タン、という音を鳴らしてクナイが的に突き刺さった。
投げた回数は忘れた。百を越えた辺りで数えるのが面倒になったのだ。
クナイ投げを始めて数時間。ようやく的に当てられるレベルになったことに、陽平は年相応な子供らしい笑顔を見せた。
「やっと当たったよ。おじさん」
「ああ。随分とかかったがな」
本当に長かった。あれだけ必死になって口頭で説明したのは、流石の雅夫でも初めての経験だった。
陽平につられてついつい笑みがこぼれるが、それを隠すのに陽平から顔を背ける。
ふいに何かが聞こえてきた。陽平にばかり気がいっていて、ずっと聞き逃していたのかもしれない。
聞き取ろうと耳を澄ませる。人の声。それも数人ではなく、もっと大人数のものだ。
里中が慌ただしい。それも、異常なレベルで動き出した大勢の忍者や巫女たちに、幼い陽平も不安の表情で雅夫を見上げている。
「まて。なにがあった」
動き回る忍者の一人を掴まえる。相当焦っていたのか、一瞬、雅夫が誰なのかわかっていない様子を見せる。しかし次の瞬間にはひざまずき、頭を垂れた。
「雅夫どの! 申しわけ──」
「能書きはいい。報告を」
「はっ。実は忍巨兵を復活させた当主さまたちが、獣王によって施された封印をも解き放ち、里中に魔の者たちが現れたのです!」
軽く眩暈でも起こしそうな事態に、意思とは関わらず苦笑がこぼれ出す。
獣王によって施された封印といえば、満場一致で、獣王の復活後に話を聞いてからとなっていたはず。あの獣王による封印となれば、善い物であれ悪い物であれ、重要な物を意味している。それがわからない琥珀ではない。
「封印を解いたのは、本当にご当主の意向か」
「定かでは。しかし現在わかっていることといえば、斎乃巫女が、単身解き放たれた魔を食い止めようと、亡くなられたことと、マスターが乱心され、当主代行たちを惨殺されたていうことのみ」
「な……に」
聞き間違えなんかじゃない。今、この忍者は朝陽が死に、陽一が怒り狂ったと言っていた。
ありえないという気持ちと、告げられた事実が頭の中で葛藤を続けるが、今は悩み足を止めている場合じゃない。
「おじさん」
聞かれただろうか。近づいてくる陽平に目の高さを合わせ、陽一に似たくせっ毛の頭を撫でる。
「俺は陽一さんに話を聞いてくる。お前は俺が呼びに戻るまでここにいろ」
「ぼくも──」
「来るな! いいか、絶対にだ」
大声を出したのが効いたのか、不安の表情で陽平は頷いた。
これでいい。もしものとき、雅夫はお前の父親を止めることになるかもしれない。行動だけでなく、命を刻む心臓の鼓動さえも。
陽平たちをその場に捨て置き、雅夫は騒ぎが拡がる中心を目指した。
魔とはよく言ったものだ。忍者を思わせる風貌の傀儡が里中を跋扈し、風雅の忍者たちが巫女と協力して駆逐を続けている。戦場になった里を走り抜けながらいたるところでそんな光景を目にした。だが、まだここじゃない。騒ぎが拡がる中心とは、思いのほか静かなものなのだ。そんな、いわゆる台風の目を探して走り回り、雅夫の瞳≪鬼眼≫がようやく中心だろう人物の姿を発見した。
兄者。まさか本当に乱心したわけではあるまい。いったい何があった。
足を止めて、身構える。まるで雅夫が来ることがわかっていたかのような配置。
詳しく気配を探るより早く飛び出してきた忍者の姿に、とっさに思い浮かべた言葉は「魔物」だった。
刃を染める赤い染みに混じった紫が、いかにも毒を塗っていますと主張している。もっとも、どの忍者の得物もこの身に触れさせるつもりなど毛頭ない。近づく八つの影を、一斉に細切りにしてから風遁で吹き飛ばす。
たとえトラックに撥ねられてもこうはならない。細切れになった肉片を周囲に飛び散らせる様は、我ながら狂気じみている気がしてならなかった。
「まだ来るか。実力差を見て、なおも前に出る。やはり傀儡の類」
黒い装束姿がふらふらと数を増して寄って来る光景は、忍者というよりもゾンビに近いものがある。
一体一体の能力は高くない。しかしこの数を延々と相手にしていては、陽一を見失う可能性がある。
「多少の消耗は必然。ならば全力を以て最速で退ける」
全身に巫力を満たしていく。足の先から頭の先までしっかりと巫力が満ちたのを確かめると、雅夫は溜め込んだ巫力を解き放った。
雅夫を中心に、三桁に届きそうな数の分身が飛び出していく。
≪シャドウマスター≫と呼ばれた風雅雅夫のもっとも得意とする≪風牙≫の一つ、影の巫力で虚像などを作る≪影牙【えいが】≫。
すべての分身が本体と限りなく対等に近い能力を持っている以上、魔物忍者共が全滅するのに、さしたる時間は必要なかった。
「ふん。このシャドウマスターの前に立ったことこそ不幸と思え」
捨て台詞も忘れず、雅夫はようやく再会できた兄弟子を振り返る。
陽一が、こちら目指して近づいてきているのは、≪鬼眼≫で見てわかっていた。
お互いに無言のまま歩み寄り、共に必殺の間合いぎりぎりのところで立ち止まる。
「どういうことだ、兄者。詳しい説明を要求する」
だが、陽一は雅夫の要求に応えるどころか、顔を歪めて不気味な笑いを浮かべていた。ようやく口を開いたと思えば、
「あの世に行ってから、存分に説明してもらえ」
てんで話にならない。
問答無用とばかりに斬り掛かる陽一の刃を避け、再び巫力を集めにかかる。
陽一さんをまともに相手にしようと思うなら、先程度の≪影牙≫ではだめだ。ただ数を増やすのではなく、常に必殺を狙うつもりでなければ次の瞬間地面に倒れ伏しているのはこちらの方。
「無理矢理にでも話を聞かせてもらうぞ、兄者!」
まず分身を二人、まったく同じタイミングでけしかける。決して弱くはないはずの分身。しかし陽一は、それを一振りで斬り伏せ、手にした刀を雅夫の喉を目掛けて突き入れる。首を捻って狙いを外し、雅夫は手にした刀を下から顎を斬り上げるように走らせる。
体を捌いて刀をかわした陽一は、その勢いで雅夫の側頭部に後回し蹴りを叩き込む。
「うぐっ! なんのこれしき!」
蹴り飛ばされ、建物に叩き付けられそうになるのを分身にキャッチさせる。間髪入れずに飛来する手裏剣を別の分身に迎撃させ、雅夫は身を低くして分身の脇下を走り抜ける。
「兄者ぁ! 裏切るのか! マスターが風雅を裏切るつもりか!」
「さてね。お前があの世にいけば、答えが聞けるかもしれん」
「戯れ言をっ!」
風雅流最速を誇る天之型で斬り掛かるが、やはりマスターが相手では容易くあしらわれる。手数を増やそうが、変化を加えようがそれは変わらない。
「ならばこれならどうだ!」
一撃をより重たく、地之型を奮う。巫力を帯びた刀身が光の尾を引き、陽一を腰から肩まで斬り裂いた。
仕留めた。いや、この手応えは≪影牙≫だ。
自らの分身を突き破って、陽一の刀が雅夫の眉間を浅く切り裂いた。
だがそれで止められると思われたのだとしたら、陽一は雅夫を過小評価している。
「≪崩牙【ほうが】≫!」
一瞬で連続衝撃を与える≪崩牙≫で分身の腹を殴り、同時に後ろの陽一をも吹っ飛ばす。体をくの字に折って建物に突っ込んでいく陽一に、雅夫はようやく一息をついた。
「障害物など俺の≪鬼眼≫には無意味。兄者よ、いつまでも隠れていないで出てきたらどうだ」
「やはり一筋縄ではいかないな、お前は。だからこそ、お前たちのような忍者を忍巨兵と結ばせるわけにはいかない」
「俺に……忍巨兵?」
雅夫の疑問に陽一が眉をひそめる。
「……お前、兄者ではないな」
「なにを根拠に──」
「兄者なら、陽一さんならば知っているはずだ。俺は忍巨兵とは契らない。あくまでマスターの影なのだと」
それが雅夫の信念であり、生きてきた道だ。陽一は笑っていたけれど、決して不真面目に聞いていたわけではなかった。雅夫の意思を尊重し、雅夫の念いを理解してくれていた。そんな陽一が、雅夫と忍巨兵が契ることを畏れるはずがない。
「何者だ、貴様!」
妖しく笑う陽一の姿に、雅夫は怒りと共に切っ先を突き付ける。
「何を言い出すかと思えば、バカバカしい。フウガマスターではない? 違う。それは間違いだ。俺は間違いなくフウガマスターさ」
速い。
瓦礫の隙間から駆け出した陽一が、一瞬で雅夫との間合いを詰めた。雅夫が警戒を怠ったわけではなく、相手が純粋に速かった。
刺突と同時に無数に割れる切っ先を残らずかわし、かわす先を読まれて撃ち込まれた火の玉を切り払う。
「ただし体だけ。なんだけどな」
「なんだとっ!」
驚いた拍子に掌底が頬を打つ。のけ反り、倒れそうになるのをなんとか堪え、追撃を受け──
「……これは」
──ようとしたが、追撃はなかった。正確には、陽一は追撃をかけた。にも関わらず、雅夫がこうして無事でいられるのは、何者かの横槍が陽一の動きを阻んだからにほかならない。
「……香苗さん」
文字のように見える光の鎖が、陽一を地面に繋ぎ止める。その術が、横槍を入れた相手を教えてくれた。
振り返ったそこに、思った通りの姿を見つけることができた。眠そうな目をした長い黒髪を波打たせる女性。着付けた巫女服は、なぜだか袖を捲り上げている。その特徴的な容姿を見間違えるはずもなく、
「邪魔をしたわ」
その素っ気ない口調を聞き間違えるはずもない。
「いや。助かりました」
嘘じゃない。もしも香苗の横槍がなければ、雅夫は致命的な傷を負っていたに違いない。だからこそ香苗も助けてくれたのだろう。
「兄……とは違うみたいね」
「体は陽一さんだと言っていた。嘘か真かは、まだわからない」
さすがのフウガマスターも、唐突な実妹の参戦に少しは驚いているらしい。縛り付ける術を振りほどくそぶりも見せず、なぜか棒立ちで俯いている。倒すにはまたとない好機だが、別に陽一を殺しに来たわけではないのだ。
「体は兄者と言ったな」
「ああそうだ。体はお前の兄弟子だよ、雅夫」
わざわざ陽一の口調を真似する辺りに若干カチンと来るが、その程度で雅夫たちが隙を見せるほど動揺するはずもない。
「では問う。ヌシは何者ぞ」
「お前の兄以外に見えるかな。香苗」
「見えるから問うのだ、愚か者。それとも兄は、私がわかっていることを問い詰めるような回りくどい人間と思っておいでか」
香苗の口調が普段と違う。どうやら動揺以前に怒っているらしい。しかし陽一は、それさえも気にした様子もなく、ただじっと何かを待つように俯いている。
何かがおかしい。そう感じたのは、長年陽一と過ごしてきた雅夫ならではの勘だったのではないだろうか。香苗を抱えるようにして距離を取るが、"それ"からは逃れられなかった。
「奪い尽くせ……」
その言葉を引き金に、陽一を目掛けて気流が生まれていく。いや、気流などと悠長なことを言えたのは最初だけで、陽一に目掛けて流れる風は、すぐに嵐のように変化を見せる。
「風を、吸収しているのか!」
「違う。これはフウガマスターだけに与えられた秘術、風之──」
「≪風之貢鎖人【かぜのくさり】≫」
陽一を束縛していた術が、構成する巫力ごと吸収されていく。術が泡のように分解される光景など、そうお目にかかれるものではない。
だが、事はそう単純でもない。まず分身用に確保していた巫力が奪われ、次に身体強化を行っていた巫力が瞬く間に消失する。
「まずい」と呟き膝をつく香苗に続くように、雅夫の足からも力が抜けていく。
「まさか……他人からも強制的に奪えるのか!」
「巫力とは自然界に溢れる生命力。それだけでは体外に放出することさえ困難な力だが、それを風や火、水や植物などと融合させることで、風雅はこれを操る」
語りながら陽一が触れた木が、一瞬にして枯木に成り果てた。
「≪風之貢鎖人≫は、その巫力を持つものと術者と繋ぎ、自らに集めることで人を超える秘術」
人を超える。普段ならバカバカしいと一蹴していたが、この術を前にして笑うことなどできようはずがない。
先ほどの攻防でつけた傷が、集めた巫力によって瞬間的に再生する。当たり前だ。今陽一が説明していた通り、巫力とは生命力と同義。それを無尽蔵に集める≪風之貢鎖人≫を使っていれば、傷を負った傍から莫大な生命力が修復を始める。
文字通り、"不死身"というわけだ。
「くっ! なんとかしてこれを封じなければ、俺に勝ち目はない」
「諦めろ。お前たちは、自らが讃える最強を相手にしているんだ」
これを止めるには、一時的にでも術を断ち切り、その瞬間に首を落として絶命させる以外にない。
『そう難しい顔で悩むなよ、雅夫。攻略法ならある』
突然聞こえた良く知る声に驚いたのは、なにも雅夫たちだけではなかった。
動きを止め、額を掻き毟る陽一の姿に、何故だか本来の陽一を見たような気がした。
「ばかな! この肉体は完全に掌握したはず!」
『お前が自分で言っただろう。巫力とは生命力と同義だと。それを大量に吸収すれば、俺の意思を一時的に表面化する程度、わけないさ』
それがどれほどの苦労かはわからない。しかし口で言うほどたやすいわけではないことは、苦しみ続ける陽一を見ればわかる。
一人芝居のように交互に言い合う陽一と、もう一つの意思が、肉体が狭すぎるとばかりに集めた巫力を解き放つ。
熱いと感じる風が頬を撫で、雅夫は香苗を助け起こしながら、陽一を振り返った。
「兄者!」
『聞け、雅夫! これは事故だった! 当主代行はよかれと思い、この時代最初に目覚める忍巨兵とときを同じくして獣王の封印を解いた。しかしそれは解いてはならないもの。それは今、封印の中ではなく、俺の中に巣くっている。それはかつて忍巨兵たちが五つに分けて封じていた過去の怨念、ガーナ・オーダの長、織田信長の意思だ!』
まくしたてるように言葉を並べる陽一。雅夫は内心でそれを反芻すると、改めて現在の危機的状況に息を飲んだ。
それはつまり、いつか蘇ると予見されていた仇敵が、あろうことか風雅の当主代行によって解き放たれたということだ。そして何故か、今は陽一の中にいる。
『俺と朝陽は信長を食い止めるため、この時代の肉体を得る前になんとか捕獲した。マスターの≪風之貢鎖人≫と、斎乃巫女の制御力で、形なき信長を巫力に閉じ込め俺という肉体に収めることには成功した。だが、直後に朝陽は奇襲を受けて命を落とし、朝陽の力を借りて信長の意思を抑えていた俺もこのざまだ』
フウガマスターと斎乃巫女は一心同体だと聞かされていたが、まさかそんな能力関係まであったとは驚きだ。だが、なにより朝陽を殺した相手というのが気になる。
「兄者。朝陽さんを襲ったというのは何者だ」
『その者の名は、森蘭丸。この数百年、風雅の捜索から逃れ続け、今この瞬間も自らの主を蘇らせようと企てる者』
信長の懐刀と言われる、あの森蘭丸か。今この場にいないということは、陽一が退けたか、あるいは自ら退いたのだろう。≪鬼眼≫を駆使して周囲を伺うが、少なくとも里内にはいないようだ。
「ならばこれは好機。兄者よ、信長の意思を封じ込める手立てはないのか」
『あるからこうして話している。しかし封じるだけではだめだ。今ここで滅してしまわなければ、いつか近い将来に今日と同じような日を迎えることになる』
「しかし、それは兄者を殺すしか方法が……!」
それは風雅にとって大きな損失。それだけではない。陽平は、一人残される息子はどうする。今、兄を討たねばならない妹はどうする。
雅夫の考えなど陽一にはお見通しだろう。優しい目をした左の顔が笑っていた。死に逝くことをまるで恐れていない笑顔は、間違いなく雅夫が支え、守ろうと誓った兄の顔だ。
「……他に、方法はないのか」
陽一の顔を直視できない。顔を背け、自らの無力にうちひしがれながら、握りしめた拳を震わせる。
『すまない。陽平を、風雅を頼む』
それは、そんな晴れ晴れとした声で告げる言葉じゃないはずだ。
『香苗。ダメな兄に、最期くらいは力を貸してくれないか』
「何をすれば?」
まるで、そう言われることがわかっていたかのような香苗の口調に、陽一は「悪いな」と、おつかいでも頼むように苦笑を浮かべた。
『俺は今から≪風之貢鎖人≫を解き放つ。そうしたらお前が、力の向きを真逆に変えて欲しい。そうすれば放出される巫力に乗って信長の意思も排出されるはず。あとは形なき者さえも斬り捨てる天地之型ならば、俺の巫力ごと斬れるはずだ』
聞いただけなら、陽一を助けられそうなこの方法。しかしこれを行ったところで陽一は助からない。≪風之貢鎖人≫で巫力を放出するということは、陽一は命を放出し続けるということになる。それがわかっていながら、それ以外に方法がみつからないなんて。
フウガマスターの影とは、いったいどれだけ無力だというのだろうか。
「わかった」
感情を殺した声で承諾を告げ、雅夫は取り落としていた刀を拾い上げる。
「兄者の命、このシャドウマスターが貰い受ける!」
涙を流したりはしない。これはフウガマスターを継承する儀式。"やらねばならないこと"なのだ。
≪風之貢鎖人≫は呪いのようなもの。術者が死ねば、殺した相手に能力や巫力がまるごと移行される。風雅ではこれを『風の継承』などと読んでいるが、結局のところは師や親族を殺す行為を割り切るための言葉にすぎない。しかし今は、あえてその言葉を使う。使わずにはいられなかった。
『よし。これで次のマスターと斎乃巫女は決まったな。さぁ、風雅を頼むぞ、二人とも』
「やらせぬ! ようやく手に入れた肉体を、易々と手放すと思うか!」
二人の陽一の声が重なって聞こえてくる。信長の意思を抑え切れなくなってきたようだ。どうやらもう、陽一に残された時間はないらしい。
ならばせめて、陽一の最期の願いくらい叶えてみせるのが、彼を『兄』と呼ぶ雅夫たちにできる唯一のことではないだろうか。
迷うな。迷った時間だけ陽一を苦しめることになる。そんなこと誰も望んではいない。
「やらせてもらうぞ、織田信長よ! 貴様を倒すことは我ら風雅の本懐。たとえ本体でなくとも貴様を倒すことに躊躇いはない!」
立ち上がり陽一に切っ先を向ける。たとえどれほどの状況になろうとも、陽一がやると言った以上、必ず≪風之貢鎖人≫に隙が生じる。狙うはその一瞬。何より速く、何より強く斬り裂く。
「よかろう。ならば全力で抗え! 風雅ァ!!」
声の質が変わった。父のような、兄のような、常に見上げればそこにある太陽のような陽一の声とは違う。例えるなら覇を唱える者──覇王の声。
びりびりと鼓膜を突くような声が、突風となって叩きつけられてくる。
完全復活でなくてこれほどか。そう考えるだけで、ますます捨て置けなくなった。
「俺が必ず隙を作る。香苗さんはその時を……!」
「わかってる。でも、男は単純で、自分勝手だってことも理解した」
それは陽一に向けられた言葉なのだろうか。苛立ちともとれる言葉に、雅夫は苦笑を浮かべるしかなかった。
次の瞬間、≪風之貢鎖人≫の効果によって何倍にも加速した陽一が、雅夫と香苗の間を通り抜けていく。かろうじて通り抜けられたことはわかったが、それではまるで見えていないのと変わらない。事実、いつ斬られたのかわからない傷の痛みに、雅夫と香苗が同時に膝をつく。
「今の……霞斬りか!」
「見えなかったのか。それでは余を止めるなど夢のまた夢」
「ほざけ!」
同じように霞斬りで奇襲をかけるが、一瞬だけ展開した≪風之貢鎖人≫に失速させられる。巫力を用いる攻撃を主体とする風雅の忍者に対して、あまりに絶対的すぎる防御だ。カウンターで蹴り飛ばされ、雅夫は血の味がする唾を吐き捨てる。
「一撃も比べものにならないほど重い。これが全力のフウガマスターか!」
「そら。これが風雅最強の破壊力だ! 地之型──」
陽一の刀に火や土、雷といった攻撃的な巫力が集まっていく。この行為から繰り出される技は一つ。風雅流地之型奥義。
「くっ! 地之型──」
「──奥義、獣咆烈破っ!!」
両者の叫びと刀が交差する。しかし光の尾を引く刀身が拮抗したのは一瞬だけ。力負けして斬られたのは雅夫の方だった。
雅夫と同時に地面まで深く切り裂いた陽一は、べっとりと血のついた刀を振り、崩れ落ちる雅夫を冷ややかな目で見下ろす。
「こんなものか。最強の影が聞いて呆れるな」
「だま、れ。その力、貴様のものではないだろう!」
「『今は』、余の力だ」
いちいち腹の立つ言い回しをする。≪透牙≫で滑るように後方に離脱すると、スケートでもするように回転しながら立ち上がる。
悔しいが、確かに手も足も出ない。このままでは信長の意思を倒すどころか、返り討ちで全滅しかねない。
斬られた胸を押さえ癒していた手を柄に移し、刀を八相に構える。
「ほう。同じ技では勝てぬと踏み、賭けに出たか」
「ああ。貴様と違い、兄者には……陽一さんには小手先の技は通用しないからな」
雅夫の持てる最強の技をぶつけ、瀕死にしてでも≪風之貢鎖人≫を使わせる。小出しにされては制御どころの話ではない。
「ならば、こちらも相応の技で応じなければな」
そう言って、陽一が手にしたのはもう一振りの刀。予想はしていたが、やはり天地之型同士がぶつかることになった。陽一は雅夫の無限斬を知らないし、雅夫も陽一の無限斬を知らない。誰よりも互いの技を知り尽くした関係だからこそ、これ以上この場に相応しい技はない。
「いくぞ。天地之型──」
陽一が先に動いた。それはつまり、出足の早い技でない証。ならば、それより速く斬り抜ける。
「──無限斬っ!!」
その瞬間、雅夫たちの姿は只人の目には砂煙を立てて、かき消えたように映ったはずだ。しかし雅夫たちのような速度に重点を置いた戦闘をする者にとってはここからの攻防こそがもっとも長く感じる瞬間。
先に仕掛けた陽一よりも雅夫の踏み込みが速い。元々得意な分身を利用することでマシンガンのように連続的な斬撃を生み出す雅夫の無限斬は、たとえ陽一といえど避けられるものではない。
だが、雅夫と陽一の間に突然現れた壁が、雅夫の意思と技を阻むように迫ってくる。そこでようやく思い違いをしていたことに気がついた。
陽一の無限斬は決して遅いわけではない。だが、そう思わせることで相手を誘い込み、カウンター技として使うことを念頭に置いた技なのだ。
この壁に見えた輝きこそが陽一の切っ先が描く無数の軌跡。天之型≪輝針【きしん】≫のような攻撃の軌跡を威力としてぶつける技。この迫る壁から逃れるには、後ろしかない。
「こ、これはっ!!」
背後にも、右にも左にも、頭上にも迫る無限斬撃の壁に、雅夫の脳裏に敗北の光景が過ぎっていく。
逃げ場なし。突破口なしの全方位同時攻撃。これでは陽一の間合いに入った時点で、敗北が決まっていたようなものだ。
瞬時にいくつもの打開策を考えるが、どれも返り討ちの回答以外に導けない。
このままでは、確実に死ぬ!
「おとーさぁぁん!!」
不意に響いた声が、無限の檻に僅かな歪みを作り出す。
迷っている時間はない。雅夫はその歪みに無限斬を放ち、強引に切り崩すことで壁を越え、陽一の背後へ切り抜けていく。
速度を殺すこともできず、自分の速さで投げ出された雅夫は、数回転げ回った後、ようやくその動きを止めた。
確かに死にはしなかったが、さすがにこれは致命的だ。全身を深く切り刻まれ、意識が飛びそうなくらいに血が失われていく。足も腕も、まるで力が入らない。
かろうじて動いた首を動かし、歩み寄る小さい影を見上げる。
やはりそうか。芸術とすら感じた陽一の無限斬を歪ませた犯人は、陽一の宝。息子の陽平だった。
「なぜ……来たんだ!」
お礼よりも何よりも、まずそんな言葉がついて出た。
父親が人殺しをするところなど、まだ陽平には早過ぎる。それ以上に相手が悪い。信長の意思は、決して陽平を見逃さない。
「早く、逃げろ!」
「おじさん……おとーさん……」
「逃げるんだっ! 早くっ!」
咽が裂けるほどに声を張り上げるが、陽平の耳には届いていないのか、どこか虚ろな瞳は父親の姿を凝視したまま硬直している。
無理もない。変わり果てた父の姿は、さぞかし別人に見えたことだろう。
「おとーさん」
いや。何か様子がおかしい。これは放心しているというよりも、むしろ意識がない。それに目が……
「目が、赤い……」
これは充血しているなどといった"赤み"ではなく、眼球そのものが真っ赤に染まっている。だが、ただ瞳の色が違うというだけで、ここまで人外の雰囲気を醸し出せるものなのだろうか。
「陽平! 聞こえないのか、陽平!」
「……今、死なせるわけにはいかないんです」
それは本当に陽平の口から発せられた言葉だったのか。だが、それを確かめるよりも陽平の見せた動きは、場の一同を黙らせるには十分すぎた。
右手に獣王式フウガクナイ。左手に刃引きをしてやったクナイを握った陽平は、突然フウガマスター顔負けの踏み込みを見せると、巫力を爆発させると同時に両手の刃を走らせる。
ありえない。あれの軌跡は雅夫にだって見えなかった。よしんば見えたとしても、まだ修行を始めたばかりの陽平に、あの無限の太刀が使えるはずもない。
陽平の放った剣は陽一を取り囲むように広がると、逃げ場を埋め尽くす全包囲攻撃となって襲い掛かる。こうして外野として見るとよくわかる。あれから逃れるには、完全に包囲網が閉じてしまう前に、射程外に逃げる以外にない。まさにマスターの無限斬として相応しい奥義だ。
そうだ、間違いない。あれは今しがた雅夫が陽一に食らった技、風雅流天地之型奥義≪無限斬≫だ。
「なん……だ、と!」
自らの技にのけ反り、血飛沫を上げて膝を折る陽一に続いて、未熟な体に奥義を放った反動か、陽平もまた、全身から不気味な音を立ててその場に崩れ落ちる。
「陽平! 兄者ぁ!」
「この子は任せて。貴方は兄にとどめを」
「香苗……さん」
陽平を抱き上げ、再び雅夫たちから距離を置く香苗に、雅夫は残り少ない巫力で一気に回復を計る。
何が起きたとか、何でそうなったかなんて今はどうだっていい。あの陽平までもが体を張って作った好機。これを逃すわけにはいかない。
「兄者ぁ! 覚悟ぉ!!」
予測した通り、雅夫が仕掛けるのに合わせて≪風之貢鎖人≫が解放される。一気に回復して迎撃するつもりだろうが、それこそが雅夫と陽一の狙い。
「香苗さん、今だ!」
「……さよなら。ばか兄」
≪風之貢鎖人≫が香苗の指先に触れた瞬間、今まで陽一を中心に巻き込むように流れていた風が、ついには逆流を始め、残らず雅夫の中へと流れ込んでいく。
なるほど。これが≪風之貢鎖人≫か。確かにこれがあれば、術者は無敵かもしれない。一瞬で癒える体に力が戻る。いや、爆発的に膨れ上がる。
巫力の塊が陽一から飛び出した。雅夫はそれ目掛けて疾走すると、ありったけの巫力を刀と分身に配分する。この機を逃せばもう勝ち目はない。例え自分が朽ち果てることになろうとこの一撃だけは外すわけにはいかない。
「でも、そう上手くいくはずもない。風雅は今日ここで滅びるんだ」
声がしたのは香苗の背後。やはり≪風之貢鎖人≫の制御の最中を狙ってきたか。
女と見間違うような容姿の青年。鈴飾りをちりん、と鳴らして刃を突き出す刺客、森蘭丸に香苗がカッと目を見開いた。
突き出された左腕を、左脇で挟み込んで受け止める。実際のところ、驚かされたのは蘭丸の方だった。
「なぜ……!」
「あの子。朝陽は優しい子だから。貴方に気づいても、兄の≪風之貢鎖人≫の制御を止められなかった」
香苗の目に、初めて感情らしい感情が浮かび、蘭丸の腕があらぬ方向にへし折れる。
「ぅあ、ああああっ!」
「私は違う。結構、武闘派だから。術の制御に集中して、貴方に殴られ続けるようなことはない」
折れた腕を担ぎ、合気投げの要領で投げ飛ばすと、掴んだままの腕を引いて、蘭丸を足元に叩き付ける。
「朝陽が我慢した分は、私が貴方を苦しめる。生きて……ここから帰さない」
蘭丸の胸を踏み付ける鞋が、ありえない重量で胸板を押さえ付ける。成人女性の体重でのしかかる重量とは比べものにならない圧力が、蘭丸の肋骨を踏み砕いていく。
「貴方も、信長も、風雅を甘く見すぎてる」
「そうだ。たとえ最愛の人をこの手にかけることになろうとも、我等は風雅の使命を果してみせる! 兄者と朝陽さんと、香苗さんとこの俺の意志を、甘く見るな亡霊風情がっ!」
雅夫の切っ先から無数の光が走り、巫力の塊ごと陽一を切り裂いていく。分身による多面同時攻撃。それを究極の形へ昇華させたものこそが、雅夫の天地之型。
「奥義之極っ! 無・限・斬っ!!」
十人もの分身が切り抜けていくのを、雅夫は渾身の力を溜めながら他人事のように眺めていた。最愛の兄にして、最大のライバル、最高の友人。いくつもの"最も"がつくような人が、自分の手によって無惨な肉片に姿を変えていく。
さぁ、俺の番だ。俺の一刀こそが信長を、風雅陽一を終わらせる。
地を蹴って風になる。風を超えて光になる。雅夫の手にした刀が巫力の塊と信長の意思を両断し、陽一の首を捉えた瞬間、不意に陽一が笑ったような気がした。
なにか声をかけようと互いに口を開きかけた二人の時間は、そのまま凍りつくように固まった。
切り抜け、霧散する陽一の巫力を背に、血が出るほどに唇を噛んだ雅夫と、ドサリと音を立てて地面に落ちた陽一の頭だけが、この場の時を支配していた。言葉を発することもなく、息をするのも忘れて、瞼の隙間からこぼれ出す涙を必死に堪えた。
もう、雅夫が「兄者」と呼んで、応えてくれる者はいない。シャドウマスターが、風雅雅夫が殺したんだ。
<NEXT>
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