青い大地ともいうべき海面に波紋が拡がっていく様は、言いようがないくらいに幻想的で。光海はしばしそんな水面にみとれていた。
 波紋はすぐに断続的な波に変わり、それが近づいていることを光海に教えてくれる。
 森王コウガを人型に、光海は足元に海藻を集めると、それを四方八方に伸ばして波の変化を感じ取るセンサーにする。その海藻のセンサーが、海中を高速で移動しながらこちらに向かってくる物体を感知すると、光海はコウガに弓を構えさせた。
「姫。本当にいいのですか。ワタシが言うのもなんですが、姫がなさろうとしていることは、かなり強引な方法です」
「うん。わかってるよ。でも、たぶんヨーヘーも同じこと考えるんじゃないかな。あ、別にヨーヘーに頼ってるんじゃないよ。私もちゃんと、そう思ってる」
 構えた弓に矢を番え、派手な飛沫を隠そうともしないで魚雷のように突っ込んでくる青い機影に狙いをつける。
「まずは、落ち着いて話を聞いてもらうよ。お兄ちゃん!」
 コウガの矢が放たれると、青い機影──海王レイガは一度海深く潜行することで矢を避け、まったく別の位置から海面に姿を現した。
 レイガはイルカのように跳ね上がり、勢いで回転しながら同時に跳ね上がった飛沫を弾丸のように蹴り出した。
 数瞬前までコウガが立っていた場所を、水の弾丸が正確に撃ち抜いていく。
「光海をたぶらかすなっ! 緑の忍巨兵っ!」
「コウガはなにもしてない。お兄ちゃん、これは私の意思だよっ!」
 水の弾丸が機関砲のようにコウガを追いかける。走りながら次の矢を番え、水面をスケートのように滑りながら連続で矢を放った。
 緑に輝く矢が、レイガ周辺で生み出される水滴を次々に撃ち落としていく。さしもの光洋も、光海の神懸かった技術に驚きを隠せないようだ。
「ぬぅうううっ!」
 怒り狂った光洋の咆哮が巨大な水柱を生む。鋭く重たい蹴りで打ち抜けば、水柱から螺旋を描く巨大な槍が発射される。
 恐ろしく威力の高い水の槍が海を割り、足場のなくなったコウガが突然宙に投げ出された。
「その命、もらったぞっ! 緑の忍巨兵っ!」
 体を捻り、一回転を加えた蹴りで水の槍が放たれる。
 飛行能力を持たないコウガに、空中でそれを回避することはできない。しかしそこは考え方しだい。逃げられないのなら受け止めればいいだけのこと。
 光海は矢を番えると、そこに穿牙を加え、三度に分けて矢を放つ。
 一発目が正面からぶつかって水の槍の威力を削ぎ、二発目が斜めに当たって軌道を逸らす。続く三発目が、水の槍を支える力そのものを射抜いてただの水に戻すと、それを足場に無事な水面へ戻っていく。
「姫、お見事です」
「ううん。コウガのサポートがあってこそ、だよ」
 もっとも、忍巨兵のサポートがあるとはいえ、これほど鮮やかな技を披露できるのは光海の慣れがあってこそ。それほどに光海は死線を越え、戦いに慣れてしまっていた。
「はぁ。私、ちゃんと普通の学生に戻れるのかな」
 この場に似つかわしくない悩みを呟く光海に、コウガは苦笑で応えるしかなかった。
「光海。お前も俺に背を向けるのか。お前までもが俺を否定するのか」
「違うよ。私はただ、お兄ちゃんと話がしたいだけ。聞いて欲しいことがあるの!」
「聞く耳持たんっ!」
 レイガの突く三叉戟を避け、腕から鰭のように伸びる水の刃を、弓に番えていた矢を剣のように振って受け止める。
「お願い。聞いてっ!」
「あの餓鬼の戯れ事など、聞く耳持たんと言っているっ!」
「私の言葉だよっ!」
 凌ぎ合う水の刃を跳ね返し、コウガの動きに合わせて術を練る。掌が触れた瞬間、散弾が弾けたような衝撃がレイガを吹っ飛ばした。
「姫、今のは……」
「鳳仙花って知ってる? 実を破裂させて種を遠くに飛ばす花なんだけど。それを《木霊》で、ね」
 木遁よりも術の幅が広がる巫術《木霊》を使うことで、海草を媒介に手元にない植物を召喚してみせるだけでなく、それをコウガの体術にそれとなく織り込んでみたが、光海が考えていた以上に上手くいってしまった。
「コウガ。お兄ちゃん、大丈夫かな?」
「大丈夫でしょう。海王の海での力は獣王を圧倒します。海王にやる気が見えないとはいえ、あの程度の攻撃でしたら受けた内には入りません」
「それ、あんまり安心したくないな」
 それはつまり、今以上の力をぶつけなければ光洋を止められないかもしれないということ。自分がそれだけの力を発揮するのは難しい。でもそれ以上に、そんな力を光洋にぶつけなければならないというのは、あまり気分の良いものではない。
 コウガに吹っ飛ばされて海中に沈んでから、レイガに動きは見られない。思わず駆け寄りそうになるのを堪えてジッと待ち続けること数分間。ようやく海に変化が現れた。
 最初は小さな渦だったはずが、すぐに数十メートルもの特大サイズに変わり、中心からはゆっくりとレイガが姿を現した。
 身にまとっていた怒りの空気が、一変して静かなものに変わっている。
 恐ろしいと感じる気持ちが、自然と光海の足を退かせていた。
「どこへ行く。森王」
 静かに響くレイガの声に、コウガもどこか言い知れぬ恐ろしさを感じ始める。
「緑の忍巨兵にも、あの餓鬼にも、ガーナ・オーダにも……、光海は渡さん。くれてやるものか」
「お、お兄ちゃん?」
「光海を、返してもらうぞ」
 そんな支離滅裂な言葉を皮切りに、レイガの足が渦の中心を蹴り抜いた。
 水遁の応用だろう。渦は平面から立体に変わり、巨大な水の竜巻となってコウガを飲み込んでいく。
「きゃああああっ!」
「くっ! 脱出……できない! このままでは水圧と水の刃でバラバラにされる!」
 まるで、突然人が変わったような感覚。さっきまでの光洋とは打って変わって、どこか釧のような秘めた力強さを感じる。
「くっ。援軍の……矢文」
 弦を引き、竜巻の外に目掛けて勾玉の輝きを解き放つ。
 次の瞬間にはミサイルのように竜巻の横っ腹に突き刺さった猪型忍獣センキが、そのままの勢いで体当たりしたことで、コウガは竜巻の外まで跳ね飛ばされていた。
 辛うじて脱出に成功したものの、レイガはすぐに竜巻を掻き消してコウガをその双眸に捉える。
 恐怖。そう感じていた感情の正体に光海はようやく気がついた。これは狂気だ。強い強い愛情が、光海を求めて手を伸ばし続けている。
 これが愛情なのかと思うと、自分の抱き続けてきた感情から目を背けてしまいそうになる。
「森王。彼女を返してもらうぞ」
「待つんだ海王! 貴方は何を勘違いしている。姫は……光海は彼のものではない」
「そう言ってお前たちは、オレからも奪っていったな」
 レイガから感じる激情に、コウガは何の言葉も返すことはできなかった。
「お前たちはそうやって、誰かを犠牲にしなければ戦えない。オレは、そんなお前たちが憎いっ!」
 犠牲という言葉に光海の顔色が変わる。
「コウガ、どういうこと? 犠牲って──」
「黙れ」
 レイガの蹴りが、いや感情をあらわにした言葉が、水面を走る無数の刃に変わる。
 次々に襲い掛かる刃を避ければ、刃は鋭利な刺に形を変えて、コウガを八方から刺し貫く。
「森王。オレは、ただの一日たりとお前たちへの憎しみを絶やした日はないぞ。いつか必ず、お前たちリードの王に与する者たちに、奪われる傷みを刻むと決めたあの日からな」
「復讐だと、そう言いたいのか」
「お前も、奪われればわかる」
 直後、光海が背後に気配を感じたときにはもう遅い。
 海中から現れた白鳥の忍獣トウキが、強力な羽ばたきでコウガを吹っ飛ばし、待ち構えていたレイガが三叉戟で横殴りに打ち返す。
 水面を跳ねる小石のように跳ね飛ばされ、コウガもついには海中へと沈んでいく。
「コウガ。どういうことなの? なんでレイガはあんなことを……」
 痛みを堪える光海の声に震えが混じっている。はたして恐れているのは光洋か、それともレイガのことか。いや、そのどちらでもなく、レイガがリードを恨む理由にこそ怯えているのかもしれない。
 コウガが、光海に真実を伝えるべきか、悩んでいるのがわかる。それだけのことをしたのかと思うと、レイガに対して刃を向けた自分たちにこそ非があるような気がして、光海はキュッと唇を噛んだ。
「お願い、コウガ」
「……最初に言っておきます。これは貴女たちにも、今の王族にも非はないことです」
 そう前フリをすると、コウガは天井のような海面を見上げたまま静かに語りはじめた。
「リードで海王が生まれた頃。釧皇から見れば、もう何代も前の王族の話です。当時のリードには王族以外にも、それなりに身分の高い者は数多くいました。そんな身分の高い者たちの中では珍しく、ある若い男女は、誰もが羨むほどに愛し合った恋仲でした」
 つまりどの世界でも、身分の高い者というのは、家や国を一番に考えて結婚しなければならなかったということに、光海は少なからずショックを受けた。
「しかしある日。リードは異世界からの侵略を受けました。その世界は九割が海という厳しい環境にありながら、高い技術力……いえ、高い戦力を有していました。地球ほど水辺の多いわけではないリードでは、水上での戦闘を得意とする者は少なく、攻められても攻め返せないという状況が続いたのです」
 以前、光海も陽平に聞いたことがある。なんでもリードは世界として不安定な位置にあるらしく、異世界や異星からの侵略を受けやすかったらしい。そんな厳しい環境から、リードの守護神として忍巨兵が生まれたのだと。
 そういう意味では、レイガが生まれたのは遅すぎたのだろう。
「そして戦に入って一月あまり。当時のリード王は、そのまま攻め続けられた際の被害を考慮して、人質を渡すことによる停戦を決断されたのです」
「……まさか」
「はい。先に話した恋仲だった男女。その女性が人質として選ばれました。当然男は死に物狂いで抵抗しましたが、王族の決定を覆すことはできませんでした。ですが男は諦めなかった。生まれたばかりの海王を強奪し、心転身によってその力を手に入れると、恋人を救うべく異世界へ乗り込んでいった」
 その光景を思い出しながら語るコウガが、自らを責め続ける殉教者のように見える。その姿がどうしようもなく悲しくて、光海は表情を陰らせた。
「結果として、海王はその異世界をたった三日で滅ぼしました」
「恋人は、どうなったの?」
「死んださ」
「海王っ!」
 沈んだまま浮かんでこないのを不信に思ったのか。自らも海中に降りてきたレイガは、コウガを責め立てるように言葉を投げつけた。
「奴らは停戦する気など初めからなかった。そんな中に人質として向かった彼女は、蹂躙され、さんざん慰みものにされた挙げ句、無惨な姿で晒しものにされていた。しかしリード王はその事実を隠蔽し、人質によって停戦したと公表した。オレにはレイガを強奪した罪だと人としての肉体を奪い、生涯忍巨兵であり続けろと言ったのだ」
 その怒りは誰に向けられたものだったのだろう。リード王。同じ忍巨兵。滅ぼした異世界の住人たち。いや、レイガの怒りは愛するものを守り抜けなかった自分自身と、それを許した世界そのものに向けられているのだ。
「この軍人は、あのときのオレだ。いつも夢見ていた光ある世界。その世界から愛するものを奪われ、孤独になりながらも戦い続けた。自らの手で、再び光ある世界を取り戻そうとしている。ならばオレは、この男の剣となってその願いを叶えよう」
「海王。彼の抱く希望こそが、誰かを犠牲にした幸福であるとどうして気づかないっ!」
「所詮、お前たちにはわからんさ。だからオレが、教えてやろうと言っている。さぁ。軍人、お前の力を貸してもらうぞ」
「いいだろう。忍巨兵、お前の復讐にも付き合ってやる。来い、忍獣!」
 レイガを追いかけてきたのだろう。海面を突き破り、海中にまで侵入したトウキは、その大きな翼でレイガを背後から包み込んでいく。
「武装、巨兵……」
 トウキの体が両翼、両足、胴の五パーツに分解すると、それぞれがレイガの体に合体していく。
 胴は大型のスクリューを備えたバックパック。両翼は腰のスタビライザ。両足はレイガの手に握られ、水掻きのついた足先からは水を固めた透明の刃がスラリと伸びる。
 レイガのマスクがはずれ、代わりに目を覆う鋼のバイザーが装着される。
「海王之騎士レイガッ! 手加減はしない。全力で受け止めろっ!」
 海王之騎士となったレイガの双剣が十字に走り、コウガの胸に大きな切り傷が刻み込まれる。
「あの日以来だ。この姿を誰かの目に曝すのは」
「ならば俺にも見せてみろ、忍巨兵。星一つを滅ぼしたというお前の力をっ!」
「いいだろうっ!」
 水の双剣がグニャリと歪む。突然固さを失った刃は、鞭のようにしなってコウガの体を捕らえる。
 どれだけ力を込めてもびくともしない束縛が装甲に食い込み、徐々に体を引き裂いていく。
「振りほどいて、コウガ!」
「申し訳ありません。地上ならばいざしらず、水中でこの束縛を解くのは物理的に不可能ですっ」
 あの双剣、元々が水を固めた武器であるがゆえに、水中でへし折るということはすなわち、周囲の水全てを一瞬で消滅させるのと同じこと。しかも今いるのは地球という広大な星の半分以上を占める海の中。これではたとえ、相手が獣帝であっても逃れるのは不可能だ。
 体に食い込む刃をなんとかしようと躍起になっていると、今度は強烈な水圧がコウガに襲い掛かった。
 なんてことはない。ただレイガがコウガを捕らえたまま、海中を高速で移動しているだけのこと。だが、水中という動きの制限される場所にも関わらず、これほどの速度が出せるというのは確かに驚異的。実際、この束縛がなかったとしても、水中で矢を当てるのは不可能だ。
 どうやらあの背中のスクリューは推進力を得るためのものではなく、一度に大量の水気を取り込むためのものらしい。泳ぎ続けているだけでレイガに膨大な巫力が集まっていく。
 水の圧力に歯を食いしばっていると、突然ブレーキをかけられた。慣性の法則に従ってコウガの体が投げ出され、その勢いを利用してジャイアントスイングのように海中を振り回された挙げ句、そのまま海上まで放り投げられた。
「なんという出鱈目な力だっ! しかし、これは好機。姫っ!」
「武装巨兵之術っ!」
 空中で、猪の忍獣センキの変化したミサイルポッドを武装した森王──森王之射手コウガが、海中の敵目掛けて石のミサイルを一斉に発射する。爆発と派手な水飛沫が視界を遮るバリケードになった瞬間、光海が巫力を集め、特大の《木霊》を発動する。
「木遁、大桜樹っ!」
 コウガが翳す掌から生まれた巨木が、鮮やかな白桃色の花を咲かせながら瞬く間に海底に根を張っていく。
 即席の足場にしては少々立派過ぎただろうか。巨大な木の枝に着地したコウガは、弓を構えると油断なく周囲を警戒する。
 あれだけの機動力を持っているのだ。まさかこの木の下敷きになったわけでもあるまい。ましてやミサイルで落とせたとも思っていない。
 息をのむコウガに、光海も同様に視線を忙しなく動かし続ける。
 足場を作り、条件を対等に持ち込んだとしても、海王之騎士の能力はあまりに脅威。いつどこから上がってくるのかわからない。
 不意に、耳を突くような甲高い音が鳴り、光海はビクリと肩を跳ね上げる。
 矢が風を切った時の音にも似ていたけれど、今のはもう少し固いものの音だった。
「コウガ。今の──」
 光海が音について尋ねようとしたとき、左足で踏ん張っていた足場が、突然僅かに下がる。
 まさかと視線を下げていけば、案の定、足場にしていた巨大な枝が、なにか鋭利な刃物によって輪切りにされた瞬間だった。
 すぐに退いて、一番太い幹のてっぺんに飛び乗ると、落ちていく枝に合わせて矢を射る。当たったような音はしなかった。聞こえて来たのは枝と矢が、それぞれ海面を叩いた音だ。
 これだけ枝の多い木だ。足場としてはしばらくもつだろうが、逆にレイガからの攻撃も見え難くなる。やはり自分達からも攻めなければ勝機はない。
「私がレイガの気配を探ってみる。コウガ、少しだけお願いね」
「御意」
 そういうと光海は、目を閉じて、世界に満ちた巫力だけに意識を向けていく。
 別に巫力を有しているのは人間だけではない。生きとし生けるものすべてが"生きる"という行為によって、それぞれ巫力を生み、使用している。海や大地が発している巫力は、星が生きている証といえよう。だが唯一の別格は風雅の者。風雅は巫力を急激に生みだし、大量に消費する。簡単に言えば、風雅の忍者たちは生き急いでいるわけだ。そんな風雅の忍巨兵を察知するのは、巫力を扱う者ならば意外とたやすいこと。
 身近に感じる大きな巫力。これはコウガだ。光海を包み、守ってくれる優しい木の巫力。これよりも大きく、しかし強い巫力を放っているわけではないものがある。これは足元の大樹だ。
 光海はより感覚を広げ、海の中にも意識を向けていく。その瞬間、光海の意識は凄まじい数の命に包まれた。
 海はすべての生命の母。なんて言葉を聞いたりもするが、これだけの巫力が満ちている海を目の当たりにすれば納得せざるを得ない。
 その中に、一際大きな巫力がある。間違いない。これがレイガだ。しかし、この位置はいったい……。
 悩んだのは一瞬だった。すぐに光洋の意図に気付いた光海は、脇目もふらずコウガを跳躍させた。
 一瞬遅れて透き通った水の刃が巨木を縦に刺し貫き、荒れ狂う大蛇の如き動きを見せる刃に、美しい桜の大樹はバラバラに引き裂かれていく。
「この姿では透牙が使えません。海に落ちる前に一度分離しますっ」
「待って。私にまかせて!」
 そのまま海中に逆戻りかと思われたコウガだったが、光海の巫力が全身から放たれた瞬間、落下の衝撃をほとんどゼロにして、大樹の破片が浮かぶ海面に着地する。
「わっ。……なんとか、成功したよね」
「姫。いつの間に透牙を?」
「ついさっき。コウガとか、日向さんが使ってるのを見てたから。こんな感じかなって」
 早く走ったりするのはわからないけど。と苦笑で付け加える光海に、コウガも驚嘆の溜息をついた。
「光海。本当に、貴女にはいつも驚かされる」
 あまり褒められ慣れないだけに、こう手放しで褒められるとなんだか照れ臭い。
 しかし、そういつまでも和んではいられない。敵は、光洋とレイガは、すぐそこに迫っている。
「コウガっ」
「御意。土遁爆砕矢っ!」
 全身に装着したセンキのパーツから石のミサイルが発射され、次々と海面を突き破っていく。
 ミサイルというと、火気兵器だけに水中での効果は期待できないが、実際には土遁による石の弾丸なので、水中の相手にも多大な効果を発揮できるのがセンキの特徴だ。
 尖った形状が水の抵抗をギリギリまで減らし、センキのミサイルが残らずレイガに襲い掛かる。
 しかし相手もさることながら。凄まじい機動力は、そのミサイルさえもたやすくかわし、瞬く間にコウガの背後を取る。
「森王っ。この戦場での抵抗は無意味と知りながら、いつまで抗い続けるっ!」
「無論。貴方が折れるまでっ!」
 不規則に波打つ水の刃が右足のミサイルポッドを刺し貫き、鞭のようにしなる刃がコウガを弾き飛ばす。
「お兄ちゃんっ。どうしたらいいのっ? どうしたらわかってくれるのっ!」
 弾かれた勢いを利用して水上を滑るように高速移動するコウガに、レイガもまた、海中からそれをグングンと追い上げていく。
 何度も振り返る度に矢を放つが、その度にレイガとの距離は縮まり、矢はレイガの通り過ぎた後に消えていく。
 やはり振り切れない。しかし距離を取らなければレイガの独壇場になる。ただでさえリーチの長い双剣だ。不利な間合いで戦うなど、自殺行為もいいところだ。
 コウガが必死に距離を稼ぐ間に、光海もまた、必死で光洋に呼びかける。このまま戦いが続くようなことがあれば、良くて片方が、悪ければ共倒れになる可能性もある。
「そんなこと、絶対にさせないよ」
「姫っ」
「私はヨーヘーみたいにみんなを守ってあげられない。一人の女の子を守り抜くこともできないっ。でも、私は私を、私の世界を失いたくないからっ!」
 気のせいだろうか。今、コウガの目には、光海の弓──森王之祝弓が、強く脈動したように見えた。
 弦を引き、巫力の矢を番える。そこでようやく光海も弓の変化に気がついた。
「矢の色が変わった。どうして……」
「姫っ!」
 コウガの声で顔を上げた光海は、咄嗟に海面から跳ね上がるレイガに向かって矢を構える。森王之祝弓になにが起きたのかはわからない。しかしここで迷えば、きっと、もっとたくさんのものを失ってしまう。
「森王之祝弓。お兄ちゃんに私の声を……届けてっ!」
 指から離れた矢が、宙を舞うレイガ目掛けて光の尾を引きながら飛んでいく。
 双剣で矢を叩き落とすつもりだったレイガも、矢が刃をすり抜けたことで驚愕に大きく目を見開いた。
 矢は水の剣をすり抜け、レイガの身体をも通り抜けると、レイガの中にいる光洋の胸に突き刺さる。
「なっ──」
 矢が突き立っているにもかかわらず、光洋は痛みを感じなかった。それどころか、胸に優しい気持ちが入り込んでくることに戸惑いを感じていた。
「これは……」
「これは……お兄ちゃんの声?」
 同様に戸惑う光海は、自分の胸から伸びる光の線に視線を落とす。ずっと先に繋がるレイガの姿。この光が光海と光洋を繋いだことに気づくまで、そう時間はかからなかった。
「お兄ちゃん。どうしたら一緒に来てくれるの? ガーナ・オーダは、私たちがバラバラで戦って勝てるような相手じゃない。それはあの大きな腕の忍邪兵のときにお兄ちゃんも感じたでしょ?」
 光海の声が、想いが、光の糸を通じて光洋の中に響いていく。
 だが、それすらも鬱陶しいと一蹴した光洋は、水の双剣を氷の刃に変え、再びコウガへの強襲を開始した。
 氷の刃に触れた右腕のミサイルポッドが凍りつく。すぐに強制排除することで自身までもが凍りつくのを回避したコウガに、レイガはさらに水の刃で追い討ちをかける。
「ぐはっ! 海王っ。もうよすんだっ! あれは……あれは王の決められたことではないっ!」
「ざれ言をっ!」
 水の刃がコウガの右の太股を貫く。痛覚ダメージを遮断しきれなかったことで、光海の足からも鮮血が飛び散った。
「あぅっ!」
「海王っ! あれは……彼女が自ら望んだことだったんだっ!!」
 トドメとばかりに振り上げられた刃が、コウガの言葉にピタリと動きを止める。
「……なん、だと?」
「あのとき、あの策が採用されなければ、次に戦へ出兵するのは貴方の納める領地だった。それを知った彼女は、王にあの策を進言したのだ」
 あのレイガが目に見えて動揺している。無理もない。数百年もの間、リード王への揺るぎない怒りを糧に生きてきたレイガにとって、コウガの口にした言葉は、その矛先を失うものだ。
 剣を握る手に力が入り、カタカタと剣が震え出す。
「そんな……」
「彼女は、貴方を戦に行かせたくはなかったのだ」
「そんな虚言に惑わされるほど、オレの怒りは小さくはないっ!」
 水の双剣が振り下ろされ、コウガの胸が大きく裂けた。
「コウガっ! レイガ、もうやめてっ。お兄ちゃんも。どうしてわかりあえないの? どうして怒りをぶつけることしかできないの? 私はただ、今日だけで終わりたくないだけなのにっ!」
 裂けた服を押さえ、光海は悲鳴をあげるように、ただ想いを口にする。
「私たちは生きてるんだよっ。生き続けるのっ。今日で立ち止まらず、明日に行きたいのっ! それなのにどうして、お兄ちゃんもレイガも振り返ることしかしないのっ!」
「俺は常に、お前との未来を見ているっ! だから俺と来いっ! 光海ぃぃぃっ!!」
 振り下ろされるレイガの双剣を弓で受け止め、矢を剣のように空いた腹部に走らせる。
 切られたダメージがないのか、レイガは力任せにコウガを押し切ると、そのまま抱き合うようにして、海中に潜っていく。
「過去を大切にすることのなにが悪いっ! オレたちは過去がなければ生きられない。過去はいつだってオレたちに希望をくれているっ!」
「大切にすることは大事だ。だが、過去に縛られて明日へ進めないものには、未来も、現在さえもないっ!」
 レイガの背中に、スクリューと一緒に装着されていたトウキの首が、二つの剣の間に入ることで、双剣を一つに繋ぎ合わせる。
 巨大な剣を軽々と振りかぶり、水上とは打って変わった素早い動きでコウガに接近すると、レイガは躊躇なく大剣を振り下ろした。
 受け止めに入った矢はたやすく両断され、コウガの右肩を水の刃が深く斬り裂いていく。
 弓を支えに、なんとかそれ以上切られないように踏ん張るが、水中という戦場と、切り裂かれた痛みがコウガにそれを許してはくれない。
「光海っ! もう終わりだ。俺と来い。俺を必要としてくれるお前だけは、お前だけは、なんとしてでも俺のものにするっ!!」
 涙が溢れるのは傷が痛むからか。それとも光洋の言葉が嬉しいからか。
 違う。そのどちらでもない。光洋の過去に対する強い想いが、光洋の目を曇らせているのが悲しくて、独りぼっちと感じている光洋が、あまりに寂しくて。
 だからこそ光海は、光洋を、殴ってでも止めなければならないと思ったのだ。
 力いっぱい、光洋の怯えた心を目掛けて、光海は言葉という手を振り上げ、振り下ろした。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。私はお兄ちゃんのものにはならない。なれないよ。だって私、ヨーヘーのものになるって決めちゃったから」
「ならばお前を壊すっ! 俺を必要としない。俺を捨てる世界などっ!」
「どうしてどちらかじゃなきゃダメなの! ヨーヘーとお兄ちゃん。二人にいてほしいって、そんなに我が儘っ? 私はただ、ヨーヘーを愛したいだけっ! お兄ちゃんに見守ってもらいたいだけなのにっ!」
 光海の想いも虚しく、激昂した光洋には届かない。
 鮫が獲物の周りを囲んでいくように、コウガの周りをレイガの分身で囲い始める。
 徐々に囲いが狭まり、四つの、掬い上げる水の大剣が、コウガの身体に深々と切り込まれる。
「うっ、ぐ。ああああっ!!」
「終いだっ! 森の王よっ、せめて最期は母なる海に抱かれて眠れっ!!」
 レイガ渾身の力が、コウガを水の大剣ごと振り回すと、勢いに乗せて海中から放り投げた。
 大剣によるダメージと水圧が、コウガから抵抗する力を奪い、コウガは壊れた人形のように、宙に投げ出される。
「光海。俺のものにならないのならっ、せめて俺の手で眠れっ!!」
 光洋とレイガの意志が交わって、水の竜巻を纏った海王之騎士が、弾丸のように海上を目指す。
 光洋の命が巫力となって搾り取られるのに反比例して、水の大剣が長く、大きく変わっていく。
「何をしても手に入らない。手にしても奪われるというのならっ!!」
「俺たちは、愛などいらんっ!! 必要なのは独りで生きる力だけだっ!!」
 海底に突き立った大剣が、レイガを押し出し、さらに加速させていく。
 ロケットのように海面から飛び出したレイガが、太陽を背に大剣を振り回し、追い抜いたコウガ目掛けて振り下ろした。
「さらばだっ! 森王コウガっ!!」
「──待てっ! 忍巨兵っ!!」
 後先考えず、ただ全力でトドメを刺そうと振り下ろされた水の刃が空を切る。刃を叩き付けられた海面が二つに割れ、海底が顔を覗かせる。
 宙を疾走でもしなければ、今の一撃を避けることは不可能だ。それはすなわち、飛行できないコウガには、回避できないはずの一撃。
 だが、レイガが認識するよりも早く、コウガは回避に入っていた。
「森王はどこにっ!」
「ばかな。後ろ……さらに上だとっ!!」
 光洋の胸から伸びる光の糸が、まっすぐに、遠く天空を指している。
 水の刃で防御に入ろうとするレイガよりも、それが降りてくるのは早かった。
 陽光を背に降りるそれは、大型のクナイでレイガの動きを奪い、空中でさらに加速した。
 落下しながら見上げるそこに見えたのは、緑の双弓を背負う紅の獣王の姿。
「バスタークロスフウガだとっ!!」
 銃口が触れるぎりぎりまで接近したバスタークロスフウガが、アンカーのように伸ばした獣爪でレイガを捕らえ、吊るし上げる。
 バスターアーチェリーの銃口に巫力の光が集まり、レイガの頭くらいなら一瞬で蒸発させると言わんばかりに額に押し付ける。
「……獣王を連れていながら、なぜ今まで助けを請わなかった」
「海王。これが姫の、光海の意志だ。貴方を殺したくはない。どうか落ち着いて話を聞いてほしい」
「断れば、撃つか。ご立派だな」
 コウガの言葉を嘲笑うレイガに、光海は唇を噛む。
 結局こんな方法でしか止められない。それはまぎれもない事実だ。これでは光洋と何も変わらない。我を通すためには力を行使する。それを証明してしまったようなものだ。
「撃てばいい。そうすればお前の勝ちだ」
「お、お兄ちゃん……私は……」
 撃てない。たとえこの場でレイガを倒したところで、光洋の気持ちが折れるわけではない。そもそも光海は、光洋を屈服させたいわけではなく、理解し、納得した上で協力して欲しいのだ。力付くで意見を押し付けるのは、やはり違う。
 レイガの眉間を狙っていた矢を逸らして、光海はバスタークロスフウガを空へと離脱させる。
「なぜ、撃たない。なぜ撃てない者が戦場に立っているっ!」
 苛立ちを込めて見上げる視線に、光海は唇をキュッと結ぶ。
 光海は撃つ覚悟を持って戦場に立ったわけではない。ただひとえに、陽平に置いていかれることが怖かったから。陽平の隣に自分がいないことが許せなかったから。決して誰かを撃つために戦場に立ったわけではない。
「撃てない。撃てるわけないもん。私はお兄ちゃんを撃つために来たんじゃない。私はお兄ちゃんとわかりあうために来たんだもん」
「ここは戦場だ。戦場では、撃つことでしかわかりあえない」
「──そんなことないっ!」
 光洋の言葉を遮り、光海が声を荒げた。
「そんなことない。私たちは家族だもん。撃たなきゃわかりあえないなんて、そんなの嘘だよっ!」
 信じている。家族を守るために軍人になった兄だ。家族とわかりあうのに銃が必要だなんてありえない。
 強い意志の光を秘めた光海の眼差しに、光洋は不思議と返す言葉を失っていた。
「お兄ちゃん。私はお兄ちゃんの気持ちには応えられないよ。ヨーヘーが好きだから。ヨーヘーに想いを伝えたいから。でもね、私はお兄ちゃんにもいてほしい。いてくれなきゃだめなの」
 欲張りだということはわかっている。でも、家族には傍にいてほしいと思う気持ちが、いったいどれほどに特別だというのか。
「一緒にいてよ。一緒にいて、私たち家族を守ってよ。お兄ちゃん……」
 最後の辺りは、もう消え入りそうなほどに小さな声になっていた。
 唇を噛んで涙を堪える。泣き出すわけにはいかない。もう泣いているだけの子供ではいられない。前を向いて、自分の言葉で伝えなければならない。
 大きく息を吸い込み、意を決して口を開く。
「お兄ちゃ──」
「光海っ。敵の気配だっ!」
 一斉に吐き出すために溜め込んだ言葉を遮られ、光海はクロスフウガに耳を向ける。
「ど、どうしたの?」
「距離は少しあるが、敵の気配だ。数も多い」
 クロスフウガに言われ、注意深く気配を探ってみる。確かにここから距離はあるが、複数の悪意が動いているような気配を感じる。片手では足りない数の悪意。それは光海の背中に悪寒を走らせる。
「この距離。まさか、人を襲っているの?」
「おそらくは。ワタシと陽平は以前、これと似た気配の持ち主と対峙したことがある。だが、まさか量産されていたとは……」
 ガーナ・オーダの忍巨兵──ジェノサイドダークロウズ。
「……行きましょう。クロスフウガ」
 僅かに思案した後、光海は凛とした口調でそう告げた。
「この世界に裏切られ、後ろから守るべき者たちに撃たれるかもしれない。光海、キミはそれでも彼らのために戦えるのか」
 ずるい質問だ。そんなこと嫌に決まっている。
 だが、それでも光海の決意は揺るがなかった。
「ヨーヘーは、その質問になんて答えるかな。そう考えたら、私の答えはすぐに出てくるから」
 瞼の裏に陽平の眼差しを思い浮かべて、自分の中の彼と重なるように光海は答えた。
「私が戦うのはヨーヘーのため。それと私自身のため。ヨーヘーはきっと誰も見捨てない。なら、私も誰も見捨てない!」
「……そうだな。試すような真似をして、すまなかった」
 強い光を秘めた瞳に、クロスフウガは光海にだけ聞こえるよう謝罪を告げる。
「行こう。キミたちの信念が命ずるままに」
「待てっ! どこへ行くつもりだっ。まだ俺との決着がついていないぞ」
「お兄ちゃん。……誰かが助けを求めてる。私たちじゃなきゃ、助けてあげられないんだよ!」
「知ったことかっ。俺にとっての力とは──」
「『家族を守るためのもの』でしょ? だから一緒に守ろう。私たちの家族を。この世界に住むたくさんの家族を」
 先ほどまでのような訴える声ではない。けれども、光海の静かな言葉は光洋を動けなくさせていた。
 母が子を諭すような声音に、光洋の動揺がありありと浮かぶ。唇が震え、視線が宙をさ迷う。
「俺の、俺の家族は……」
「誰だって家族になれる。誰にだって家族はいる。お兄ちゃんが守りたかった家族は、世界に満ちてるよ」
 ゆっくりと上昇して離脱するクロスフウガに、光海は少し迷った末に頷いた。
 きっと来てくれる。そう信じて、光海は単身敵の猛火の中へと進路をとった。













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