最初に見たのは緑の液体で満たされた水槽越しに見える不気味な建物の内装だった。
 生まれて初めて目が覚めたとき、どうして自分はこんなところにいるのだろうと思った。
 記憶もないのに不思議に思え、少しの間あれこれと考えてみたものの、結局答えは出なかった。
 聞きたくもない気味の悪い声が延々と耳に入り、何日も目を閉じたまま過ごしていた。
 そしてようやく水槽から出された日、自分が誰かの複製で、しかも失敗作だったことを知った。
 たくさん身体を弄くり回され、来る日も来る日も肌を刻まれた。
 そして、唯一手が届いた本物のわたしが持つ力、鬼眼【きがん】というらしい左目も、そうと知れた日の内にわたしの元から奪われていった。
 本物のわたし。きらきらと輝く宝石のようなわたし。くすんだガラス玉じゃない、誰からも愛されて、誰かを愛することを許されたわたし。
 お願いだから、どうかわたしを壊してください。どうかわたしを止めてください。でないときっと、わたしはあなたを怨みます。妬みます。欲します。
 でも許されるなら、ただ一つでも本物のわたしのようにいることが許されるなら、どうかお願いします。
 わたしを、わたしとして見てください。失敗作の複製なんかじゃない、わたしの名前を呼んでください。
 そうあることができるなら、それはどれほど幸せなことなのでしょうか。
 ふいに鼻腔をくすぐる潮の香りに重たい目蓋を持ち上げてみると、視界いっぱいに飛び込んで来たのは人の顔だった。
 いつの間にか眠っていたらしい。仰向けに寝かされた玻璃は、頭の下に感じる人の体温に身体を固くした。
 目の前で眠りこけるこの少年を、玻璃は知っている。
 玻璃を生み出したガーナ・オーダに敵対する者。風雅と呼ばれる一族の兵器、忍巨兵を駆る忍者の一人だ。それも、忍巨兵最強とも言える獣帝マスタークロスフウガのパートナーであり、ガーナ・オーダが危険視している最重要人物。
 加えて言うなら、つい先ほどまで玻璃の融合した煉王ジェノサイドダークロウズと戦闘を繰り広げていた張本人でもある。
 思考がその事実に辿り着いたことで、最初に感じたのはやはり恐怖だった。
 無理もない。眠っているとはいえ、今の今まで殺し合いをしていた相手が鼻先三十センチも離れない場所にいるのだ。
 逃げなければ。この少年が目を覚ます前に動かなければ、自分はきっと殺されてしまう。
 あれほど滅びることを望んでいたにも関わらず、玻璃の本能は生き続けることを諦めてはいなかった。
 しかし抵抗しようとしたのも束の間、少年のあどけなさを残す寝顔をじっと見つめていた玻璃は、逃げることを諦めてその運命を受け入れることにした。
 たとえ運良く彼から逃げ延びたとしても、そう遠くない未来、玻璃は自分を生み出したガーナ・オーダの手によって殺されてしまうだろう。それは煉王の巫力を補うパーツとして組み込まれることになった時点でわかっていたことだ。
 いや、ガーナ・オーダは元より玻璃を生かすことなど考えてはいなかった。そんなことは繰り返し行われた実験や、言われ続けた呪いのような言葉の数々が物語っている。
 そうだ。自分は元々、殺されるために生み出された存在なのだから。
 それを理解した瞬間、玻璃は自分でも気づかない内に泣き出していた。
 幸せになることは愚か、生きる権利すら持たない硝子の人形。それが玻璃という存在なのだ。
 もう何もいらない。何も信じられない。何も感じられない。そんな気持ちに押し潰されて、今すぐにでも自らの喉を突いてしまいそうな勢いだった。
 とめどなく溢れ出す涙の滴が、仰向けに寝かされているために頬ではなく横に流れ落ちていく。
 誰もが玻璃が生きることを望んでいない。そう考えるだけで、もうなにもかもがどうでもよくなってしまいそうだった。
 しかしここにきてようやく、玻璃はあることに気がついた。
 どうして今、自分は平気な顔をして生きているのだろうか。
 煉王ジェノサイドダークロウズは玻璃のことなど一切構わず使えるだけの巫力を使い続けていた。"口"の鬼眼や巫力の相殺、それに死装兵ダークマターを再起動するための燃料代わりにと、玻璃の巫力は干上がってしまうのではないかと思うほどに搾り取られたのだ。
 玻璃のオリジナルであるリードの皇女翡翠は確かに強力かつ大量の巫力を有している。それゆえに複製である玻璃も同様に強大な巫力を有していたが、常人ならばとっくの昔に灰になっていても不思議はない。
 それがどうして生きて、しかも巫力が体中に満たされているのだろう。
 自分の中を満たしている暖かな巫力を感じ取り、玻璃は弾かれたように陽平の顔を見上げた。
 暖かな春風のような、それでいて力強い生命の息吹を感じることができるこの巫力はまちがいない。目の前の少年の、風雅陽平のものだ。
 身体を起こし、犬のように這いながら陽平の顔を覗き込むけどなにもわからない。
 なぜ彼は自分を助けたのだろう。敵なのに、陽平を傷つけようとしたのに、翡翠の複製なのに。
 情報としては知っている。彼は翡翠を守る忍者だ。でも、どれだけ翡翠に似ていても玻璃は翡翠じゃない。それは陽平だってわかっているはずなのに。
「どうしてわたしを助けたの? わたしがヒスイに似ているから? それとも……」
 鼻先が付いてしまいそうなほど顔を近づけ、寝息を立てる陽平の頬に玻璃の幼さが残る指先が触れていく。
 答えが欲しかった。どうして自分を助けてくれたのか、その答えが欲しかった。
 ただ一言で良かった。一言、「生きていていいんだよ」と言って欲しかった。
 無意識の内に少しずつ顔を近づけていく。少し首を傾げていなければとっくにお互いの鼻先が当たっていたところだ。
「お願い、答えて」
 そんな望みを胸に玻璃が目蓋を閉じる。
 しかしその続きは叶えられなかった。小さな息遣いだけどどこか必死で、それでいて強大な巫力の器がすぐ後ろまで近づいている。
 慌てて目を開いて振り返ったそこには、なぜか鏡があった。







勇者忍伝クロスフウガ

巻之弐七:「死闘、獣帝 対 超獣王」







 一瞬鏡かと思ったそれは、同じ黒に身を包みながらも玻璃とはまったく別の雰囲気を持っていた。
 和服と洋服の違いなんかじゃない。素材だとか、柄が違うとかそういうことでもない。互いに持った雰囲気が、気持ちが根本的に違うのだとすぐに気がついた。
 似ているようで違う。姿形だけが似通った別物。玻璃のオリジナル。
「ヒスイ……?」
 玻璃の問いかけに翡翠はすぐに頷いた。
 まっすぐで、胸の内まで見透かすような瞳が正面からぶつかってくる。
 顔だけ同じで、あとはみんな正反対。そういう意味では鏡と思ったのはあながち間違いではなかった。
 警戒されているのかとも思ったけれど、すぐにそれも杞憂だとわかった。
 翡翠は玻璃に歩み寄ることに、なんの躊躇いもなかった。歩み寄り、互いに手を伸ばせば届きそうな距離まで近づくと、翡翠が小さく小首を傾げる。
 翡翠の視線が胡座をかいたまま眠っている陽平と、玻璃の間を行き来しているところを見ると、一応は混乱しているらしかった。
「あれはようへい」
 そう。あれは風雅陽平だ。
 指差し確認する翡翠に、玻璃は内心で頷いた。
「……だれなの?」
 そう尋ねられることで、玻璃の中にあった負の感情がゆっくりと首をもたげる。
「わたしは玻璃【はり】。ガラスって意味。きれいな宝石のヒスイとちがう、あなたのにせもの」
 そう言って玻璃は恨みの目で見据えるが、翡翠は変わらず小首を傾げていた。
「にせものなの?」
「そう。あなたのにせもの。あなたとちがうのは、わたしがなにもないこと。きれいな名前も、大切なトモダチも、思い出も、幸せも……」
 言葉を紡ぐ度に自分の胸が抉られるようにズキズキと痛む。
「だからいいでしょ。ひとつだけでいいから、わたしにちょうだい!」
「ようへいは、だめ。それ、わたしの一番だいじ」
 先に釘を刺された気分だった。
 それならなにをくれると言うのだろう。思い出をくれる? 幸せをくれる? それとも、その綺麗な宝石のような名前をくれる?
 しかし翡翠がくれたのはそのどれでもなくて、不意に手を握られ玻璃はビクリと肩を震わせた。
 にこにこと笑顔の絶えない翡翠に対して、玻璃はこわごわと握られている手に視線を落とす。
 手を握ったからなんだというのだろう。この握られた手から、彼女の所有する力でも渡してくれるつもりなのだろうか。
「な、なに?」
 玻璃の視線が翡翠の顔と握られた手を行き来する。
「ともだち」
「え?」
「わたしと、ともだちになる」
 いきなりなにを言い出すのかと思えば、手を握るだけで"友達"などと。
「なれるわけない」
「なれないの?」
 吐き捨てるような呟きにも、翡翠はすぐに問い返してきた。
「言ったでしょ。わたしはニセモノなの! トモダチになんてなれるはずない!」
「にせものはともだちになれないの?」
「同じ顔、同じ声、同じ姿……。ニセモノなんてきもちわるいだけ!」
 自分でも気づかぬ内に、玻璃は大粒の涙をこぼしていた。
 どれだけ似ていたって、どれだけ真似したって、結局偽者はいつか消える運命だ。
 そうだ。先に消えた方が偽者で、最後まで残った方が本物なのだ。
 溢れ出した涙のように、胸の内に溜め込んでいたどす黒い感情が次々に溢れ出していく。
 今ここで翡翠を亡き者にすれば、自分が本物の翡翠になれるんだ。
 しかし、そんな玻璃の気持ちを知ってか知らずか、翡翠は握る手に力を込めていく。
「……いたい」
 そう言って見上げたそこには、玻璃とは違う意味で涙まみれの顔があった。
「ど、どうしてヒスイが泣くの」
 哀しいのは、泣きたいのはこちらの方だ。
 わからないと頭を振る翡翠。しかし泣くのも手を握るのも一向にやめようとはしない。
 不意に、翡翠の中に巫力の流れがあることに気付き、玻璃はその流れを目で追いかけていく。複製ゆえか、二人の巫力が極めて似ていたからこそ気づけたのかもしれない。
 全身の巫力が身体の一点に集中していくのがわかる。これだけの巫力を意図せず使用しているというのは驚きだが、それ以上に驚いたのは巫力の集中している点というのが翡翠の左目だということだった。
 間違いない。これこそが翡翠の鬼眼。見た相手の心やトラウマ、封じられた記憶、そういった形ないものに触れる能力。"手"の鬼眼。
 玻璃に鬼眼があっただけにそのオリジナルの翡翠にも当然あるとは思っていたが、まさか"手"の鬼眼だとは思ってもみなかった。
 鬼眼については囚われの忍巨兵、星王イクスの情報で知ってはいたけれど、まさか目撃例がもっとも少ない鬼眼を翡翠が持っていたというのは少なからず玻璃に衝撃を与えていた。
 つまり、今翡翠が泣いているというのは、じっと見つめている対象である玻璃のなにかに触れたということを意味する。
「ヒスイは、わたしのために泣いてくれてるの?」
「ちがう。泣いてるのはあなた」
 空いた手で胸の辺りを押さえる翡翠は、文字通り玻璃の気持ちに触れたのだろう。
 ここが痛い。そう言って唇をきつく結ぶ翡翠の瞳からは、洪水という表現が似つかわしいほどに涙が溢れ出していた。
「ここ。どうすればいたくなくなる?」
「わからない。そんなのわからない」
 今度は玻璃が頭を振る番だった。
 でも"友達"と呼ばれ、しっかりと手を握られたことは、素直に嬉しいと感じることができた。
「名前」
 突然の呟きは翡翠のものだ。
「わたしが名前を考える」
「それ、わたしの?」
 力一杯頷く翡翠に玻璃は胸が高鳴るのを感じた。
 出来損ないの硝子じゃない。偽者じゃない名前。それは玻璃が望んで止まない、しかし絶対に手は届かないものだと思っていた。
「きれいな名前、考える」
 どこか得意気な翡翠の声に、戸惑いながらも玻璃は強い期待を隠せずにいた。
 あれやこれやと悩んでいるのだろう。ウンウンと唸る翡翠を観察していると、なにか不釣り合いな姿が可笑しくて自然と笑みがこぼれる。
 不意になにを思ったか、ひらめいたとばかりに笑顔になった翡翠は辺りをきょろきょろと見回すと、手頃な石を拾い上げて二人の足下に"菫"と書いた。
「すみれ」
「スミレ?」
「花の名前。きれいなむらさきの花」
 宝石を模した硝子と呼ばれていた自分が、まさか花の名前で呼ばれることになるとは思わなかった。
「あと、えーごでこう書く」
 どこか得意気な笑顔で菫と書いた横に"SMILE"と書く。
 残念ながら英語は玻璃の知識にない言葉だったが、これもこの星の文字なのだろう。
「これで"スミレ"って読むの?」
「ん。でも、すまいるって読むのもできるって、せんせい言った」
「すまいる?」
 小首を傾げる玻璃に、翡翠は笑顔のまま何度も頷いた。
 それもやはりこの星の言葉なのだろう。意味を尋ねると、翡翠は自分の頬を指差して笑顔の花を咲かせて見せた。
「これ、すまいる。笑顔のこと」
 そう言って笑う翡翠の笑顔が眩しくて、本当に自分にそんな名前が相応しいのか疑わしくなってくる。
「笑顔の、花? それがスミレ?」
「ぴったり」
 菫と心の中で何度も繰り返し、数を重ねるごとに胸に暖かいものが広がるのを感じた。
「すみれで、いい?」
「いい……の? わたしがスミレで」
 はっきりと頷かれ、どこか照れ臭いと感じながらも新しい名前にこぼれる笑みを隠せずにいた。
 そのときの玻璃……いや、菫は先ほど眩しいと感じた翡翠と同じように笑えているという嬉しさも相俟って、太陽のように眩しい笑顔を浮かべることができた。
「あの……ありがとう、ヒスイ」
「すみれ」
「え?」
 突然呼ばれて戸惑いながらも、菫ははにかむような笑顔を返す。
「へんじする」
「う、うん。まだ、ちょっとはずかしい」
 名前を呼ばれる。ただそれだけのことが、これほど嬉しく、幸せなものだと思える日が来るとは思ってもみなかった。
 これもすべて翡翠の、友達のおかげ。
 たとえ百回お礼を言ったとしても、この気持ちを伝えきるのは難しいと思う。
 こういうのを生まれたての感情というのなら、まさしく菫は生まれ変わった気分だった。
 友達と名前。彼女から貰ったこの二つに見合うものがどうしても見つからない。
 口にしなかったとはいえ、翡翠を亡き者にしようと思ったことは一度きりではない。その償いも兼ねて翡翠になにかしてあげたい。なにか伝えたい。
 にこにこと笑顔を絶やさない翡翠から目を反らし、菫が溜め込んだ想いを口にしようとしたその瞬間、強烈な視線が菫に向けて突き付けられた。






 同じ顔が二つ、同時に釧を振り返った。
 戦闘中に姿を消した風雅陽平を探して獣岬の洞窟に足を踏み入れた釧は、暗がりの中で隠れようともしない三つの気配を感じ取り、様子を探ろうと気配を殺して接近を試みた。
 ここで陽平以外の忍巨兵に出会うのは得策ではない。用があるのはあくまで陽平と獣帝のみ。陽平を助けに仲間たちが集まっているのなら一度出直す必要がある。
 しかしその結果、思わぬ相手と遭遇することになり釧は困惑した。
 同じ顔が互いに微笑んでいるというあまりに懐かしい光景に、思わず姿を見せてしまったのだ。
 釧を振り返る同じ顔。残念ながらそれは過去の記憶とイコールではなく、妹の翡翠と、もうひとりはおそらく陽平の連れていた翡翠の複製だ。
 突然姿を見せた釧に驚いたのか、後ずさる複製を庇うように翡翠が前に出る。
 いつもならここでさらに前に出てくる少年忍者は、疲労からか胡座をかいて眠りこけたまま。
 死にかけていた複製が元気そうにしているところを見ると、どうやら陽平は少女を救いつつ自らも生き残ることができたらしい。
 余計な心配をさせてくれると思いつつも、釧は未だ眠りこけている陽平に鋭い視線を向ける。
 これで目を覚まさないというのは、正直あまりいい状態ではない。巫力の急激な消費による一時的な睡眠なのだろうが、これではいつ目覚めるかわかったものではない。
 適度に巫力を分け与え強制的に覚醒を促すしかないと釧が歩みを進めた瞬間、翡翠のあまりに意外な行動に釧は驚きを隠せずにいた。
 両腕を広げ、複製だけではなく陽平すら守るように立ちふさがる。その表情は強い意思を持ち、頑なに釧の接近を拒んでいる。
 不謹慎とは思いながらも、そんな妹の姿に成長を見ることができた気がして、釧は悟られぬ程度に笑みを浮かべる。
「心配するな。別にお前たちに危害を加えようなどと思ってはいない」
 できる限り感情を抑えて言葉を紡いだつもりだったが、感受性の強い翡翠はなにかを感じたのかもしれない。
 やや驚きの表情を見せつつも、翡翠は陽平を守るように立ちふさがる。
 陽平という少年は翡翠にとってそれほどまでに大切な存在になり得たのかと思うと、些か嫉妬のような感情すら覚えてくる。
 これ以上語れば翡翠はなにかに気づく。それを避けるためにも釧は唇の端を噛むように言葉を戒めると、冷めた目でゆっくりと三人に歩み寄っていく。
 一歩ずつ近づくにつれ、翡翠の表情が強張っていくのがわかる。
 そうだ。それでいい。お前はそうして俺を恨んでいればいい。そうすれば哀しみは少ないから。その哀しみもきっと、お前の忍者が埋めてくれるはずだから。
 なにも言わず、なにも語らず、ただ翡翠の横を素通りするつもりで歩みを進めていく。
 しかしこれも兄の性なのか、ついつい目は翡翠の姿を捉え続け、いざ横を通り抜けようとしたときには怯えた妹の頭に優しく手を乗せていた。
 しまったと思ったときにはすでに遅く、翡翠は仮面の下に残っていた兄の顔を見つけ出していた。
「あにうえ!」
「黙っていろ。俺は風雅陽平に用がある」
 これだけ接近しても未だに目覚めない陽平に呆れのため息をついた釧は、陽平の襟首を掴むと無造作に肩へと担ぎ上げた。
 服の裾を掴む翡翠を一瞥し、足下にまとわりつく猫でも払い除けるように身体を押し退ける。
「あにうえ。ようへい、どうするの?」
 心の底から心配しているのがありありとわかる表情で見上げる妹に背を向け、釧は黙ったまま洞窟の外へと進んでいく。
「まって、あにうえ! ようへいはだめ! あにうえ!」
 突き放した妹が追いかけてくる度に、呼吸が乱れるような痛みが胸に走る。
 だが、今はまだ振り返るわけにはいかない。まだそのときではないのだ。
 ふいに感じた強烈な視線に歩みを止めた瞬間、翡翠が抱きつくようにして足にしがみついた。
「あにうえ! ようへい、かえして!」
「翡翠、放せ」
 感情を殺した声で制するが、翡翠は頑なに頭を振る。
「放せ。風雅陽平との決着をつける機会は今このときを置いて他にない」
 陽平に伝えねばならない。釧の思いを、リードの民の怒りと哀しみを。
「ようへいはだめ。ようへいはみんなのようへい! ようへいがいないと、みんなかなしむ!」
「……そこに隠れているキサマ、翡翠の護衛ならいい加減これをなんとかしてもらおう」
 いったいいつからそこにいたのか、釧の向けた視線の先ではフウガマスターこと風雅雅夫その人が、洞窟の入り口に寄りかかるように陣取っていた。
 自分を逃がさないつもりか。それとも翡翠を傷つけさせないために警戒しているのか。どちらにせよこの男はただ者ではないし、黙って釧を行かせるつもりはないのだろう。
「生憎、ワシはもうひとりの護衛でな。もっとも、この地で翡翠ちゃんの保護者はさせてもらっているがね」
 翡翠ではなく、もうひとりの護衛。つまりこの男は翡翠以外のもうひとりの姫、琥珀の忍者なのだ。
 そしてそれはつまり、風雅忍者の最高位に位置する実力者ということになる。
「キサマがこの地のフウガマスターか」
「なぁに、じきにキミが担いでいる愚息に地位を譲ることになりそうだがね」
 なるほどと納得させられる説明だった。
 陽平が師事していたのは釧の師である鏡と同等の実力者、フウガマスターだったのだ。それだけでも陽平の強さの秘密を垣間見た気がした。
「それを、どうするつもりかね」
「……無論、全力を以って闘うだけだ」
 言葉の意味を吟味しているのか少し押し黙った後、雅夫は「そうか」と小さく息を吐いた。
「翡翠ちゃん。彼は陽平を悪いようにはせんよ」
「ほんと?」
 答えを求める翡翠から目を背け、一言も交わすことなく頷いてやる。
 悪いようにというのがどこまでを言うのかはわからないが、少なくとも寝込みを襲い、始末するようなことだけは絶対にないと誓える。
 そっと名残惜しそうに手を放す翡翠に溜め息をつき、釧は一応助けてくれた雅夫に目でお礼を告げる。
「釧といったかね。これは不肖の息子だが、伝えた言葉や気持ちだけは絶対に無駄にはせん。安心して叩きのめしてやってくれ」
 雅夫の横を通り過ぎ、少し離れた位置にまで進んだ釧は、海中で待たせていた超獣王を呼び出すと一度だけ翡翠と雅夫を振り返る。
 おそらく今までの中でもとびきり邪悪な表情を浮かべることができたに違いない。
 師であり父でもある男に叩きのめせと言われたからには容赦はしない。いや、もとより容赦するつもりなどなかったが、許可を得た以上は免罪符を手に入れたも同然だ。
 今までの想い、すべてを風雅の技に乗せて風雅陽平を叩きのめす。
「後悔してもしらんぞ」
 それだけを告げ、釧は超獣王の掌に乗って大空へと飛び上がっていく。
 ひとときでいい。この少年と全力でぶつかれる場所へ向かおう。
「カオスフウガ、北の大陸を目指せ」
 あそこなら万が一邪魔が入ったとしても誰に迷惑がかかることもない。
 いや、決して邪魔などさせはしない。必ず目的を遂げてみせる。
 釧の決意と未だ目を覚まさない陽平を乗せて超獣王は飛ぶ。目指すは氷に包まれた北の大陸、北極。













<NEXT>