どこともしれぬ山中に、その山小屋はあった。
 人里離れた山奥であるにも関わらず、職人技ともいえる見事な作りのログハウスは、一見マッチングしているようで、どこか浮いているようにも見える。
 ここが風魔の少年忍者、柊が師匠と仰ぐ拳士の所有する山小屋であると知る者は少ない。
 そもそも、一般人がこんな山奥くんだりまで入り込んで来る方が稀なのだ。
 わざわざ修行に打ち込みたいからと、そんな場所を選んだというのに、それが今年になってからというもの、妙に来客が多いことに、所有者は嘆いていた。
 もっとも、悩める弟子がすべての元凶であり、何ヶ月か前に突然現れて騒動を起こし、それをきっかけにふっ切れたはずの弟子が、再びナイーブになって現れたことが今回の訪問者に関係していることは、容易に想像できる。
 それにしても、光陰矢の如し。
 若い頃から強さを求めて修行を続けていたというのに、ある日を境に成長はピタリと止まり、気づけばそんな自分を追い越す勢いで成長する、当時の自分とさほど変わらない歳の弟子たちが現れた。
 それほどに自分は歳をとったのかと思うと、なんだか無性に哀しくなってくる。
 まったく、部屋の隅で膝を抱える弟子を盗み見ていると、余計なことまで考えてしまう。
 インスタントコーヒーを流し込んで気分を切り替えると、わざと音を立ててマグカップを置いて弟子に歩み寄った。
 情けない姿だ。膝を抱えるだけでも女々しいというのに、何も見たくない。聞きたくない。と目を閉じ、顔を隠すようにうずくまっている。
「柊。あんた、いったい何があったっていうんだ。らしくないじゃないか」
 周りはみんな敵。出会ったばかりの柊は、そんなナイフのような目をしていた。
 再会した柊は、まるで別人のように明るい少年になっていた。そして、いっぱしの戦士の目をしていた。
 それが今は、戦いどころか現実からも逃げている。
 何があったのかはわからないが、絶望に伏す者を捨て置くのは、何かと沽券に関わる。
「……負けたのか」
 柊の肩がビクッと跳ね上がる。
 なるほど。真の強敵に出会ったことで、恐怖に背を向けたというわけか。
「たぶんあんたの連れだろう。そろそろここに来る頃だよ。かなり強いみたいだけど、雲みたいに掴み所がない。こいつに負けたのか」
「……あんなのに、人間が勝てるわけないだろ」
 相手は以前の犬モドキのような人外というわけか。
 師匠が言うのも妙な話だが、柊も相当人間離れしているはず。それがここまでへこんでいるとなると、相手はそれほどに強大ということか。
「やれやれ。お前がいると、あたしの修行にならないんだがね」
「お構いなく」
「構うっつーの。まったく、デキだけはいい弟子と思っていたけど、とんだバカ弟子だね。とりあえずあたしは訪問者を迎え撃つから、あんたはそこから見てな」
 窓からは来客の姿が目視できた。
 柊のようにくせっ毛の、一見しただけなら普通の少年。
 もっとも普通じゃないことは動きでわかるし、面白いことにわざと隙を見せて、こちらを誘っている節がある。
 わざと隙を用意することで、自分への攻撃に対して警戒する範囲を少なくしているらしい。
 なるほど。これは腑抜けた弟子を相手にするより、ずっと楽しそうだ。
「さぁて。どれほどの手合いか、楽しみだな」
 そんな物騒なことを呟きながら小屋を出る師匠を見送り、柊は寝ぼけ眼で窓の外に目を向ける。
「……アニキ」
 見知った姿がそこにあったことに、柊は僅かに腰を浮かせた。







勇者忍伝クロスフウガ

巻之参壱:「声を届けて」







 ようやく和解を果たした瑪瑙と別れ、風雅陽平が次に向かったのは人里離れた山奥。
 そこに風魔柊がいると連絡を寄越したのは、何を隠そう彼の忍巨兵、牙王ロウガだった。
 同様に鳳王クウガからも、楓が風魔の家に戻っていると報告を受けているが、こちらには彼女の実姉、椿が出向いているらしいので、当面の心配はなさそうだ。
 そういえば。ロウガの話だと、ここには柊に格闘技を教えた師匠がいるらしい。
 あの柊に蹴り技を授けた人物というのは、柊のことを抜きにしても大いに興味がある。
 拳聖とでもいうのだろうか。山奥で一人、己を高めるために修練を続ける存在。イメージでは、屈強の巨漢というよりも、白髪の老人っぽい気がする。
 仙人のような存在は、やはり男にとって憧れる部分は大きい。厭が上にも期待は膨らんでいくというものだ。
 山に入ってそろそろ二時間が過ぎようとしている。
 瑪瑙との件があってから、直後に足を伸ばしただけに、いい加減日も傾いてきた。
 このまま野宿というのもロマンがあっていいのだが、陽平たちに残された時間はそれほど長いものではない。
 急ぎ、柊と合流して、まだ居場所も特定できていない仲間達を探しに行かなければならない。
 もっとも。居場所がわかっていないのが、幼馴染みの光海と、眉間にシワが寄ったムッツリ軍人だけに、心配はしている。
 どうにもあの二人は相性が悪いのか、出会うたびにロクでもないことになっている気がする。
 やっぱり急ぐにこしたことはない。
 自然と早足になり、気がつけば少し拓けた場所に辿り着くことができた。
「ここ、か」
 山小屋に、斧の刺さった切り株。なんだか拳聖というよりも樵でも住んでいそうな場所だ。
 それでも陽平が、ここで正解なのだろうと納得できたのは、隠すこともせずにまっすぐ陽平に向けられた闘志に、さっきから鳥肌が立ちっぱなしだからだ。
 そうこうしているうちに山小屋の戸が開き、鋭い目と短めの髪が特徴的な女性が姿を見せた。
 一瞬、お手伝いかとも考えたが、すぐにその可能性を否定して身構える。
 あからさまな闘気の発信源。それは間違いなく彼女自身だ。
 気づいたときには女性と陽平の間合いはゼロに等しく、咄嗟に≪雷牙≫で雷化することで一撃をやり過ごす。
 陽平の背後で木々が軒並み吹き飛んでいく音が聞こえるが、恐ろしくてとてもじゃないが振り向いてはいられない。
 目の前に突き付けられた拳を見て、陽平はようやく今の一撃が拳圧によるものだと気がついた。
「あたしの本気を避けず受け止めず、やり過ごしたのはあんたが三人目だね」
 自分のことはさておき。その残り二人というのも相当の化け物だと思う。
「今の、どうやった」
「企業秘密。忍者はそう簡単に種明かしはしませんから」
 この女性。今、一瞬だけ忍者という部分に反応した。
 やはり柊の関係者か。
「あんた。柊の家の人?」
 尋ねる手間が省けた。
 陽平は頭を振って否定して、女性に風雅の額当てを差し出す。
「仲間です」
「ほぅ。あの柊の仲間、ねぇ。ひょっとして、あんたが柊を変えたアニキだったりするわけ?」
 変えた。それに相応しい記憶はないが、アニキと呼ばれているのは確かに陽平だ。
「風雅陽平です。柊の力を借りるため、迎えに来ました」
「ん〜……。今ね、あいつ不貞腐れてるから、たぶん何言っても聞かないわよ」
「あなたが俺を討とうとしたのは、柊を守るためですか」
「いや。純然たる好奇心だよ。あんたにもわかるだろ? 強いやつは突いてみたくなるのさ」
 わかるような、わからないような。
 一つわかったのは、彼女がバトルマニアだということくらいだ。
「柊、どうしてますか」
「膝抱えてうずくまってるよ。何かに負けたのが、相当ショックだったみたいだね」
 負けた。それはおそらく風雅城の一件だろう。
 あの柊までもが背を向けるような相手。
 どうやら風雅の最終兵器というのは、予想以上の化け物のようだ。
「柊に、会えますか」
「鍵なんてついてないから、勝手にあがるといい。だけど、もう一度あいつに火を点けられるかは、あんた次第だ」
 柊の師匠に頭を下げ、山小屋の戸に手をかける。
 言われた通り鍵がかかっている様子もなく、すんなりと開いた戸を潜ると、木材の放つ独特の香りが鼻をついた。
 外と変わらず、中も特に変わったところはない。
 全て木で作ってあるのは好みなのだろうか。はたまた自作だったりするのか。椅子が二つしかないテーブルに、水道のない流し台。奥の戸はトイレか風呂だろう。窓は二つ。あとは……奇妙な塊が陣取るベッドがあるだけ。
 実にシンプルな内装だけに大した感想を抱くわけでもなく、陽平は無言のままベッドに近づいた。
「柊……」
「なに」
 返事があることに内心ホッとしつつ、陽平は柊が被ったままの布団に手を伸ば……さずに、ベッドの下を覗き込む。
「……何やってんだよ」
「隠れてんの」
「隠れるのはいいけど、わざわざ変わり身を置いてまですることかよ」
 なんだか頭痛がしてきた。
 そういえば、昔見たホラー映画でこんな絵があった気がする。
「ま、いいさ。それじゃ、いい加減帰ろうぜ」
「やだ。オイラは帰んないよ。ロウガがいるならそれだけ持って帰ればいいじゃんか」
 それ。と柊が指差した場所には、無造作に転がされた≪牙王之戦足袋【がおうのいくさたび】≫がある。
 どうやら想像以上に精神的ダメージを受けているらしい。正直、今までの柊からは、とても考えられない姿だ。
「これはお前のだよ。柊じゃねぇと使えないし、柊以外に使わせる気もない」
 ≪牙王之戦足袋≫をベッドの上に置き、小さく溜め息をつく。
「……アニキはさ。戦う理由のために、切り捨てたものってある?」
 咄嗟に浮かんだのは、≪風の継承≫と呼ばれるフウガマスター継承儀式。
 強くなるために師を、親を殺さねばならないと突き付けられた絶対の条件。
 陽平は柊の問いに「切り捨てたりしない」と答えてやるべきなのかもしれないけど、≪赤い鬼眼≫がなければ切り捨てていたかもしれない現実が、陽平に答えることを迷わせた。
「椿姉はさ。風雅のためにオイラたちを切り捨てたんだよね」
 正しくは琥珀という一個人のため。椿は柊や楓を、琥珀の望みを叶えるための駒にしていた。
「それでもいいやって、最初は思ったけどさ。あんなのを相手に尻尾巻いて逃げて、琥珀さんは怪我して。そしたら椿姉は、オイラたちを道端の石ころでも見るみたいに見てた。あのときみたいに……」
 あのとき。というのがいつを指しているかはわからないが、少なくとも柊にとっては心の傷になるような出来事があったのだろう。
「命懸けで戦って、駒くらいにしか見られないならオイラは戦わない。オイラが戦わなけりゃ椿姉のしたいことに繋がらないなら、戦ってやるもんか」
 それが柊なりの、椿への復讐ということか。
「柊、お前……」
「なにさ」
「結構セコいな」
 なんというか、例えるなら子供の喧嘩。されて嫌だったから仕返し。
 なんとも頭の痛い話だ。
「それでもいいよ。椿姉が困るなら」
 開き直りやがった。
 正直、戦うのが怖いとかなら、まだ言葉のかけようもあったのだが、これはさすがに開いた口が塞がらない。
 殴ってやろうとも考えたが、この柊が相手では殴るだけ無駄だ。
 やり場のない気持ちを押し殺し、頭痛に顔をしかめながら柊に背を向ける。
「あれ。帰るんだ。オイラてっきりアニキに殴られるもんだと思ってた」
 戸に向かう足を止め、亀のようにベッドから頭を出す柊を振り返る。
「……アニキ?」
「殴ってほしいなら、まず椿さんに対する考え方を変えるんだな。今のお前じゃ、殴る気にもならねぇよ」
 失望した。陽平はそんな気持ちをありったけ込めた視線で柊を見下ろすと、戸を潜り二度と振り返らなかった。
 どうやら柊の姉嫌いは、陽平の想像を遥かに上回っていたらしい。
 あれをどうにかするには、まず嫌いになった理由を知らなければならない。
「楓なら、さすがに知ってるよな」
 風魔の家がある方の空を見上げ、呟くと、陽平は召喚した竜王で大空に舞い上がった。






 奈良。竹林に囲まれた大きな屋敷は、風魔の現当主が住まう場所。
 もっとも家主が帰ることは珍しく、彼の長男と次女が家を出てからは、長女と数人の使用人が暮らすのみとなっていた。
 長女、椿が妹を連れ帰って、もう二日。
 その間、庭先で放心したままの楓を気にかけるだけの余裕は、さすがの椿にも残っていなかった。
 勇者忍者を欠いたとはいえ、風雅忍軍総戦力をもって当たった風雅城争奪戦。
 楓の指揮の下、釧と超獣王グレートカオスフウガすら動員したにもかかわらず、作戦は最悪の形で終結した。
 肝心の風雅城を奪われ、忍巨兵技師の葵日向が戻らず、あまつさえ琥珀に瀕死の重傷を負わせた。
 予期せぬ事態であったとはいえ、楓の責任は重い。
 風魔の屋敷に戻ると同時に、忍器、≪鳳王之黒羽【ほうおうのくろはね】≫を椿に差し出したのは楓なりの贖罪のつもりだろうが、琥珀を傷つけた罪がその程度で許されるはずもない。
 いや。それ以上に現状を打開する妙案を、急遽立てる必要がある。
 いざとなれば勇者忍者に無理矢理マスターを継がせて、さらなるレベルアップを以って風雅城を奪還させる必要があるかもしれない。
「…………私は、本当にひとでなしですね」
 その一言で熱くなっていた頭を冷やし、椿は深呼吸で思考を緩やかに戻していく。
 今更、自分の感情一つで事態が変わるわけでもない。楓にしても、今戦線から離れさせたところで状況は悪くなる以外に転がる方向はない。
 しかし、もはや頭で考えられる程度の策を、幾重にも張り巡らせたところで、圧倒的な力の前に屈するが必然。
「やはり、ガーナ・オーダが欲している力を、彼らより先に手に入れるしかない」
 ≪生命の奥義書≫。リードの秘宝にして秘法。
 その手がかりを持つのは間違いなく、リードの姫、翡翠だ。
 ならば今すぐにでも翡翠を調べ、新たな手がかりを入手する必要がある。
「しかし。いったい彼女は今どこに……」
 たしか最後に翡翠を見たのは、フウガマスター、風雅雅夫が連れて行ったとき。あれからもう数日が経っている。
「あの方からも連絡がない以上、現状は手詰まりですね」
 困り果てた椿が溜め息をついた瞬間、突然局地的に発生した突風に、椿はまさか、と空を見上げた。
 瞬きの間に見えた、今の蒼い機影は間違いない。
「蒼天……。陽平くん?」
 椿の疑問に答えるように姿を見せた、緑がかった黒髪を持つ少年に、椿は我が目を疑うように訝る視線で迎えた。






 竜王から飛び降りて、陽平は自然と周りの景色をぐるりと観察した。
 そこはかつて訪れた風魔の屋敷の庭とは違う場所。どうやら思った以上に風魔の屋敷は大きいようだ。ここはちょうど、以前訪れた場所の反対側に位置するらしい。
 わざわざ出迎えてくれたのだろうか。陽平と向き合うように立ち尽くす椿を前に、陽平はとりあえずお礼を述べることにした。
「っと、出迎えてくれて、ありがとうございます」
 しかしその挨拶に応答はなく、代わりに椿が口にしたのは、こっちが想像もしていなかった言葉。
「あなたは、本当に陽平くんですか」
「……俺は間違いなく椿さんの知り合いの風雅陽平ですが、この場合何を以ってそれを証明すればいいんですか」
 椿が驚いた顔を見せるのも一時限り。すぐに杞憂とわかってもらえたのか、いつもの彼女の表情が戻っていた。
「……失礼しました。陽平くんのまとっていた雰囲気が、あまりに別人のようでしたので。少し警戒してしまいました。許してください」
「いえ。椿さんにもそう言ってもらえて、なんだか実感が持てました」
「実感、ですか」
「ええ、まぁ。親父や母さん、風雅に連なる人達から受け取ったものの大きさを実感しました」
 それだけで、この数日の間に何があったのか、椿はおおよそを理解してくれたようだった。
「陽平くん……。いえ、マスターに『陽平くん』は失礼でしたね」
「いやっ。そんなことないですから。今まで通りでいてください。なんか恐縮しちまう……」
 照れ隠しに頭を掻く陽平を見て小さく吹き出した椿に、陽平は続く言葉が浮かばなかった。
「それで。陽平くんがここに来たのは、柊と楓ですか?」
「いや。柊には先に会いました。楓は……ここにいるんですよね。会えますか」
 しかし椿の反応は、半ば予想通り。表情は陰り、悔しさと申し訳なさが同居しているような困り顔を見せた。
 たぶんこの人も、琥珀のように自分の闇を心に飼っている。他人に見せられない一面。風雅を背負う人達が、みんな持っていた影の顔。
「楓は、先の作戦失敗の責任を取り、忍巨兵を降りました」
 目を伏せ、静かに告げられた言葉に、陽平の心臓が大きく跳ね上がる。
 柊に続き楓までもが心を折った。そのことに陽平は、痛いと感じるほどにショックを受けていた。
「その様子では、柊も……ですか」
「ええ。あなたのためになるなら戦わない、と」
「嫌われたものです。とはいっても、すべて私のせいですがね」
 それだ。おそらく柊だけでなく、楓にとっても大きなトラウマとなった事件。
 それは、たぶん生半可な覚悟では知ることができない。親父がそうだったように、口を閉ざした過去を語るということは、命懸けの行為にほかならないから。
 聞くべきかを悩んでいる。そんな陽平の心中を察してか、椿は少し困ったように視線を反らした。
「口にしなくてもわかりますよ。『知りたい。だけど聞いてしまっていいものか』そう顔に書いてあります」
 顔に出やすいのはいい加減自覚していたけど、こういうときは本当に気まずい。
「いいんですよ。聞いてくださっても。陽平くんが、私たちを追い詰めるために聞き出そうとしているわけではないことくらい、わかっていますから」
 それはつまり、知る以上は風魔の家族を救え。そういうことなのだろう。
 でも、そうしなければ誰も前に進めないのなら、俺は……。
 自然と握り締めていた拳を、陽平は意識的に強く握り固めた。
「……じゃあ、聞かせてください。椿さんと、あの二人の間にある溝。それを作ってしまった理由ってやつを」
「一つだけ、約束を。おそらく柊も楓も、いつか近い未来、私を殺そうとするでしょう。私は、二人の刃を受け止める義務があります。ですから、どうか止めないでください」
 椿の言葉に、陽平は爆発しそうな怒りを無理矢理抑えていた。
 何で大人ってもんは、こうやって何でもかんでも子供に押し付けて、楽になろうとするんだろう。
 いや。今さら「何で」はないな。みんな譲れないものをたくさん抱えて生きてきて、そしてすべてを譲らずに生きてはいけないことを知ってしまったから。
 陽平が何も手放さずにいられたのは、本当に偶然。奇跡なんて言葉でまとめてしまうには、あまりに数奇な巡り合わせ。
 鬼眼がなければ陽平だって、≪風之貢鎖人【かぜのくさり】≫と引き換えに雅夫を死なせていたかもしれないんだ。
 そう考えると、陽平が椿たちの決意に口を挟む資格があるのだろうか。
「陽平くんの、その沈黙が答えだと受け取ります」
 身をよじり、その豊満な胸を強調するように腕を組む椿から目を泳がせながら、陽平は気まずさを紛らわせるために頬を掻いた。
「話は、ずっと昔に遡ります。そうですね。まだ、私たちの母親が生きていた頃のことです。まだ柊も楓も生まれていなくて、私は風魔の秘蔵っ子として周りにとても大切に育てられていました」
 柊と楓。そして椿の母親。それはいったいどんな人だったのだろう。
 既に他界しているというのは残念でならないが、興味は尽きない。
「当時、私は父や風魔に属する忍者たちにしごかれては、母に泣きついていました。今思えば、私は母に甘えたいがためだけに、修行をしていたのだと思います」
「お母さんのこと、好きだったんですね」
「ええ。でも、柊や楓が生まれた年。母は刺客の手にかかり、命を落としました」
 歴史の影に潜み、表立っては行動を起こさなかった風魔を襲った刺客。それはひょっとして、ガーナ・オーダだったのではないだろうか。
 陽平の表情から考えを読み取ったのだろう。椿は、静かに、だがはっきりと頷いた。
「私が母を殺したのです。私が母に縋り付き、恐怖に震えていたばかりに、母は逃げることもできませんでした」
「……これは俺の、勝手な想像なんですが。お母さんはきっと、椿さんがいなくても、ガーナ・オーダの前に立ちはだかったんだと思います。風魔の忍者に嫁ぐことを、理解していなかったとは思えないんです」
 陽一とーさんのために、命を懸けて立ちはだかった朝陽かーさん。それはきっと、風魔であっても変わらない心の在り方だ。
「強いですね、陽平くんは。でも、当時の私はそう考えることができませんでした」
 いや。もし陽平が当時の椿の年齢で、同じ事件を体験していたら、きっとそうは言えなかった。
 陽平が強いというのなら、それはたぶん、今の陽平を作り上げてくれた、みんなのおかげだ。
「その後私は、復讐のためだけに研鑽を積みました。強くなるためなら、どんな相手だって命を奪いました。気付いたとき、もう私の心は人の死で揺らぐことはなくなっていました」
 椿の強さは、雅夫たちのような覚悟を秘めた、日常と決別した強さだ。でも、陽平はそれを認めたくない。認めるわけにはいかない。
「陽平くん。また顔に出ていますよ」
「わざと、ですよ」
「ふふ。あなたも、私を叱ってくれるのですね。琥珀のように」
「琥珀さんみたく、優しくなれる自信はありませんけどね。そもそも琥珀さんのは、計算し尽くされた天然ですから」
 そんな冗談じみた陽平の言葉に、昔話に陰っていた椿の表情は、僅かに和らいでいた。
「琥珀は、敵を討つためだけに得た私の強さに、とても悲しんでくれた。私は甘えてもいいのだと、自分は強いから。守られなくても大丈夫だからと。……私は、母のような温もりを持った琥珀に、甘えるようになってしまいました」
 椿は、琥珀に亡くなったお母さんを重ねていたのだろうか。だからあれだけ強く、琥珀を想うことができるのではないだろうか。守りたいと、助けてあげたいと。
 その姿はまるで、母親を死なせてしまったことへの贖罪のようで、なぜだかひどく悲しかった。
「私は、寄り掛かることへの甘さが、自分よりも周りの他者を殺してしまうことに繋がると、今でもそう思っています。だからこそ、双子という最も寄り掛かりやすい対象を引き離し、甘えを切り捨てるよう、互いが兄妹であると気づく前に兄妹間で殺し合いをさせました」
「それって……柊と、楓のことなんですか」
「ええ。死力を尽くした二人が、姉である私を頼ろうとするのはわかっていました。だからこそ、私は二人をただの駒として見下ろした。結果、二人は強くなりました。私がいなくとも、一人で立ち上がる強さを身につけました」
 正直、陽平は愕然としていた。椿の話はあまりに突拍子もなくて、まるで雅夫に真実を打ち明けられたときのような衝撃が、頭のてっぺんまで突き抜けていく。
 甘えさせないために互いを絶望に叩き落として、いざ甘えるという瞬間に突き放す。
 理解できないと思う反面、椿がどれだけ自身と双子を重ねていたのかが、痛いほどに伝わってくる。
 だけど。それは心を支える強さがないということだ。本当の壁にぶつかり、心が折れたとき、果たして人は孤独で立ち上がれるのだろうか。
「……できるわけがない」
「陽平くん」
「たくさんの想いを受け取り、たくさんの想いに支えられた俺だからこそわかるんだ。椿さんの言う強さは、大切な何かを失ったときの言い訳に過ぎないっ!」
 いつも身近にいて、見守ってくれる人達がいて。たとえ遠く離れていても、背中を押してくれる人達がいて。そんな陽平だから限りなくゼロに近い可能性を、引き寄せることができたんだ。
 支えてくれた人達の想いが、≪シャドウフウガマスター≫という風雅陽平を、今もこの世界に立たせてくれているんだ。
「甘えられる人って、言い換えれば守りたい大切な存在ですよね。大切な存在が、俺達に何度だって立ち上がる力をくれるんだ。切り捨てていいものであるはずがない」
 ほとんどまくし立てるように言い切ると、椿は困ったような、それでいてどこか嬉しそうに笑っていた。
 これはひょっとすると、椿はとっくに気付いていたってことだろうか。その上で、陽平を試したのか?
 少し冷静になれば、椿は琥珀に叱られたと言っていた。あの琥珀が、陽平の気付いた点を指摘しないはずがない。
「椿さんは、俺に何をさせたいんですか」
「もう、気付いているんじゃないですか? 陽平くんはちゃんと、私の期待通りの回答をくれていますよ」
 それはつまり、甘えることを全否定されて育った二人では、今、目の前にそびえ立つ壁を、越えることはできないだろうということ。かといって、今さら「甘えてもいい」と言ったところで、二人は困惑するだけだ。
 一番いいのは、二人が椿に本音を吐露することだけど、それが一番難しいわけで。
 だいたい察しがついたことに、椿も満足したようだ。
「……非常に危険ですけど、椿さんの願望を叶える手はあります。ただし、椿さんには命を懸けてもらいます」
 それを聞いた椿の表情は、今まで見た中でも極めて悪女っぽい顔をしていた。













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