分が、弟や妹に対して、必要以上に過保護だということも分かっている。
「このままじゃ、椿が壊れてしまう」
 その綺麗な瞳に涙を浮かべ、本気で自分を心配してくれるただ一人の友人。
 だからかもしれない。琥珀の肩に頬を寄せ、椿は母に甘えるように袖を握り締める。
 大丈夫。この温もりがある限り、自分は決して折れることのない刃でいることができる。
「私が貴女を守るわ、琥珀。誰からも……何からも……」
 決してこの温もりを奪わせはしない。この温もりを守るためならば、自分は修羅にだって、悪魔にだってなろう。
 そうだ。柊や楓のためではない。全ては自分のため。琥珀を守りたいという絶対の目的のために、柊や楓は今以上に強い風雅の忍者になってもらわなければならない。
 そのためには、風魔の仕事などで余計な心を割かせるさけにはいかないのだ。
 たくさんのものを偽り、たくさんの者を裏切った。それは、これからも続いていくのだろう。
 琥珀に促されるように彼女の膝に横になると、椿は急な眠気に襲われ始めた。
 優しい手が、椿の前髪を掻き分けるように頭を撫でているのがわかる。
「こはく……。ごめん、ね」
 そんな呟きが彼女に聞こえたかはわからない。しかし、椿が最後に聞いたのは、優しい澄んだ歌声の、子守唄だった。






 PM6:30──

 時非とは違う、どこか別の都会に、彼の姿はあった。
 銀の仮面で顔の左半分を覆い、見につけた黒い衣服は所々が裂け、黒く変色した血の染みで染まっている。
 彼の名は釧。かつて、忍巨兵などの超兵器を生み出した惑星、リードの皇だった男だ。
 一ヶ月ほど前、好敵手と呼べる少年との戦いに敗れた釧は、深い眠りの後に新たな王と出会うことができた。
 真獣王クロスガイア。獣王クロス、本来の身体であり、全ての忍巨兵の祖となった獅子の神。
 新たな牙を使いこなすべく、日々修行に明け暮れていた釧は、そのあまりの暴れ馬っぷりにほとほと呆れ果てていた。
 忍巨兵とは違い、隠形機能があるわけではなく、水の上を走れるわけでもない。ましてや飛行などもってのほか。忍巨兵特有の武器がついているわけでもなく、ただ、凄まじい出力と、忍巨兵と同等の運動性、そして持て余すほどの破壊力が売りの巨兵。
 元々、人が乗り込むことを想定されていないとはいえ、これを乗りこなすには、相当の慣れが必要と感じたのはつい先ほどの話だ。
 しかも、乗り込む度に身体は傷つき、極度の疲労に襲われる。
 正直、釧でなくても諦めてしまいそうになるほどの、盛大なじゃじゃ馬ぶりだ。
 今日も今日とて、ガイアフウガに合体して動き回ってみたのだが、どうやらまだまだ慣れが足りないらしい。
 仕方なく、ゆっくりと休めそうな場所を探して都会に現れてみたものの、未だに人通りは多く、とても静かに身体を休められそうな状況ではなかった。
 仕方ない。やはり今日も、ビルの屋上で体を休める外なかった。
 この星は人が多すぎる。人だけではない。無用な建造物も多すぎる。いつか、そう遠くない未来、この惑星は滅びるだろう。自らの過ちを認め、それを切り捨てない限り。
 そんなことを思うのは、いったい何度目だっただろうか。
 ここは、あまりに自然が少なすぎる。
 貯水タンクの上に身体を横たえ、釧は星も見えない夜空を見上げる。
 黒い、飲み込まれてしまいそうな空だった。
 こんな空だから、地球人は夜を嫌い、地上に無用な明かりを点すのだろう。そんな実感を抱きながら、釧はゆっくりと瞼を閉じていく。
 真獣王と合体してからは、いつもこんな感じで眠気が襲ってくる。あの巨兵はどこまで釧の力を食い続けるのだろうか。
 そんなとき、丁度真下に当たる鉄製のドアをゆっくりと開けていく音が聞こえてきた。
 何てことはない。どうせ黙っていれば、ここを振り返る者などそうはいないだろう。
 しかし、特別気にするでもなく眠りにつこうとしていた釧だったが、気配の主が一向に遠ざかる気配がないことに、僅かながら興味をそそられた。
 手をつき、上体だけ起こして貯水タンクの下を覗き見る。しかし、すぐに気配の主は見つけることができなかった。
 僅かに眉を顰め、気配の位置をよくよく探ってみると、どうやらもっと前の方。丁度フェンスの辺りにいることがわかった。
 綺麗に揃えられた靴が目に入り、次に見えたのは、フェンスを乗り越えている黒衣の女性の姿だった。
 あまり運動は得意ではないのだろう。ゆっくりとフェンスに上り、反対側へと降りていく。
 背中越しなのでどういう表情をしているのかまではわからないが、漂う気配は生気を失った人そのものだった。
(自らの命を絶ちに来たか)
 自殺。この星では、別に珍しいことでもない。富士の樹海に身を隠していたときも、何人もの死者を看取ってきた。
 しかしどうしたことか。一向に動こうとしない女性の姿が気になったのか、自分でも驚くほど自然に、釧はその背中に声をかけていた。
「おい」
 釧の声に、女性の身体がビクリと跳ねる。
 歳は二十半ばくらいだろうか。ゆっくりと振り返った女性は、頬を大粒の涙で濡らしながら泣いていた。
 釧にはわからなかったが、彼女が身に着けていたのは喪服。それがわかれば大切な人でも失ったと気づいたのだろうが、そんなことはお構いなしに、女性に向けて言葉を続けていた。
「死なないのか」
 貯水タンクから見下ろす銀の仮面男。女性にはそれが何に見えたかはわからない。少なくとも、人ではないと思われたのだろう。
 素っ気なく問いかける釧に、女性は消え入りそうな声で「死にたい」と呟いた。
「なら、さっさとするんだな。キサマが余計な事をするだけで、俺の眠りが妨げられる」
 人が死ぬのは何度も見てきた。その度にこの星では、赤色の灯りを鬱陶しいほどに点し、夜中にも関わらずけたたましい音を奏でている。
 安眠妨害もいいところだ。
「あなたは死神ですか?」
 そんな女性の言葉に、釧は思わず目を丸くしていた。
 死神か、それも悪くない。それは戯れだったのかもしれない。しかし、実際は何故だかわからなかった。釧はその女性に「そうだ」と答えていた。
「お聞きしてもよろしいでしょうか」
 釧は答えない。彼女の問いに対する答えは持ち合わせているはずがなかったし、第一、余計な詮索をされては迷惑だったからだ。
 しかし、女性の問いは完全に釧の予想を超えていた。
「どうして、私の夫を連れていってしまわれたのですか。どうしてあの人まで一緒に連れていってしまわれたのですか!」
 大粒の涙を零しながら問いかける女性に、釧は訝しげな視線を向ける。
「続けろ」
「あの人は、夫は騙されていただけなんです! なのに、無理心中を迫られ、挙句の果てに世間はあの人を犯罪者呼ばわり!」
 こんな説明では詳細を知ることはできない。しかし、彼女の夫が何者かと共に命を絶ったということは確かなようだ。
「返して……返してください! あの人を、返して……」
 フェンスにもたれるように泣き崩れる女性に、釧はやれやれと小さく溜め息をついた。
「キサマが死ぬのは勝手だが、汚名を着せられた夫を救えるのは、キサマだけだということを忘れてはいないか」
 釧の言葉に、女性ははっと顔を上げる。
 銀の仮面が月明かりに照らされ、釧の表情を読み取ることはできない。しかし、女性にはその姿がどう見えたのか、藁にもすがる様な気持ちで手を伸ばす女性の姿に、釧はばかばかしいと視線を逸らした。
「俺の知る夫婦とは、生涯の支えとなるだけではない。死して尚、互いのために尽くすものだ」
「あなたにも……そういうひとが?」
 その問いに答える義務も、意味もない。
 だが、それをどう捉えたか、小さく微笑んだ女性は、服についた砂を払いながらゆっくりと立ち上がると、フェンス越しに見える釧に首を傾げるのだった。
「あなたは、変わった死神なんですね」
 そんなことを言われたのは初めてだ。もっとも、死神などと呼ばれたのもこれが初めてだ。
「死神さん。そんなことを言うということは、あなたは私を連れていってはくれないんでしょう?」
 当たり前だ。余計な仕事を増やさないでもらいたい。
 答えない釧になにを思ったか、女性は小さな笑みを漏らすとフェンスに掴まって再びよじ登り始めた。
 どうやら死ぬのをやめたらしい。今の彼女からは生きる気力のようなものを感じることができるし、それになにより死んだ人の目をしていない。
 この程度でやめてしまうなら、最初から死ぬなどと考えなければいいのに。
 やれやれと頭を振る釧は、そんな危なっかしい女性のフェンス越えを見守りながら、命を絶ってきた者たちのことを思い出していた。
 一度死を決意した者は、必ず死者たちの魂に引き寄せられるもの。それを振り払うには、生きるという強い意志が必要だ。
 この女性は、どうやら死に引き寄せられる前に踏み止まれたようだが……。
 だが、その瞬間、釧は見た。
 何者かが女性の足を引いている。あれはこの世の者などではない。死して尚、この世への執着を持った者たちの成れの果てだ。
 突然足を引かれたことに、女性も相当の焦りを見せている。死への恐怖に表情が引きつっている。
「し、死神さん!」
 叫ばれた瞬間、釧は自分でも驚くほどに素早く飛び出していた。
 獣王式フウガクナイを手に、女性の足を引く黒い影を断ち切る。だが、すでに女性は落下を始めていた。
 この高さだ。落ちれば確実にこの世と別れを告げることになる。
 仕方がないとばかりに勾玉を発動させると、釧は女性を抱きかかえたままビルの壁面を強く蹴った。
 疲れた身体には相当無理があったが仕方がない。勾玉の輝きに呼ばれた真獣王が二人をキャッチすると、素早く人気のない公園に下ろして再び去っていく。
 隠形機能はないにせよ、探査されない材質でできたクロスガイアは、海に身を隠すだけで十分に周囲の目をごまかせる。
 突然のことに女性は驚きを隠せず、しきりに瞬きを繰り返す。
「死神さん……助けてくれたんですか?」
「言っただろう。キサマを連れて行くのは面倒だと」
 口にしたのは今が初めてだったが、女性はその言葉に心底驚いたような表情を見せた。
 遠くからけたたましいサイレンの音が聞こえてくる。
 どうやらさっきの真獣王が見られ、騒ぎになってしまったらしい。
 戸惑う女性を突き放し、行けと無言で顎をしゃくる。
「でも……」
「行けと言っている。そして、必ず夫の汚名を晴らせ。それが、残された者の勤めだ」
 釧の強い視線に腰を浮かせ、女性は何度も振り返りながら公園を駆け出していく。
 これでいい。だが、あまり長居をするわけにはいかない。
 疲れた身体に鞭を打ち、軋む足に小さく舌を打つ。
 気まぐれから声をかけたが、どうやら間違いだったようだ。
 痛む足を引きずりながら、釧は夜の闇へと消えていく。
 早く寝床を探さねば、ゆっくり身体を癒すこともできやしない。
 死神と呼ばれた自身に苦笑を浮かべながら、釧は一度だけ、騒がしい夜の街を振り返る。
 人の想いが折り重なった街だ。確かに、これだけ物が詰め込まれているのは、仕方のないことなのかもしれない。
 汚い空、汚れた大地、しかしそれは、人間が生きている証なのかもしれない。
 そんなことを思い、釧は真獣王の下で死んだように横たわるのだった。






 気がつけば、木陰から差し込む陽光が眩しいくらいの昼だった。
 いつの間にこんなところで眠っていたのだろう。人からは見られにくい叢の奥で、釧はタオルを枕に眠っていた。
 そして、脇には綺麗に畳まれた服と、一通の手紙。

おかしな死神さんへ。助けて頂いたのに、まともなお礼もできずに申し訳ありませんでした。夫が着ていた服ですが、よろしければこれをお召しになってください

 どうやら一緒に置かれているのが、彼女の夫の服なのだろう。
 確かに、いい加減服の傷も酷くなってきた。ありがたくもらうことにしよう。
 死人の服に袖を通すことに違和感はあったが、どうせ自分の向かう先も死地だ。
 ぴったり系の黒いノースリーブシャツに、白いカッターシャツ。そして、黒いジーンズ。なるほど。どうやら死神のイメージを考えて黒で統一したらしい。
 しかし、その中で一番上に着るはずのカッターシャツだけが白というのは、彼女が釧に抱いた印象なのだろう。
 苦笑を浮かべながら着替えを済ませ、釧は海に沈んだままのクロスガイアに呼びかける。
 死神ならば、死神らしく命を刈り取ろう。
 風雅陽平と、竜王ヴァルフウガという極上の命を。






 こうして彼らは、常に戦いの中に身を置くことになる。

 生きていく上で、戦いを回避しながら進んでいくことは、どうやらできないらしい。

 それは、その者が戦士でなくとも言えること。

 一番の敵は自分自身。そう、最初に言ったのは、いったい誰なのか。

 少なくとも、それを口にしたのは、すぐ身近にいる者ではないだろうか。

 鏡の中に映る自分自身か、それとも……。