昨晩は床に就くのが遅かったからだろうか。いつもの起床時間になっても風雅陽平は、まだ微睡みの中にいた。
 僅かに寒気を感じたため、自分で蹴落とした肌掛けを手探りで掴むと、勢い良く引き上げて腹部を覆った。
 これで大丈夫。そう思った瞬間、
「んぅ……」
 謎の呻きと共に、何やら温かい塊が脇の辺りでもぞもぞと動き出す。
「うおっ!?」
 恒例の親父襲撃かと肌掛けを跳ね飛ばす。
 だが、予想に反したその光景に、陽平の思考は一瞬で凍りついた。
「ん〜、ようへい?」
 まだ眠たそうに、目を擦りながら陽平を見る少女の姿。
「ひ、ひすい」
 陽平は上擦った声でなんとか少女の名を口にする。
 ある意味、親父襲撃よりも衝撃的な光景だった。というか、凄く心臓に悪い。
「おはよ」
「お……はよう」
 そう口にはしたものの、あまりのショックに動くことができなかった。というよりも、どうしていいのかわからなかった。
「おきない?」
「いや、起きるけど……」
 上体を起こし、時計を見上げる。
 七時三十分。いつもなら親父襲撃が開始される頃だ。
(おかしい……)
 襲撃どころか、近づいてくる気配すらない。
(珍しい。今日は来ないのか……)
 そんなことを考え一人ごちる。
 そういえば肝心なことを聞き忘れていた。
「ところで、どうして翡翠がここにいるんだ」
「めいわく?」
「いや、迷惑とかそういうのじゃねぇけどさ、なんで俺の布団で寝てるのかなって」
 不覚にも、潜り込まれたことにさえ気付けなかった。
「ん、さむかったから」
 どうにも理解しがたい理屈だ。
(人肌恋しかったってことでいいのか?)
 それじゃ猫と同じだろと内心、ツッコミつつ苦笑を浮かべながらも、嬉しそうに話す翡翠にバカ丁寧に頷いてやる。
「兎に角、早く起きちまおう。こんなところ誰かに見られたらヤバい」
 そんな危機感に追われながら、陽平は早々に布団を抜け出そうとするが──
「ようへい、まつ」
 唐突にパジャマ代わりに履いている短パンを掴まれ、哀れにも陽平は顔面から倒れ込んだ。
「ようへい?」
「か……カンベンしてくれぇ」





勇者忍伝クロスフウガ

巻之参:『約束の矢文』







 昨晩を境に、ここ風雅家には住人が増えていた。
 食卓を囲むのは三人ではなく四人。
 リードの一の姫翡翠は、風雅翡翠と改名。風雅家の長女としての初めての朝を迎えていた。
 いつものような食卓戦争はなく、この家では極めて珍しい談笑混じりの平和な朝食の中、陽平はふと疑問に思ったことを訊ねてみる。
「なぁ、なんだって今朝は襲撃なしだったんだよ?」
 息子の言葉に、目玉焼きの黄身を潰していた父、雅夫が訝しげな表情を浮かべる。
「なんだ、来て欲しかったのか?」
「毎朝毎朝、そうしょっちゅう襲われてたまるか! ただ、ちょっと気になっただけだよ」
 確かに毎朝の襲撃には悩まされているのだが、急になくなるとそれはそれで変な気分になる。
 そう、例えるなら長年住んでいた家を引っ越した初めての朝とでも言おうか。
 兎に角、なんだか落ち着かない。
「気分が乗らなかったワケじゃない。ちゃんとした理由がある」
「どんな?」
 正直、この非常識親父には気分が乗らなかった以外の理由が想像できない。
「うむ。それはな、翡翠ちゃんが一緒に寝ていただろう」
「なっ!?」
 雅夫の言葉に、陽平は絶句する。
 息子の反応に満足したのか、雅夫は目玉焼きを口に放り込む。
「今のお前に、翡翠ちゃんを守りながら戦うことなどできまい?」
「あんだとぉ!?」
 思わず声を荒げて立ち上がる。
 どんな理由が出てくるかと思えば"未熟者"とは。
 さすがの陽平も頭にきたのか、今すぐ勝負とばかりにクナイを抜き出す。
 いつもならここで母、香苗が仲裁に入るのだが──
「ようへい、おぎょうぎわるい」
 己が姫と定めた少女の叱責に、さすがの陽平も二の句が続かなかった。
「ようへいもたべる」
 翡翠の差し出したブロッコリーを頬張り、とりあえず座り直す。
 しかし、一瞬とはいえ陽平を止める辺り、翡翠も少なからず只者ではないらしい。
 でも……と陽平は思う。
「でも、昨日話した通り俺は翡翠を守りながらガーナ・オーダと戦うんだ。親父のバカな襲撃だって修行になる」
 息子の言葉に少しだけ感心したのか、雅夫は「ほぅ」とだけ呟く。
 先日、陽平は獣王と共にガーナ・オーダの忍邪兵を撃退した後、翡翠を自宅へ連れて帰った。
 翡翠を守って戦うにしても、ずっと獣岬の洞窟にいるわけにもいかない。
 そこで陽平は両親に翡翠のこと、獣王のこと、そして今後自分がどうするか決めたことを話した上で翡翠を居候させようと考えた。もっとも、嘘をつかなかったのは、巧い嘘が思いつかなかったことと、この両親相手に隠しきれるとはとても思えなかったためだ。
 結果、二つ返事で承諾を得て、翡翠は晴れて風雅家の一員となった。
 ただ、娘が欲しかったと語る母は、とんでもないことに巻き込まれた、もしくは進んで身を投じたとも言うが、実の息子をそっちのけで翡翠を可愛がっていた。
 ちなみに、この父には特になにも期待しちゃいない。
「しかし、まだまだ……」
「未熟は承知だって言ってンだろ」
 改めて未熟を突きつける雅夫に、陽平は不機嫌そうに言い返す。
「翡翠ちゃんが部屋どころか布団に入ったことさえ気付けなかったくらいにな」
 再び陽平の絶句。
 そういえば、どうして朝来なかったはずの雅夫が陽平と翡翠が一緒に寝ていたことを知っているのか。
 答えは至極単純。
(お、や、じ、の、仕業かぁぁぁッ!)
 やはり許せんと、陽平は机の下でクナイを雅夫の足に投げつけるが──
「まだまだと言ったばかりだというのに……」
 そう言い、雅夫は足の指でキャッチしたクナイを食卓に乗せる。
(ちっ、バケモノめ)
 改めて父の超人っぷりを痛感した瞬間であった。
「それはそうと……」
 陽平は自分の皿から箸でブロッコリーを掴むと翡翠の皿に盛りつける。
「ちゃんと食えよ?」
 先ほど陽平に食べさせた分のおかえしとばかりに乗せられた緑の野菜に、翡翠は小さく口を尖らせた。





 今日は予鈴と同時に教室に入ることができた。
 陽平とて、そう毎日遅刻寸前の全力以上疾走をしているわけではない。ましてや、好きでそんなことをしているわけでもない。
(親父襲撃さえなけりゃな)
 飲み干したコーヒー牛乳のパックを握り潰し、後ろ手にゴミ箱へ放り込んだ。
 たまにこうした時間に登校できるのだが、やはり余裕ある行動というのは大切だと痛感させられる。
 そういえばと教室内を見回す。
 だが、いつもなら既にあるはずの姿がみつからず、陽平は首を傾げる。
「俺が余裕であいつが遅刻? 槍でも降るのかねぇ」
 そんなことを一人ごちる。
「おお。こんな早ぉから陽平おるやん」
 たまに早いとこんなことを言う輩もいるわけで。
「朝一に言う言葉か、それが!」
 陽平のツッコミに満足したのか、悪友と親友が同居したような男、安藤貴仁が笑いながらふんぞり返る。
「気にすんな。ただの愛情表現や」
「わかった。すぐに黙らせてやる」
 冗談を言いながらまとわりつく貴仁の額に、とりあえず手裏剣の洗礼を与えておく。
「しっかし、自分来たんやったら、これで光海も一安心やな」
 何事もなかったように額の手裏剣を引き抜く貴仁の言葉に、陽平は首を傾げる。
「せやし、自分、昨日学校けぇへんかったやろ? 光海がそれ、自分のせぇやってずっと落ち込んでたみたいやしな」
「えっと……」
 そういえばすっかり忘れていたが、陽平は幼馴染みの光海を助けて瓦礫の下敷きになったはずなのだ。
 結局、その日は獣王に助けられ、翌日には獣岬の洞窟で話し込んでいた。ようするに、先日は学校をサボったことになる。
(母さん、怒ってたもんな)
「マテよ?」
 昨日、光海は元気がなかったらしい。理由は、陽平が学校を休んだ理由は自分にあるかららしい。その理由というのが、一昨日光海を助けて瓦礫の下敷きになった件のはず。
「なぁ、ちょっと聞きたいんだけど、デカい瓦礫が落ちてきて下敷きになったやつがいたとして、一般的にはそいつはどうなったと思う?」
「死ぬっちゅーに」
「だよな」
 つまり、光海が遅刻してる理由は、自分を助けたために陽平が死んだと思っているからに他ならない。
「ヤバい。俺、光海のトコに行ってくる!」
「ちょいまち!」
 鞄も持たずに廊下へ飛び出した陽平を貴仁が呼び止める。
「一限、ダテちゃんやで?」
 それまでに戻らなければ、いつぞやの悪夢に続きを添えることになる。
 当然、時間までに戻れる保証などない。
 だが──
「貴仁、頼んだ!」
 脇目も振らず、陽平は静かになり始めた廊下を全力疾走した。
 あっという間に姿は見えなくなり、貴仁は一人ポツンと残された形になる。
「いや、無理やって……」
 誰もいない廊下に貴仁の呟きが消えていった。












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