そこはどこまでも闇だった。沈むことなく、落ちることなく、ただひたすらに漂い続けるだけの場所。
そんな倦怠感に身を任せているのも束の間、この不思議な感覚の正体を探ろうと重い瞼を持ち上げた。
しかしどうしたことか、目の前の光景は依然変わらぬまま。俺はこれが夢であると気づくのに数秒の時間を要した。
(なんだろうこのユメ……)
夢の中で夢と気づく夢、明晰夢というものだろう。だが、欲しい回答はそういうものではない。
『いらえ……』
いらえ? "応え"ということだろうか。
傾げているのかもわからない首を捻りながら、再び声の聞こえた方へ耳を澄ませる。
『いらえ……』
やはりそうだ。どこの誰かは知らないが、誰かを呼びかけている声が聞こえてくる。
(誰だ、誰を呼んでいる?)
答えを得られるわけでもない。にも関わらず、俺はそう尋ねずにはいられなかった。
『じゅうおうしき……ふうがくないをもつもの……』
姿なき声の答えに眉を顰める。
今、言葉の中にひどく聞き覚えのある単語があった。
(風雅……クナイ?)
呟きに似た問いに、誰かが頷いた気配を感じる。だが、相手が応えられるのなら話は早い。
(お前は誰だ?)
この問いにもすぐに答えは返された。
『けものの……おう』
それが名前なのか、はたまたなにかのヒントなのかわかりづらい回答に、陽平はそれを呟いてみる。
次第に声が遠のいていく。自分が夢から覚めるのだとすぐに気がついた。
現実と夢とが入り混じる感覚に、俺は焦燥感に駆られた。
(待てよ! まだなにもわかってねぇって!)
心で叫び、動いたかもわからぬ手を必死で伸ばした。
(待てって!)
すがる気持ちで伸ばした指先がなにかに触れた。すかさず巧みに手繰り寄せ、力任せにそれを握り締める。
「待ってくれっ!」
同時に、光が視界を覆い尽くした。
夢で叫んだ言葉が声になるのと、現実が訪れたのはほぼ同時であった。
しかし、手は確かになにかを掴んだまま。寝ぼけ眼でゆっくりと視線を動かせば、眉間に皺を寄せる暴君の姿がそこに在った。
教室は静寂に包まれ、自分の「あ……」という呟きがやけに大きく響く。
「居眠りだけならば大目に見たが、奇声で俺の女生徒たちの授業を妨げ、あまつさえ男という低俗な生き物に関わらず、この俺の手に軽々しく触れるとは……」
本校の古典教師、伊達誠一【いだちせいいち】の眼鏡に剣呑な光が宿る。
というか、今さりげなく"俺の女生徒"とか言わなかったかこの男。
しかしながら怖い。とてつもなく怖い。その白いスーツを着こなす容姿たるや、巨大企業の冷徹な若社長。もしくは、暗黒街を一望できる超高層ビルの最上階から、さもつまらなさそうに「フン……」と鼻を鳴らす若き帝王。
「あ、いや……ダテセンを掴むつも──ぉッ!」
刹那、伊達の視線に殺気が込められる。
中指で眼鏡の真ん中を軽く持ち上げると、レンズの奥に絶対零度の瞳が見えた。
「ダテではない……」
それは静かな、そして確かな怒りであった。
過去に名前でイジメにでもあったのか、伊達は「ダテ」と読むと決まって「ダテではない……」と殺気を立ち上らせる。
というか、普通はダテと読むんだから仕方がないじゃないかと誰もが思っているにもかかわらず、誰一人としてそれを口に出来ないのは、みんなこの男が本当に怖いからだ。
この教師が優しいのは染色体がXXの生物だけだ。それ以外の者など眼中にないと断言するのだから困ったものだ。
結局、生徒間では名前を弄って"ダテじゃないセイウチ"などと不名誉な二つ名で囁かれる事もある。
「風雅の罪が増えたところで時間のようだ」
伊達の言葉に僅かに遅れてチャイムが鳴り響く。だが、誰一人としてその場を動こうとはしない。普通なら「やっと終わった」などと談笑しながらそれぞれの放課後を満喫するところだが、野次馬根性が判決を知りたがっているのだ。
「授業は終わりだ。風雅は一緒に来てもらおうか……」
伊達の言葉で盛大に机に突っ伏し、自分が灰になって崩れていくのを実感した。
そんなことに構うことなく、教卓の荷をまとめた伊達は、無言のまま人差し指を教室のドアへと向ける。
「いくぞ」
死刑台を前にした死刑囚のような俺に、教室中が揃って合掌した。
燃え尽きた親友を笑顔で爽やかに見送った貴仁は、早々に帰り支度を済ませると光海に歩み寄る。
先ほどのことがそれほどショックだったのか、光海は帰り支度もしないまま頬杖をついていた。
「あれ、どないしたん?」
さすがに様子がおかしいと思い声をかけるが、光海はひきつった笑顔で応えるだけ。
「なんでもない。ただ、ヨーヘーのアンポンタン加減にちょっと呆れてただけだから」
「それにしては、ごっつぅショックやったみたいやけど?」
貴仁の容赦ないツッコミに、光海は言葉を詰まらせた。
本当にこの男は一番いい加減なようで、一番人をしっかりと周りが見えている。
だが、その質問の答えは、光海とは別のところから返ってきた。
「今日は、彼とデートだったらしいよ」
貴仁と同じく光海が気になったのか、唐突に現れた咲の言葉に、貴仁はニヤリと笑い、光海は盛大に顔を赤く染めた。
「ちっ、違うわよ! ただ、前にいろいろあったお詫びにって、ヨーヘーが映画に誘ってくれたから仕方なく!」
両手をなんども左右に振って否定する光海に、二人は肩を落としてため息をつく。
「仕方なくやのに、誘って"くれた"やねんな」
再び容赦ないツッコミに、光海は言葉を詰まらせる。
「それで、部活命な光海が休んでまで行こうとしてた映画の時間は?」
咲の問いに、光海は胸のポケットからチケットを差し出した。
「剣王伝説か……。風雅くんも、もうちょっとベタベタなの選べばいいのにね」
映画のタイトルに咲が不満の声を漏らす。別に彼女が観るわけではないのだから、どうでもいいといえばいいのだが。
「いんや、これ中世を舞台にしたごっつぅベタな展開のラブモンやで?」
既に観たのか、はたまた情報だけなのか。貴仁の意見に光海と咲は揃って「へぇ……」と声を漏らした。
「しっかしアホやな。さっきの授業乗り越えたら光海ちゃんとのラブラブデートやったのに……」
貴仁の言葉に、咲は同感だと力いっぱい頷く。
「で、ダテちゃんに連れていかれたってことはたぶん……」
咲の言葉を最後まで聞かなくてもわかっている。
楽しみにしていた。すごく、すごく、すごく。今日、放課後になってから最終上映時間に間に合うよう、二人で走っていくつもりだったのだ。でも……。
「間に合わないよね。まぁ、ヨーヘーが全部悪いんだし、また違うお詫びを考えてもらうわ」
いつの間に帰り支度を済ませたのか、鞄を手に立ち上がる光海は、そんな言葉を残して教室を出て行く。
結果、残される形になった二人は、あまりにも不憫な光海に、揃ってため息をついた。
「さて、私は部活に行くけど……安藤くんは?」
教室の奥に立てかけてあった弓の袋を手に、咲は期待の視線を向ける。
視線の意味は言葉にせずとも伝わったようで、貴仁は仕方ないとばかりに頷いた。
「あのアホの救出作戦に精出すわ」
まったくもって、毎度毎度世話のかかる二人に、貴仁はいずれ返ってくるかもしれない恩をあれやこれやと考える。
とにかく、現状でなすべきことは風雅陽平の救出。
その難関ともいえる作戦に思いを馳せながら、貴仁はどこからか出した皮の手袋を手にはめた。
結局のところ、光海は帰路についてはいなかった。
なんとなくそのまま帰宅することに躊躇して、いつもとは違う道へと足を向ける。
帰路の途中にある商店街以外での寄り道をほとんどしない光海にとって、市街地に足を向けるだけでも十分新鮮な感じがした。
(本当ならここをヨーヘーと一緒に……)
そう思うと、こうして一人で歩く自分に虚しさを、一人にさせた陽平には怒りを覚える。
(でも、私はヨーヘーの彼女でもなんでもないし、告白したわけでもない)
こうして考えると、自分がどれほど贅沢なことを陽平に強請っているのかと思えてくる。だから……、
光海は鞄を胸の前で抱きしめ、映画館の正面にあるベンチに腰をおろした。
「ヨーヘー、くるかな」
せめて待とう。彼が来てくれるまで……。
その頃、職員室。伊達誠一の机では、陽平の屍が力なくうな垂れていた。
目の前に積み上げられる問題の数々、そして最後に待つだろう反省文なるものには、怖気すら感じられる。
「どうした、まだ半分も終わっていない」
それでも夏休みの宿題半分くらいはあったとひた嘆く。もし、この監獄から救ってくれる者がいるなら神と崇めてもいいかもしれない。
そんな危険な考えを振り払い、ただひたすらペンを走らせる。
本当に今日中に終わるのかさえ心配になってくるこの生き地獄に、神の声が聞こえたのは丁度そのときだった。
ノイズの混じった音がスピーカーから聞こえる。それと同時に、謎の声が校内に響き渡る。
『ダテちゃん、ダテちゃん、至急放送室まできてください』
ご丁寧に何度か繰り返し、終了を告げる「ピンポンパンポーン」という音と共に放送は打ち切られた。
ボイスチェンジャーを使っていたようだが、長い付き合いだ。そもそもイントネーションだけでも今の声が誰だかわかってしまうのではないだろうか。
アレを神と思いたくはない。思いたくはないが、この状況ではヤツさえも神に思えてくるから不思議だ。
刹那、伊達が音も立てずにユラリと立ち上がる。身体から湧き上がるオーラは決して幻なんかじゃない。
「ダテでは……ないッ!」
職員室の温度が一気に零下まで達したような気がする。
脇目も振らず職員室を出て行く伊達に、誰一人として言葉を発することはできなかった。
「んじゃ、今のうちに……」
こんな好機を逃すわけにはいかない。犠牲となって命を落とした……かもしれない貴仁のためにも。
そこは忍者オタクの本領発揮。誰に感づかれることなく職員室を抜け出すと、一目散に昇降口へと走っていく。
どうやら母にはバレていたようだが、説教なら帰宅してからいくらでも聞くことにしよう。そんな決意を胸に秘め、俺はものの数分でまんまと学校の敷地を抜け出すことに成功した。
放送部員を縄で縛り上げた貴仁は、おそらく成功しただろう救出作戦を終了させると、ひとりごちるように頷きスピーカーのスイッチを切った。
早急にここから脱出しなければ、今度は自分が伊達の餌食になる。
「一番の問題は、変声機くらいでなんぼ騙せたか、やけどな」
「んーッ! んーーッ! んんーーッ!」
猿轡を噛まされたまま唸る放送部員に、貴仁は拍手を打つように掌を合わせる。
「堪忍や。これも友情のためやねん……」
それで見ず知らずの放送部員が犠牲になるのはどうでもいいらしい。
「ほな、無事を祈っとるでぇ」
そそくさと放送室を後にした貴仁は、走り去る背後で悲鳴が聞こえたのを空耳と思うことにした。
とにかく、未確認ではあるが、これでミッションコンプリートである。
学校前の坂を一気に駆け下り、商店街ではなく市街地へ続く道を疾走する。
なぜなら、おそらく光海は帰宅していないからだ。それも、かなり高い確率で映画館にいるだろう。
それがわかってしまう辺り、本当にあいつとは腐れ縁なんだと思う。
(あいつも変なところで律儀っていうか、なんていうか)
携帯電話で時間を確認すれば、すでに上映開始時間を過ぎている。
だが、最初の十分くらいはCMが流れるのは定番だ。
いや、たとえそうだとしても、普通に走れば間に合わない。
仕方ねぇ、と舌打ちすると、あらぬ方へと走り出し、道なき道を突っ切っていく。
「それが忍者ってモンだろ!」
誰にともなくそう叫び、塀に登り、フェンスを飛び越え、一気にバス通りへと躍り出る。
(時間は?)
さすがにキツかった。肩で大きく深呼吸すると、再び携帯電話を開いて時間を確認する。どうやら思った以上に早く到着できたらしい。
何度か深呼吸を繰り返して、衣服についた葉っぱを払い落とす。
(……走ってない。うん、俺は急いできたわけじゃない)
自分でもいったいなにをしているのか首を傾げたくなるが、念を押すように自分に言い聞かせると、映画館のある方へと歩き出す。
「光海のやつ、やっぱ怒ってンだろぉな」
特に約束と名のつくものには敏感で、約束を守れなかったときの沈みようといったら……。
そういえば幼少の頃にも、なにか約束をしたような気もする。とても大切な約束だった気がするが……。
そうこうしている間に、やはりというかなんというか、映画館のベンチに一人座る光海の姿を発見した。
声をかけ辛いほどに沈んでいる姿に、やっぱりかと頭をかいて溜め息をつく。
(しゃぁねぇ、せめて帰りにメシでも奢るか……)
サイフの中身がやや心配ではあったが、まぁ、なんとかなるだろう。
「おい、みつ──」
だが、声をかけたと同時にそれは起こった。
凄まじい爆発音と揺れ。近くでガス爆発があってもこうまで揺れはしないだろう。
「くっ、なんだってンだ。そうだ、光海は!」
やはり光海も周囲の人同様にパニックに陥り、立ち上がることもできないのか、その場で硬直している。だが、心底驚いたのはそんなことではない。
注意すべきは光海の頭上。
「やべぇ! さっきの爆発と揺れで、建物が崩れる!」
転びそうになるのをなんとか踏みとどまり、咄嗟に光海の元へと走り出す。
途中、転ぶ人や泣き出した子供も目に入ったが、見ず知らずの人間を心配してやれるほどの器量は持ち合わせていない。
せめて、どうにか目の前の幼馴染だけでも守れたら……。
「光海ぃぃぃッ!」
ありったけの声を振り絞り、光海に呼びかける。
こちらに気づいた光海が、ふらふらと立ち上がる。こんな状況だというのに、その表情は僅かに綻んでいた。
だが、とても間に合わない。しかも、ベンチの向こうには自動販売機が倒れており、突き飛ばすには場所が悪すぎる。
「くそっ! 今日は厄日だッ!」
強引に光海の手を掴むと、自分が走りこんだ力と遠心力を利用して、光海を自分が走ってきた方へと放り投げる。
自動的に、自分と光海の位置は入れ替わり、振り回した勢いでこちらが大きくバランスを崩した。さすがに今から体勢を立て直して逃げる時間は……
(ない……よな)
光海が尻餅をついたのと、自分の視界が真っ暗になったのはほぼ同時であった。
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