兄弟喧嘩にゴングなどいらない。必要なのは、内に秘めた本音を解き放ってやるだけだ。
今の今まで、ずっと自分を偽り続けた双子が、ようやく実姉に想いをぶつけるときが来た。
後腰の刀に手をかけたままの椿とは対照的に、徒手空拳のみで飛び出した双子が先手を取った。
楓の手刀が刀に伸ばされた椿の手を押さえ込み、柊の蹴りが椿の頭上から振り下ろされる。
巫力リミッターを外された柊の一撃は、既に人のそれを遥かに上回る。まともに受け止めれば粉砕され、生半可な迎撃では玉砕される。
それらは先の、陽平との戦いを見れば一目瞭然。だからこそ椿は、無闇に受け流そうとはせず、足を使って安全圏まで離脱する。
柊の蹴りが大地を穿つ様に、さすがの椿も内心ひやりとさせられるが、やはり先人曰く、当たらなければどうということはない。
後退した椿に楓の手裏剣が舞い、椿はそれを残らず刀で叩き落とす。
二対一になった時点でわかっていたことだが、手数が足りない分、椿は休む間もなく防御を続けねばならない。
再び柊の蹴りが土煙を舞い上げた瞬間、楓の動きが視覚では捉えきれないほどに加速した。
速い。冷や汗に凍えてしまいそうなほど、尋常じゃない速さだ。
この速さから繰り出される正確無比の攻撃を、すべて凌いでいたのだと思うと、陽平はどれほどの高みに到達したというのだろうか。
しかし、避けるばかりが方法ではない。
椿は以前、仕事の際に、ある二丁拳銃使いと出会ったことがある。その相手は風雅雅夫級の実力者で、椿は拳銃という現代兵器を巧に操る相手に苦戦を強いられた。
だが、椿は生き残った。相手を傷つけることさえままならない状況でありながら、椿は無事に生還を果たすことができた。
その理由こそが、椿を今の今まで生きながらえさせた技にほかならない。
「柊」
突然名を呼ばれたことで、柊の意識が一瞬だけ椿の唇に向けられた。その瞬間、椿の全身から放たれた手裏剣に、柊は蹴りの体勢のまま吹っ飛ばされていく。
無様に転がる柊は、全身を射止めた刃物を、次から次に引き抜いては放り投げる。その度に血が噴き出し、毛皮の影衣を赤く濡らしていく。
「なっ、なんだよ今のっ!」
「姉さんが投げた気配はなかった。だいいち、私の攻撃を捌きながら、あれだけの数の投擲を行うのは無理です。腕の数が人より多いというのでしたら話は別ですが……」
見たところ椿の腕が増えている様子はない。ましてや分身のために大量の巫力を消費した気配もなかった。では、今の攻撃はいったい何なのか。
二人が椿の技を警戒したことで、ようやく椿にも一息つく機会が訪れた。
ここまで腕を上げた二人を相手に休む間もなく攻め続けられるというのは、さすがの椿も息が上がる。だが、おそらくこれで流れは変わるはず。
正体不明の技というものは、技の及ぼす戦術的効果以外にも、攻め手を萎縮させる戦略的効果を見せることがある。
その効果は、互いの実力が拮抗すればするほど大きくなる。
攻めあぐねているのだろう。明らかに失速した二人の勢いに、椿は容赦なく次の手を用意する。
「楓」
呟くようにその名を呼び、胸の前で拳を合わせると、並び立つ二人を払い退けるように、腕を左右に開く。
椿の腕が通った場所には、規則正しく列を成した無数の刃物が現れる。それはまるで、外敵を拒む槍兵のよう。
その様子を唖然と見守る二人に、椿は刃の列を一斉に発射した。
扇状に飛び出した刃を、柊と楓は最小限の数を叩き落として回避する。これだけ広範囲に攻撃しているのだから、何もその全てを打ち落とす必要はない。しかし、椿が新たに手裏剣を投げ入れることで、全ての刃物がその向きを変える。
避ける必要のなかったはずの刃が、餌を見つけ擬態を解いた昆虫のように双子に襲い掛かる。
前後左右を問わず、全身に突き刺さる刃に苦悶の表情を浮かべる双子に、椿は駄目押しとばかりに≪風遁≫の生み出す鞭のような突風で、二人を跳ね飛ばした。
おそらく、今の技を一見で理解できたのは、先ほどから傍観を決め込んでいる陽平くらいのもの。もう一人は……理解できているのか、いないのか。陽平にお茶を差し出していた。
急所は外れているとはいえ、あれだけの数の刃に全身を滅多刺しにされれば、すぐに立ち上がるのは困難だろう。
無言で歩み寄り、椿は頬にかかる髪を背中に払い退けると、スッと目を細めて弟たちを見下ろす。
不思議なものだ。血の繋がった弟たちが苦しんでいるにも関わらず、心は期待に満ちているかのように高揚しているのがわかる。
そんな気持ちが、椿を知らぬ間に笑わせていた。
「そんなに、滑稽かな。オイラたちが、無様に這いつくばる姿ってのは」
滑稽か。違う。椿の中で燻る感覚はそんなものじゃない。もっと別の、高ぶるような感覚だ。
「姉さんにとっては、私は出来の悪い妹なのかもしれない。でも、私にとっての姉さんは、そんなものじゃなかった。今も、昔も。ずっと!」
出来が悪い。楓はそう言うが、果たしてそうだろうか。スポンジが水を吸収するかのように、伝えたことを自身の力に変えていく双子の忍者。そんな二人は、傍から見ても十分に優秀な忍者だ。
だけど、椿の口から出た言葉は、そんな二人を認めるようなものではなかった。
「立ちなさい。自らに、まだ成すべきことがあるのだと言うなら、立ちはだかる者をどうすればいいのか、私は教えてきたはずです」
ダメージに震える膝を打ち据え、柊と楓が立ち上がる。その目は、まだ死んではいない。
「陽平くんからも、少しは学ぶことがあったようですね」
外野で当人が不満を呟いたようだが、今の椿に余計な雑音は届かない。必要なのは、自らの生死に関わる情報だけ。
「椿姉。オイラはずっと、我慢してたことがある」
柊の肩に紫電が走る。それはあっという間に全身に伝わると、柊を中心に雷光が広がり、雷自体が攻撃的な意思を持っているかのように周囲を引き裂いていく。
これだけ大規模に影響を及ぼす≪雷遁≫を、≪風牙≫によって帯電させているのは流石といったところ。椿が同じことをやったとして、どれほど身体が保つだろうか。
「椿姉が知らないオイラは、確かに在る。今からオイラはそれを全力でぶつけて、椿姉を倒す」
帯電しているせいか、逆立つ髪すら刃のようで。これらが全て、柊の決意の現れなのだと直感的に感じた椿は、静かに息を飲んだ。
構える柊が、大きく息を吸い込み……吐き出したと同時に、柊の身体は雷鳴のような轟音を立てて飛び出していた。
柊の振り回した蹴りが、雷をまとう大剣のように大地を引き裂く。空を切れば椿の背後でさらなる破壊音を撒き散らす。それはさながら、柊自身が巨大な台風であるかのよう。
全身を雷の巫力で強化することで、柊はいつもの何倍も攻撃的になる。だがこれは、巫力量にモノをいわせた強引な方法。身体にかかる負担すら、いつもの比ではないはず。理論ではなく、思いつきで戦う者とは、これほどに恐ろしく無謀なものなのか。
雷光と表現できそうな柊の攻めに、椿もそういつまでもかわし続けてはいられないことを悟る。
ならば、次が勝負。
後退して距離を置き、柊の攻撃に備える。無茶苦茶な軌道を描く動きと、強い光を放つ雷光のせいで、柊の動きを見切るのは実質不可能と言ってもいい。だが、異物が肌に触れる感覚というものは、どれだけ早かろうが変わることはない。
「柊」
蹴りの勢いに合わせて体を捌き、腕で受け流すと同時に振り抜く。
手応えは、あった。
何が起こったのかわからない。そんな驚愕に大きく見開いた柊の目の前を、膝から下にかけて切断された足が、ゆっくりと通り過ぎていく。
体勢を崩して転がっていく柊を流し目で見送ると、椿は柊と同じような顔で固まっている楓を振り返った。
「さぁ。これで残るは、楓。あなただけよ」
「体捌きで隠された、恐ろしく鋭い刃による全身防御。それが《柊》という技の正体なのですね」
まさか、たった二度見ただけで見破られるとは思わなかった。
つまり先ほど見せた柊の無謀な特攻は、椿の技を見破るための囮。
だが、たとえそれがわかったところで、もう柊に戦闘力はない。万が一戦えたとしても、利き足がなければ戦力としては不十分だ。
「全身を刃で守る姿から……《柊》なんて名付けたんだね。てっきりオイラが呼ばれてるんだとばかり思ってたよ」
「……柊。今、私は確かに足を切り落としたはずです。なぜ、立てるのですか」
確かに手応えはあった。にも関わらず、柊の利き足は大量に出血しているとはいえ、今もしっかりと繋がっている。
変わり身か。しかし、そう考えるには手応えが生々し過ぎた。考えられるのは、切り落とされた足をなんらかの方法で繋げたということくらいだが。治癒の得意な琥珀が癒したとしても、切断された身体を瞬間的に繋げるのは難しい。では、いったい何が……。
まさかと傍観者たちを振り返るが、とくに何かをした様子もない。呑気に茶を啜る姿は、場の空気が読めていないのか。それとも、彼の親同様に能ある鷹を演じているのだろうか。
この時点で、陽平が瞬時に≪風之世炉衣【かぜのよろい】≫による再生を行ったことに気づいた者は、おそらくいない。それは椿も例外ではない。
「もう一つの技……」
楓の声に、椿は再び意識を双子に向ける。
「《楓》と言いましたね。私も、てっきり自分が呼ばれていたのだと思っていましたが、その正体は扇状の手裏剣による同時攻撃。これは風魔の奥義である無動作投刃を応用したものですね。複雑に変化する投刃の波からは決して逃れられない。扇状に広がる刃によって一面が血に染まる様は、さながら楓の葉のよう」
「慧眼、見事です。しかし技の正体を見破ったからといって、必ずしも打破できるとは限らない」
「できるさ。オイラたちは、椿姉に言いたいことがあるんだ」
「姉さんに、聞いてほしいことがあります」
二人の気持ちが真正面からぶつかってくる。ただそれだけのことに、椿は胸が熱くなるのを感じていた。
「意地でも、聞いてもらうかンね」
「ここからが、本当の戦い。私たちと姉さんの姉弟喧嘩は、これが最初で最後ですっ!」
まったくもって妙な話だ。今までも幾度となく意見を違わせてきたというのに、楓は今、これが最初と言った。それの意味するところはわからない。わからないが、弟と妹が命を懸けて伝えたいと吠える以上、これを受けないわけにはいかない。
ちらりと陽平を盗み見れば、全ては彼の掌の中であるかのような、不敵の笑みが返ってきた。
そうですか。これこそが貴方の求めた風魔の姿なのですね。
巫力を解放した双子から、暖かな風が流れてくる。それはさながら、冬の世界に春を呼んでいる季節風のようで、椿は無意識に微笑をこぼしていた。
二人が、椿を呼んでいる。声で、態度で、気持ちで、そして魂で。
人に求められることがくすぐったく、それでいて心地好い。随分と久しく、そんな気持ちにさせられた。
「まずは椿姉から、その刺を引っこ抜く!」
「やってみなさい。できたなら、話くらいは聞きましょう」
楓が背を押すことで、柊もまた椿の目が認識できない速度に一瞬で達する。
双子が、二人で一つとはよく言ったものだ。だがそれは決して、一人だけでは半分しかないというわけではない。ただの兄弟や、他人という関係にはない二人の完全な同調ゆえに、人として完璧すぎる一人に見えるということに他ならない。
神経を研ぎ澄まし、真正面から迫る気配をやり過ごす。やはり初手は陽動。さらに頭上から降り注ぐ刃の雨から逃れると、やはり真正面から裂帛の気合いが叩きつけられる。
来る。
椿の予想通り、目の前に現れたのは、≪火遁≫と≪風遁≫による加速を計った柊だ。
もう一歩入り込めば手が届くという距離で踏み込み、柊は助走の勢いを殺すことなく高々と跳躍する。
途端、椿の足元がすり鉢状に陥没し、さらには辺りの土が一面泥化する。
油で満たされたプールに立っているような感覚。踏ん張りが効かない上に、足に絡み付く土が重い。
≪狼牙≫か。柊の得意とする≪風牙≫を思い出し、椿は視線を頭上へ向けた。
「秘脚……牙っ、落としぃぃっ!」
煌々と燃え上がる炎をまとった車輪が、宙を駆けるように落ちてくる。
このタイミングでは逃げられない。だが、決して迎撃できないものではない。
「楓」
襲い来る柊に向けて、刃の列を展開する。弓のように孤を描く刃が、椿の合図で一斉に発射されると、刃は銃弾を凌ぐ速さで柊に襲い掛かる。
しかし、柊が撃墜されるのを黙って見ている楓ではない。
案の定、楓の放った刃の雨が、椿の投刃を迎撃。失速した刃を蹴散らして、炎の車輪が泥を蒸発させる勢いで落下した。
《柊》による防御で椿と柊、共にダメージは半々といったところ。泥が飛び散り、髪や頬にかかるのも無視して、椿は落下によって体勢を崩した柊の喉に手刀を突き入れる。
おかしい。深々と突き刺しておいて何だが、手応えが、硬い。
まさかと思う前に目の前の柊が土に変わり、あろうことか椿の両腕に掴みかかる。
一度の≪土遁≫に、これだけの数の術を折り込むのはさすがだ。椿もこれにはすっかり騙されたが、椿を拘束するには些か不十分。《柊》による防御が、土の傀儡を瞬時にバラバラにすると、背後から音もなく接近する楓の手刀を、首の一捻りで避ける。
「甘いですよ。姉さんっ!」
そのまま首を切り落とす勢いで振り抜かれた腕を、やはり《柊》の防御が跳ね返す。だが、≪鳳王之黒羽≫に守られた楓の腕を、傷つけるには至らない。
飛ぶように距離を置く楓を振り返りながら、椿はじわじわと痛む首筋に触れる。
「確かに、変わりましたね。二人とも」
「椿姉と張り合えば、誰だって強くもなるさ」
泥状の地面を吹き飛ばして姿を見せた柊に、椿は「そういうことではなく」と、小さく溜め息をついた。
あれだけの攻防を繰り広げたにも関わらず、姉弟の誰が欠けるでもなく立っている。柊も楓も、そして椿自身も、この場この状況から逃げるつもりはない。やはり、今日こそが椿の悲願を達成する日なのだろう。
そう思うだけで、自然と拳に力がこもってしまう。
「柊。それに楓。あなたたちは、母さんのことをどれくらい覚えていますか?」
何もこんなときにそんな話をしなくても。そんな不満そうな柊の顔に、椿は必要なことだと頷いた。
「私は、ほとんど覚えていません。それは姉さんが一番知っているはずですよね」
確かに知っている。そもそも楓たちが物心つく前に母は死に、二人の成長に合わせて椿が全ての舞台を整えたのだから、当然といえば当然だ。
「オイラは、手を繋いで歩いたとき、見上げたとこにいる女の人が、母さんだと思ってた」
それは母の記憶ではなく、柊の中の母親像なのだろう。
「でも、それが何? 今のオイラたちには関係ないじゃんか。確かに産んでくれたことには感謝しても足りないよ。でも、何も覚えてない母さんよりも、伝えたいことがあるのは椿姉だ」
「……私は、その母さんのために強くなりたかった」
一跳びでクレーターから飛び出すと、椿は泥を払うように長く艶やかな髪を振る。
追いかけて飛び出す柊もまた、影衣の泥を振り払い、ゆっくりと警戒しながら楓と合流する。
「私の弱さが母を殺し、その復讐と後悔だけが、私を強くする糧でした」
母の死を語っているにも関わらず、二人が淡泊な反応しか見せられないのは、やはりどこか現実味に欠けるからなのだろう。
「母さんは優しい女性でした。私にとっては聖母のようですらあった。身体が弱く、忍者の妻としては贔屓目に見ても良妻とは言い難かったようですけど……」
そこで言葉を止めると、椿は再び手裏剣を手に二人を振り返る。
「そうして手に入れた私の"強さ"。これを打ち破る"強さ"がなければ、あなたたちに以後の戦場に立つ資格はない」
「なるほど。そういうことですか。先輩まで利用して、手の込んだことを……」
「椿姉が何考えてるか、なんて知らないけど。オイラたちは自分のやりたいようにやる。だから、まずは椿姉に伝えるんだ」
柊の闘志を証明するように、柊を中心に巫力が拡がり、蜘蛛の巣のような亀裂が足元に拡がっていく。
攻撃的な巫力に恵まれた、柊ならではの姿と感心させられる。
対して楓は、少ない巫力を温存でもしているのか。爆発的な解放をするでもなく、右腕に装着した≪鳳王之黒羽≫の指先を啄み、口で巫力の糸を引き出していく。
それならば、椿もまた臨戦体勢を調えるまでだ。
小さく深呼吸すると、風もないのに椿の髪がざわついた。それを合図に、椿の全身から刃が放たれた。
例えるなら、サボテンが一斉に針を飛ばしたようなもの。柊と楓は身に迫る針を全て叩き落とし、外野の二人は前触れもなくめくれあがった地面が飛び火するのを遮る。
陽平が観戦の邪魔になる壁を蹴り倒した瞬間、柊が椿に向かって飛び出した。
「だああああっ! だだだだだだだだっ!」
柊の拳が機関砲のように次々に打ち込まれる。おそらくこれを《柊》で防げば、楓が《柊》を封じにくるだろう。切り札だからこそ迂闊に使えない。仕方なく椿は全ての拳を捌き、ひとつひとつ丁寧にかわしていく。
拳の連打が僅かに途切れた。柊得意の蹴りが来るだろうと予測して、椿は自ら進んで距離を詰めた。
「飛閃・凪」
技の勢いだけで柊の背後に回る。椿の突き立てた無数の刃によって柊の動きは止まるが、ここで追い討ちをかければおそらくは楓がくる。
予想は……的中。
《柊》で手裏剣を跳ね返すと、同時にフワリと首に絡み付く糸もプツリと断ち切れる。
「《飛》」
椿がなんの予備動作もなしに投げた手裏剣が、楓の肩を打ち抜く。
「《襲》」
パチンと指を鳴らせば、どこからともなく現れた刃の雨が、二人を狙ったように降り注いでいく。
忍術というよりは魔法や手品の類に見える風魔の技の数々。しかしそれさえも、今の陽平にははっきりとタネが見えていた。
あれは髪だ。最初は鋼糸を使った技術かと思ったが、実際には背中を覆うような髪の束に隠れて、ありえないくらいに伸びた何本かの髪。それを弦のように使って刃を飛ばせば《飛》と呼ばれた無動作投刃になるし、全身に隠した刃に髪を通しておけば《柊》のような用途に応じて取り出し収納が可能になるからくりができあがる。さらに言えば、《襲》というのはあらかじめ対象に打ち込んだ手裏剣に何本もの髪を結い、これの先に刃をくくりつけておくだけでいい。あとは術者の合図で刃が対象に集中する。という仕組みだ。
どれも普通の髪では行えない。おそらく巫力による強化か、もしくは網牙で作り出した糸。どちらにしても、神業と言えるレベルの技術だ。
膝をつきながらも、決して諦めるそぶりを見せない双子に、椿は手刀を作り、人差し指の先を血が流れるくらいに噛み切った。
雫になって滴り落ちる赤い液体。椿は無表情のまま手刀で二人を切り付けた。
手応えは、一つ。しかしそれも変わり身で置かれた丸太とわかれば、椿は背後の気配に目掛けて再び手刀を振り抜いた。
初撃を超速度でかわし、椿の背後を取っていた楓の手の中で、刀の刀身が音もなく二つに割れる。
ありえない威力。それも手刀でやったとは思えないほどの広範囲。
「これが私の切り札。《落椿》です」
たとえ障害物を置いたところで、生半可な強度では輪切り。それを肌で感じた二人は、自然と椿から距離を取り出した。
椿の花はその生涯を終えるとき、美しく花弁を散らせたりはしない。なんの前触れもなく、花が根元からポトリと落ちるだけ。これを"首が落ちる"と不気味がられ、《落椿》などと呼ばれている。
しかし実際には、不気味さとはかけはなれた美しさを秘め、俳句などでは季語に用いられることもあるなど、情緒を感じさせる花。それが椿だ。
首をはね、足元に赤い死の花を咲かせる。それが風魔の椿だ。
「いつまでそうして逃げ回るつもりです」
「逃げやしないよ。オイラたちは手先と違って生き方が不器用だから、声を届けるには全力でぶつかるしかないんだっ!」
「姉さんの技、確かに見せてもらいました。次は、私たちの番ですっ」
椿が手刀を振ると、二人はその斜線上からさっと身を退ける。
なるほど。すでにからくりは解かれたわけか。
髪を用いた斬糸と、血を利用したウォーターカッターの合わせ技。それが《落椿》の正体だ。風魔の技術だけでも人知を超えた技だったそれは、風雅の友人によって切り札と呼べるものに昇華された。
椿が手刀を振るだけで、赤い糸が死の舞を踊る。避けるにしても軌道は複雑。受け止めるには細くしなやか過ぎる。そしてなにより、《柊》や《楓》と併用したときの《落椿》は、攻略の糸口すら見当たらない、不敗の奥義となる。
「強いっ。これが椿姉の本気……」
「そんなに、そんなに姉さんは私たちを殺したいんですかっ! それほど私たちが憎いですかっ!」
怒気をはらんだ楓の激昂に、我関せずを決め込んでいた外野も驚きの表情を見せた。
「私は、──でした。姉さんをずっと追いかけていたかった。私にとって姉さんは、何者にも勝る人。強く、気高く、美しい。私の理想でした。でも……」
肝心の部分はよく聞き取れなかったが、溜め込んできた感情を吐露していくことで、楓の表情が苦悩一色に彩られる。
「でも、姉さんにとっての私は違いました。それなら、私は姉さんの見ている私になろうと誓った。姉さんにコンプレックスを持つ妹。姉さんが道具と思えるような私を演じました。……演じてきました」
うなだれる楓の頬に、自分の血で赤黒く濡れた髪が張り付いていく。
そんな楓の肩を叩き、今度は柊が前に出る。
「オイラは、強くなるのが好きだった。新しい技術、新しい戦術、次から次に新しいことを覚えたら、喜んでくれる人がいたから。オイラはその人が喜んでくれることが、なにより大好きだった」
だから辛い修練にも耐えられた。無茶ともいえる修行をこなし、幼くして忍者として完成した力を手に入れた。
「でも、突然その人は、笑ってくれなくなった。オイラが悪いんだと思ったよ。伸び悩んだ時期だったから。成長しないオイラに失望したんだって思ってた。だからオイラは、その人が知らない、その人を驚かせるような技術を探したんだ」
そして見つけたのは、辺鄙な山奥で暮らす奇妙な女性拳士だった。
ちらりと師の姿を盗み見た柊に、師匠は黙ってピースサインを送る。
やはりこの人はよくわからない。
「新しいことを始めて、新しい自分を見せたら、喜んでくれるかなって思った。実際には失望されっぱなしだったみたいだけどね」
自虐的な笑みを見せる柊の拳が、改めて握り直される。
「だから、これが最後。オイラが手に入れた全部を椿姉に見せるから……」
柊の決意に後押しされるように、楓もようやく立ち上がる。四肢に力が入らないのか、ふらふらと立ち上がる姿は地に落ちた鳥のよう。
「私も、これで最後にしようと思います。姉さんの見たままの楓でいることは、もうおしまいです。だから姉さん、見てください。今、私は姉さんから飛び立ちます」
あまり似ていない双子だと思っていた。容姿とか仕種のことではなくて、本質的に似ていないと椿は思っていた。てっきり環境や性別のせいかと思っていたけれど、二人が言うように偽りの自分を演じていたとすれば、似ていなくて当然だった。
でも実際には、椿たち姉弟はこんなにも似た者同士だった。
二人がゆっくりと距離を置く。椿は人差し指から滴る血を一瞥すると、隠し持ったすべての武器で身構える。
距離を置いたということは、おそらく二人は得意の突撃を仕掛けてくる。
柊の巫力が足元から紫電を呼び込み、拳を腰溜めに構える。蹴り技を得意とする柊からは珍しい、拳打による一撃。その威力は想像に難い。
楓は楓で、得意の《飛閃》からなる応用技か。両手に握られたクナイがそれらを物語る。
そういえば、椿にもあった。二人に伝えたい言葉。二人に聞いてほしいことが。この一撃が交われば、それらを伝えることができるだろうか。
私は、本当にひとでなし、ですね。
良く似た流れを持った巫力が、三人の中心で交わっていく。それはさながら、小さな川が交わり、大きな川になるような光景だった。
身構えたまま、誰一人として自分から動き出せない膠着状態の中、それぞれの思惑に苦笑をもらした陽平は、懐から取り出した手裏剣を徐にコイントスする。
表と裏。くるくると回転しながら落ちていく手裏剣は、まるでこの三姉弟のよう。
狙ったように石にぶつかった手裏剣が、キンッと甲高い音を鳴らした瞬間、三人は静寂を引き裂いて一斉に飛び出した。
柊の蹴った足元が砕ける。柊の身体が闇夜を貫く稲妻のように走り、椿の目の前で急ブレーキ。地面を穿ちながら思い切り左足を踏み込んだ。
「秘脚っ!」
勢いを殺さず、左足を軸に身体を回転させると、柊の纏っていた雷が全身を通じて螺旋を描き、右足に伝わっていく。
雷は爪先に向かって螺旋を描くことで細く鋭くなると、空気を貫き、距離を零にして椿に襲い掛かる。
「雷ぃ針っ!!【らいしん】」
柊の爪先を起点に、威力が爆発。名の通り針のような鋭い雷の槍が放たれる。続けて、体を振り回す勢いで振り上げていた拳も、同様に雷の槍を撃ち放つ。
「双牙っ!!【そうが】」
そんな柊が打ち込むより早く踏み込んだのは、黒く長いストレートの髪を孔雀の羽のように振り乱した楓だった。
両手のクナイが無動作投刃によって飛ばされる。しかしそれはあくまで時間稼ぎのオトリ。本命はその投げたクナイの後ろで構えた手刀による一撃だ。
利き足に集中した巫力が、地面を蹴ると炎を撒き散らしていく。火の巫力による≪透牙≫は柊の得意とするところだが、柊のそれを遥かに凌ぎ、楓の身体は瞬きをするより早く椿の正面に出た。
無動作投刃の応用。髪を用いて弓に番えた矢のように構えていた手刀に、楓は火の≪空牙≫によって力を込める。
「鳳鳴閃【ほうめいせん】」
≪鳳王之黒羽≫に包まれた手刀が椿の胸を打ち抜いた瞬間を見た者はなく、ただ"貫いた"という結果だけがそこに生まれる。
柊と楓。それぞれの特性が最大限に発揮された、まさしく秘奥義と呼ぶに相応しい技だ。
迷うことなく、真っ直ぐに敵を打ち抜く柊の牙と、相手を瞬時に無力化する忍者として極められた風魔の技を自らの手で昇華させた楓の嘴。これならもう、どこに出したって恥ずかしくはない。胸をはって、「この二人が風魔の当主である」と言えるだろう。
こんなときであるというのに、椿は自分でも気づかない間に笑っていた。嘲笑の類ではない。これは、この気持ちは久しく本心から感じることのなかった"嬉しさ"だ。
子の成長が嬉しくない親がいるものか。それは関係が姉弟でも変わることはない同じ気持ち。
母さん。柊も楓も、大切なものを自分の手で守れるくらいに強くなりました。これでようやく、母さんとの約束を果たせそうです。
死の間際、母と交わした椿の"約束"。柊と楓が、大切なものを守れるような強い人に育って欲しいという、母の願いを叶えること。そしてもう一つは……
「もう、一つ?」
その呟きで、椿の中に小さな疑問が沸き上がる。
母との約束とは、一つきりではなかったのか。いや、確かもう一つあったはずだ。曖昧になりつつある記憶のかけらを拾い集め、母の死の瞬間を思い出していく。
先の約束を交わし、事切れるまでの間。母は椿になにを伝えただろう。思い出すまでもないと思っていた、脳裏に焼き付いた死の瞬間。母は……
「笑って、いた」
そして母の唇は震えていた。そうだ。このとき確かに母は言っていた。
『柊と楓を、母さんのかわりにいっぱい抱きしめてあげて』
「そうだ。私は……二人を……」
ふらふらと夢心地であるかのように歩き始める椿は、手にしていた武器の類をすべて放棄すると、一切の守る術を持たぬまま二人に向かって駆け出していた。
二人の成長さえ見届ければ、いつ死んだって構わないと思っていた。でも、母との約束を残したまま逝くわけにはいかない。
柊の《雷針双牙》が椿の腹を撃ち抜き、楓の《鳳鳴閃》が胸の中心を貫く。
普通ならその時点で絶命しても不思議はない重傷を負いながらも、椿は決して足を止めなかった。
全身から噴き出した血が椿の視界を隠すが、赤いカーテンを払い退け、夢中で手を伸ばして引き寄せる。
左手が何か熱いものに触れた。これは楓だ。続いて右手が柊を捕まえたら、後は力いっぱい抱き寄せていた。
赤い、赤い色が広がっている。肺が空気を吸い込めず、声が声にならずに掠れていく。そういえば、胸に穴が空いているんだった。でも苦しさはない。穴が空いた虚無感もない。なぜならば、ずっとずっと、そこになかった大切なものが、今は二つとも、胸の穴を埋めてくれているのだから。
満たされていく。母が死んでから、ずっと感じていた肌寒さ。親友だけが温めてくれた冷たいものが、今雪解けのように顔を見せた。
「これで、すべての約束を、果たしました──」
また、あの頃のように、褒めてくれますか。
母さん──
何が起こったのか、当の双子にもわからなかった。
二人はただ、胸に溜め込んでいた想いを伝えようと、椿に向かって全力を投げつけただけなのに。
なぜ椿は抗わなかった。なぜ椿は避けなかった。なぜ椿は、自ら飛び込んできたのだろう。そしてなにより、今、自分たちを抱き締めてくれているのは、いったい誰なのか。
これは二人の知る椿じゃない。強くて、美しくて、誰よりも厳しい姉じゃない。
「母さん──」
椿の呟きが、二人を一気に現実まで引き戻した。
二人を抱き締めたまま、力無く崩れ落ちる姉を抱き留めて、二人は狂ったように叫んでいた。
「椿姉っ! 椿姉っ! つばきねぇぇぇ!!」
「姉さぁぁぁんっ!! いやあぁぁぁっ!!」
涙がこぼれ落ちるのも構わず、姉の身体を支え続ける。
「先輩っ! 先輩っ、助けてくださいっ!! 姉さんが、姉さんが死んでしまいますっ!!」
「アニキっ! アニキぃ!!」
呼ばれずとも、陽平は三人に駆け寄っていた。
膝をつき、椿を寝かせて《斜陽》で癒し始める。
慌てて陽平に倣い、二人も巫力による治癒を始めるが、とても追いつかない。傷が塞がるどころか出血を止めるだけの力にもなれない。
苦しそうに唇を噛む陽平に、二人の顔が一気に青ざめていく。
「医者を呼ぶ。待っていろ!」
この山奥に電話でもあるのだろうか。柊の師匠も急ぎ小屋に駆け込んでいく。
「アニキ。アニキなら助けられるよね! アニキなら……」
陽平の二の腕を掴み、何度も揺すり続ける柊の姿に、陽平は苦虫を噛み潰したような顔で押し退け、椿の上体を抱き起こす。
「先輩、なにを……」
「今から少しの時間だけ、椿さんと俺の巫力を繋ぎ合わせる。お前たちは、最期の言葉をかけてあげるんだ」
苦しそうにそう告げる陽平は、決して顔を見せようとはしなかった。
最期という言葉が何を意味するのか、わからない二人ではない。それはつまり、陽平の力では椿を一時的にしか救うことができないということ。椿に待っている結末は、決して変わることはない。
二人が気持ちを固めるのを待っていられるような時間的余裕はない。
「いくぞ」
意識を集中させるためか、目を閉じて椿の胸の穴に触れた陽平は、器用にも椿と自分の巫力を繋ぎ合わせていく。椿からこぼれ落ちていた巫力の流れが陽平を介して椿に戻り始めると、呻くような声を漏らして椿がゆっくりと目を開く。
「椿姉っ!」
「姉さんっ!」
二人の呼びかけに、椿の唇が力無く動く。声は出せないのか、何度も何度も唇が同じ動きを繰り返す。
「か、あ……」
「さ、ん。……姉さん、しっかりしてください。姉さんっ!」
「少し強めに巫力を送る。伝えるべきことがあるなら、急げよ」
二人が頷くのを確認した陽平は、以前菫に行った巫力の移行を開始する。
目に見えるほどの巫力が、陽平から椿に流れ込んでいくと、ほどなくして椿の瞳に僅かながら力が宿る。
「柊……楓……」
「姉さん」
椿の手を取り、大切に両手で包んだ姉の手を、楓は愛しそうに頬で触れる。
「私は姉さんが望むのなら、たとえ姉さんに嫌われるような自分でも構わないと、そう思っていました。大好きな姉さんだから。姉さんは間違っていないから。姉さんは私のすべてだから」
いつだって、どんなときだって、楓は椿を追いかけていた。その背中を見ていた。それは言葉だけではなく、先ほど楓の見せた技からも伺えることだ。
椿の見せた、風魔の伝える技術と、風雅の集大成ともいうべき楓の奥義。殺し合いのような戦いの中でも、楓は椿の技術を決して見逃さなかった。
「ほんと、うに……真似ばかり。飛閃を、覚えたとき、から、そうだったわね」
楓の得意とする風魔の技《飛閃》。これは椿の最も得意とする技でもある。だからこそ楓は、この技を使い続けた。何度破られようと、いつか姉の放つ《飛閃》のように不敗の技にするために。
「私は……私は、少しは、姉さんに近づけましたか」
驚いた顔。それはすぐに微笑みに変わり、血まみれの指先で妹の頬に優しく触れる。
「もちろん」
ただ一言。それだけで、楓が今まで築き上げてきた堤防が、音を立てて崩れ落ちた。
涙が止まらない。次から次へと溢れる涙は、何度拭っても拭いきれるものではなかった。
「姉さん、姉さん、姉さん……」
「椿姉、オイラ……」
椿の空いた手を取り、柊は力強く姉の手を握り締める。
「さっき言ったよね。オイラにとっての母さんって、『手を引いて歩いてくれた、見上げたとこにいるひと』だって。覚えてない? オイラにとって、それは椿姉だけだったんだよ」
忘れるわけがない。ちゃんと覚えている。甘えん坊で、目を離すとよく転んで、でも、いつも必ず自分で起き上がってきた柊。椿も、そんな柊を見て、何度『強い子』だと思ったことか。
「オイラにとって、椿姉はお姉ちゃんで、母さんだった。オイラはそんな母さんみたいな椿姉に、褒めてもらえるのが嬉しかったんだ。誇らしかったんだよ」
柊の気持ちが、椿には痛いほどよくわかる。母の優しさに触れたくて、構ってほしくてクノイチとしての研鑽を重ねた日々。失敗して落ち込んでいると、母は優しく慰めてくれた。成功して喜べば、母は優しく笑って、一緒に喜んでくれた。ただそれだけのために、椿は生きていた。柊も同じだったのだ。
「だから、椿姉に見捨てられたと思ったとき、なにもかもぶっ壊してやろうと思ったよ。でも椿姉さ、普段は変わらないんだ。わからなくなって、オイラは椿姉の知らない自分を作ろうと思った」
そうすればきっと「柊、頑張ったんだね」と褒めてくれるに違いないと。
「オイラは子供だったから、椿姉から見ればずっと子供だから、親離れしようって、グレてみたりもした。結局、アニキに怒られちゃったけどね。でも、そんな回り道のおかげで、椿姉の知らない柊は、強くなれたと思う。変われるまで、椿姉のとこには帰らないと誓ったから……」
いつもは人一倍明るい柊が、俯いて、肩を震わせて泣いていた。
「もういいよね? オイラ、椿姉のとこに帰れるくらい、強くなったよね? だからもう椿姉、オイラのこと、見捨てたりしないよね!」
「……ええ。おかえりなさい、柊」
「椿姉っ!」
泣きじゃくっていた。あの柊と楓が。人目も気にせず、小さな子供のように泣いていた。
その様子を優しく見守る椿の姿は、あまりに弱くはかなくて。陽平にはとても見ていられなかった。
「ごほっ。けほっ! けほっ!」
むせ返る椿に、もう時が残されていないと悟ったのだろう。二人は「嫌だ」と叫びながら、椿の腕にすがりつく。
「ごめんなさい。あなたたちから、母さんを……奪って、しまって。私だけ、幸せに──ごほっ、ごほっごほっ!」
「そんなの、私たちは気にしませんっ!」
「そうだよっ! オイラたちには椿姉がいてくれりゃ、それでいいんだっ!」
嬉しそうに目を細めて、椿は血の気の失せた顔で二人に微笑みかける。
「今の、私は……なにも、できないけど、なにか……してほしいこと、ある?」
「……そんなのいらない。私は姉さんがいてくれればそれでいいんですっ!」
「死なないでっ! オイラたちを見捨てないでよっ!」
しょうがない子とでも笑うかのような椿の目に、陽平は柊の肩を掴んで椿に向き直らせる。
「言ってやるんだ。椿さんが、お前たちに願ってる。姉さんらしいことさせろって言ってんだよ」
陽平の言葉に二人が悩んだのは数秒。先に口を開いたのは楓だった。
「私を、私を『好きだ』と言ってください。私はその言葉があれば、姉さんを見失わない。姉さんをずっと想い続けていけます」
「オイラは褒めてほしい。『よくやった』って、昔みたいに頭を撫でてほしい」
二人の言葉は、瀕死の椿にも確かに届いたのだろう。これだけの重傷でありながら、椿は自ら身体を起こし、柊の頭を撫で、楓を抱き寄せた。
「楓。信じて、もらえないかも、しれないけど、私はずっと……あなたを好きでした」
「姉さん……」
「柊。素晴らしい師に巡り会えたのね。私から、離れていた間、よく、これだけのものを身につけました。……あなたは私の誇りです」
「椿姉……」
「陽平くん……どうか二人を、私の宝物を、未来へ……」
二人を抱きしめる椿の腕から、少しずつ力が失われていく。
二人の泣き声も、どこか遠くに聞こえて、椿の意識は泣いた幼子を探して、歩いていく。
少し前まで聞こえていた呼吸の音が、抱きしめられていた温もりが失われたことに、柊と楓は悲鳴のように泣き声を上げた。
「椿姉さぁぁぁんっ!!」
「姉さんっ! 姉さんっ! いやあぁぁぁっ!!」
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