宇宙を翔ける、うっすらと赤みの差した光に包まれながら、少女は一人、夢を見る。
 それは故郷。今はもう、思い出すことしか適わない愛しい故郷の姿。
 いつまでも続くだろう幸せに包まれ、決して離れぬであろう暖かい手に触れられていた日々の記憶。
 少女はもう、あの幸せの日々を振り返ることしかできない。
 あの、遠き故郷"リード"に絶望が訪れた日、確かに少女は命を落としていたはずだった。
 少女は夢を見る。
 故郷の夢、そして未だ見ぬ青い生命の星を。
 穏やかな寝顔に一筋の涙。その涙を拭うようになにかが頬に優しく触れる。
『翡翠、あの惑星【ほし】になら貴女を守ってくれる勇者がいる。 だからそれまでは……おやすみ』
 少女は夢を見る。
 その夢の中で、声を聞いたような気がした。
 母のような優しさと、暖かさを重ね添えたような、そんな安らぎの声を。





勇者忍伝クロスフウガ

巻之壱:『運命の交差』







 季節は初夏。ようやく梅雨明け宣言もされた六月後半。
 カーテンの隙間から射し込む暑い陽射しに、風雅陽平【ふうがようへい】は眉を顰めながら瞼を振るわせた。
 まだ寝ぼけているのがよくわかる表情のまま壁にかけられた鏡に向かい、寝癖で逆立った髪の毛に右手を押し付ける。もっとも、そんなことで寝癖が直るわけもなく、大人しく洗面所へ行こうとドアノブに手をかけた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
 それは明らかな敵意。そして……、
「結局、いつも通りかよ!」
 対抗意識半分、自棄半分でベッドへと飛び退き、枕の下に隠してあった黒光りする刃物──クナイを手に身構える。
 襲撃は……こない。
だが、沈黙は一瞬。次の瞬間にはドアが弾けるように開き、何かが室内に飛び込んできた。  拳サイズで銀に光る円筒形のソレは、カチリと音を立てると、勢い良く黒煙を噴出していく。
「だぁっ! 煙幕まで持ち出すなぁっ!」
 涙目で訴える間に、十畳の部屋は無情にも黒煙で満たされていく。
「野郎ぉ! ぜってぇ後片付けさせる!」
 伏して床に耳を当てることで、足音を探り当てる。
相手は……動いた。
上体を起こすと同時に逆手に握ったクナイを左胸の前に構えると、敵の突き出したクナイに交差する。が、咄嗟に力比べは分が悪いと判断。身を退いて受け流し、足元にあったゴミ箱から昨晩食べた団子の串を三本取り出す。
「くらえっ!」
 振り上げるように串を投げるも、敵は身軽に後退して黒煙に身を投じる。壁に刺さった音が三つ。全てかわされたようだ。
 黒煙の向こうで何かが動く。
「そこかよ!」
 構え直したクナイを手に、真正面から飛び出していく。それに気づいたのか、相手も同様に飛び出してきた。
 所詮は十畳。距離は一瞬で詰まり、クナイを突き出した瞬間、なにか硬い金属質のもの が見事に顔面にクリーンヒットした。
 更にはまったく同じタイミングで向こうでも悲鳴が上がり、どうやら朝の襲撃はこれまでかと内心苦笑を漏らす。
 第三者によって開けられた窓から黒煙がもうもうと空へと上っていく。それで視界は戻るはず……なのだが、なぜか目の前は真っ暗のままだった。
「陽平、雅夫さん、いつまでそんなお面をつけているつもりですか」 
 その言葉になるほどと手を打ち、自らの顔に貼りついた……いや、顔がめり込んだフライパンに手をかける。
「はい、おしまい。二人とも朝食ができていますから、すぐに来てくださいね」
 手を叩いてマイペースに指示を出すこの女性の名は風雅香苗【ふうがかなえ】。言わずと知れた風雅家の母である。
「か、香苗さん。愛する夫に中華鍋の一撃はどうかと」
 そして、この底を突き破って、すっぽり頭にはまった中華鍋を、渾身の力で何度も引き抜きにかかっている襲撃者が、風雅家の大黒柱であるはずの、風雅雅夫【ふうがまさお】。これでもれっきとした父親だ。
 一見、なんでもない……ようにも見える……かもしれない家族の絵だが、母、香苗は高校の歴史教師。父、雅夫は職業不明な謎の忍者オタク。そんな二人の息子もまた、順調に忍者オタクとしての道を確実に歩んでいる。
 この一般家庭ではお目にかかれない光景こそ、風雅家日常の朝なのだ。
 ちなみに、部屋を去る香苗が「また余計な出費が……」と呟いたのもまた、毎度のこと。
 正直、家計の大半がこういった無駄な部分に行っているのではないかと、一人息子の自分も一応心配はしている。そもそも、風雅家の収入はいったいどれほどのものなのか。母の教師のみではどうにも心許ない。
「謎だ……」
 そんなことを思案しながら、顔のはまったフライパンをベリッ、と引き剥がした。





 そういえば誰かが言っていた気がする。"食卓とはある種の戦場である"と。
 おかずが食卓の中央にのみ置かれた場合、早い者勝ちというのは、まぁ、わからない話ではないのだが……。
「くっ! 猪口才な!」
 凄まじい速さで突き出された箸が、おかずを奪取する。
「まだまだ甘い。狙いはこっちだ」
 ある時は騙し、ある時は俺の予想を遥かに上回る速度でおかずを消費していく親父。
「ごちそうさま」
 やはりマイペースに手を合わせ、それでもしっかりと食べている母さん。
 どうやらこの食卓に"早い者勝ち"は当てはまらないらしい。というか、むしろ早すぎる。
 紺のスーツに身を包んだ母さんは、自分の食器を洗浄器にかけると、いそいそと身支度を終わらせていく。バッグを肩に、手では愛車のキーをくるくると回す。
「陽平、母さん先に出るけど、遅刻しないようにね」
 未だ朝食と格闘している俺に一声かけ、そそくさと駆け出していく母を視線で見送ると、口の中のものを飲み込み、ひとりごちるように時計を眺めた。
 只今の時刻、八時十五分。
 石膏像のように固まった頬を、一筋の汗が流れ落ちる。
 風雅家から俺の通う時非【ときじく】高校までは歩いて二十分弱。ホームルーム開始は二十五分。事実上歩けば遅刻は免れない。
そういえば母が「遅刻するな」と言っていたが、そういうことか。
 手を叩いて納得したのも束の間、大慌てで鞄を掴み、食卓もそのままに家を飛び出していく。
「上手くいけば母さんの車にィ!」
 しかし、そう現実は甘くない。
微かな希望である母の車は、爆音と砂埃を上げて遥か彼方へ。まるでその背が「走れ」という無言の意思表示であるかのように見えたのはきっと気のせいではないはずだ。
 わなわなと肩が震え、乾いた笑いがこぼれ出す。
「そうかい、そんなに走らせたいかよ。……ならァ!」
 靴の紐を固く結び、鞄をしっかりと背負う。
「地獄の果てまで走ってやるぜ、コンチクショウっ!」
 かくして、陽平の自己記録を塗り替えるかもしれない無謀な挑戦が、今始まった。





 能登半島よりもやや右に位置する半島、時非市【ときじくし】は、市の中央にある市街地を基準に、西は山に覆われ、南に住宅地、北には駅。更に北へ行けば海がある。東には学園街と呼ばれる幼稚園、小学校、中学校、高校の密集した地区が存在し、そこと住宅地を商店街が結んでいる。
 学園街はやや高台に位置しているために、どうしても坂道を登らなければならないわけだが、高校前の坂道は特に酷い。傾斜角は約十五度。その距離五〇〇メートル。俗に心臓破りの坂と呼ばれるものがそこにあった。
 そして、今日もその坂を全力疾走していく間抜けの姿が確認されたとかされないとか。
 時非高校二年A組。その教室の再奥部窓際、前後位置は丁度ド真ん中にある机に、突っ伏したミイラ……もとい、陽平の姿があった。
 その見事な枯れっぷりに、彼の悪友、安藤貴仁【あんどうたかひと】は、苦笑交じりに何度も頭を突ついてみる。
「おーい、大丈夫かぁ?」
 声をかけても陽平はピクリとも反応しない。微かに開いた唇からは、「時計……針……進めて……」と微かな呟きが聞こえてくるのみ。
 只今の時刻、八時二十分。
 決して陽平が五分という奇跡的なタイムを叩き出したわけではなく、母の策略によるものだと補足させていただく。
 ようするに、自宅の時計の針が、数分進められていたのに気づきもしないで、全力疾走したということだ。
「アカンなこら。しゃぁないのぉ、すまんけど光海【みつみ】ちゃん……」
「何で私が……」
「まぁまぁ、ここで恩を売っておくんも損やないはずやで」
 どこか含みのある笑いに、光海と呼ばれた少女は渋々ながら席を立った。





 そんな会話が聞こえて数分。頬にヒヤリとするものを感じ、陽平は思わず跳ね起きた。
 まず目に入ったのは青いパッケージ缶の清涼飲料水。そして、その先にある見慣れた顔。
「もぉ。いつまで枯れてるのよ」
 頬にかかる長い黒髪を空いた手でかき上げながら見下ろすこの少女の名は、桔梗光海【ききょうみつみ】。陽平や貴仁とは物心ついた頃からの仲、いわゆる幼馴染で、不思議なことに未だかつて違うクラスになったことのない腐れ縁。
「ってか、誰が枯れてンだよ、誰が」
 悪態づきながらも缶を受け取り、一気に飲み干す。全力疾走の後にはまさに天国のような瞬間だ。
「しかし、相変わらず香苗センセに遊ばれてんねんなぁ」
 肩をバシバシ叩きながら笑う貴仁の手を払いのけ、再び机に突っ伏す。
 相変わらずという言葉が、何度同じことを繰り返しているかを暗に明言している。
「まったく、普通気づきそうなものでしょ?」
 やれやれとため息をつく光海の発言にぐぅの音も出ない。きっと今の表情は、見事なまでに不機嫌で固まっているに違いない。
 確かに、この時間ならばまだ通学中の生徒もまばらにいるはずだ。当然それは高校のみにあらず。
「ちくしょぉ〜」
 どうやら母に敵わないのは父だけではなかったようだ。そう、痛感せざるをえなかった。
 あまりの間抜けさ加減に悔し涙の海に沈みそうになっていると、貴仁がそういえばと耳打ちしてきた。
「あのな、一週間前に太平洋に落ちた隕石あったやろ? あれ、結局なんも見つからんかったらしいで。破片も、落下跡もな」
 貴仁の言葉に、まさかといった表情で視線を向ける。
 一週間前の午前三時頃、太平洋のド真ん中に隕石と思われるものが落下した。
 その衝撃は凄まじく、太平洋側の土地は多大なダメージを受けたという。
「ってか、アレって結局なんだったんだよ。隕石なら人工衛星とかですぐに見つけられるんだろ? なんで落ちるまでわからなかったんだよ」
 現在、地球には国際連合異常犯罪対策部隊と呼ばれる軍隊が存在している。
 そのまま国連軍と呼ばれることの方が多いのだが、その設立目的は、地球外からの脅威や未知の怪異に対して、何の防衛手段も持たないわけにはいかない。ということらしい。
 もう二十年以上も前に、なにかそういった未知の事件があったらしいのだが、結局のところそれが解決したのも未知の存在の手によるものだったとか。
 未だにそのことについて検証する特集番組が放送されているけど、結局のところ何もわかっちゃいない。たくさんの人が死んで、悲しんだ大きな事件だったはずなのに、何もわかならいまま終わってしまった出来事。
 だからなんだろう。人は自らの手で大切なものを守りたいと思うのは。だからこそ、国連は異常犯罪対策部隊などと大層な名前のついた軍隊を作り出した。
 その成果もあってか、うなぎ上りに各国の科学力も上がっていったという。
 例えば今や誰もが持つ携帯電話だが、通話、データ転送等はすべて人工衛星を介しており、それでいて光ネット級の転送量と速度を持つ。バッテリーと一体になった各種パーツを付け替えるだけで、携帯電話サイズのパソコンにもなる。
 こんなことが"当たり前"の世界。それが今の地球だ。
(正直、なんか監視されてるみたいで嫌なんだけどな)
 ポケットの上から携帯に触れ、俺は無意識に苦笑を浮かべていた。
 話を戻そう。とにかく、それほどの高度な技術を持った国連軍が気づかなかった隕石。今、ネットや巷ではこの話題で持ちきりだった。
「しっかし、もう結果出たのか。意外と早かったな」
「ぅんにゃ、公式の発表は一ヶ月後らしいで」
 陽平の言葉に、貴仁はあっけらかんと断言する。
 ちょっと待て。では、なにゆえお前はそれを知っている。
「おい……」
「蛇の道は蛇っちゅーことやな」
(お前はいつからその筋の蛇になったんだッ!)
 内心で特大のツッコミを入れながら、手の中で玩んでいた空き缶を、ゴミ箱へと投げ捨てた。
 よく考えれば、この男に疑問を持つこと自体が間違っているのだ。なぜ生まれも育ちも関東の男が関西弁なのか、なぜこの男は……いや、やめよう。あまりに不毛だ。
(そうだ。この男に常識を問うのは、光海のアレを疑問にするのと同じ──)
 内心で言い終わるより早く、高速で飛来した何かが頬を掠めていった。
「……まぢ?」
 その答えは背後で聞こえたタンッ、という音が明言している。
 恐る恐る視線を向ければ、弦の撓った弓をこちらへ向けている光海の姿が在った。
 いつものこと。いつものことなんだとわかっていても、やはり疑問に思わざるえない。"その弓はいったいどこから出してきたのだ"と。
「な、なんだよ」
 なんとか搾り出せた言葉がそれだった。
 対する光海は、何事もなかったかのように弓を袋に片付けている。というか、いつでもどこでもあれが飛び出してくるのは、いったいどういうわけだ。
 普段、あの七尺三寸(二メートル二十一センチ)もの弓はいったいどこに消えているというのだ。
「私とアレを一緒にしないでよ」
 アレ=貴仁。というか、今声に出していなかったはずなのだが。
「ヨーヘーの考えてることくらい、顔見たらわかるわよ」
 いい加減付き合いも長いんだし。と付け加え、何食わぬ顔で隣の席に着く光海に、思わず袖からクナイを引き抜きそうになる衝動を必死で堪える。
 だが、援軍は思わぬところから来るものだ。
「なにが"付き合い長いしぃ"よ。そうじゃなくて、『ヨーヘーのことなら私なんでもわかるの』くらい言っちゃえば?」
 横合いからの唐突な発言に思わず赤面した光海は、彼女の中学来の親友、椎名咲【しいなさき】に怒りとも羞恥とも取れる表情で抗議する。
「あ、あのねぇ! なんで私がそんなこと……」
「わかるわよ。"付き合い長いから"」
 セミロングの髪を揺らしながら光海をからかう咲。実際、それほど長くは感じていない付き合いだが、どうやら幼馴染みの距離というものをしっかりと把握しているらしい。
 定番のチャイムが聞こえてくる中、そんな友人たちの姿に俺は、疲れ果てたようにもう一度だけ溜め息をついた。












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