翡翠が最初に目にしたのは、自分の頭ほどもある丸々としたニワトリのぬいぐるみだった。
 時間は午前6時過ぎ。
 こんなに早く目覚めたのは家の外から聞こえてくる壮絶な物音が原因だ。
 最近では、ここ、風雅家の日常として行われていることなのだが、それでも目が覚めたのは物音の原因である1人、風雅陽平のことが気になっているからに他ならない。
 自分の代わりにニワトリを布団に寝かせると、薄い緑のパジャマのまま部屋を抜け出し、リビングのカーテンにそっと手をかける。
「ようへい」
 まるで、少年の名を確認するかのように呟いた翡翠の言葉は窓ガラス一枚に隔てられ、庭で父・雅夫を相手に、特訓に励む陽平の耳には届かない。
 あの日、翡翠の兄・釧が現れてから数日、陽平とはあまり話す機会がない。
 いつ声をかけても忙しそうに特訓の反復練習を行い、それ以外は寝ているか、食べているか、または今のように雅夫と特訓しているかのどれかになる。
 そう。翡翠は純粋に寂しさを感じていた。
 今だって、透明なのに二人の間を隔てる窓ガラスが邪魔をしている。
 だったら開けてしまえばいいとかそういう問題でもなく、自分の不用意な一言が陽平との間に溝を作ってしまったのかもしれない。そんな不安が今の今までずっとつきまとっている。
「きらい……じゃない」
 窓ガラスに触れ、そんなことを呟く翡翠に、いつからそこにいたのか、陽平の母・香苗は小さなため息をついた。






「いつまで目に頼っておるつもりだ!!」
 雅夫の放つ斬撃に圧倒されながらも、陽平は同様の技を放つ。
 彼の持つ特殊な瞳鬼眼≠ヘ複写の能力を秘めている。
 見たものの動きを記憶して、自らもまったく同じ動きを可能とした凄まじい能力なのだが、最近、陽平がその能力に依存しきっていたことが判明した。
 今以上に陽平が力をつけるには、まずそこから改善せねばならないと思っていたのだが、なかなかどうして。陽平自身、無意識のうちに鬼眼を使用しているらしく、一向に上達の気配がない。
「見て強くなる。それだけではいかん! どうしても使ってしまうならいっそそんな瞳など切り捨ててしまえ!!」
 雅夫の放つ素早い斬撃に、複写の暇なく陽平が崩れ落ちる。
「今朝はこれで終わりだ。峰を返していなければ、お前は今朝だけで20回以上死んでいることを忘れるな」
 容赦ない父親の言葉に歯噛みして、陽平は仰向けに倒れたまま土にまみれた頬を拭う。
 陽平の進化はまだ、訪れていない。






勇者忍伝クロスフウガ

巻之八:『忍者の休日』







 最近の陽平は、登校時も特訓の場になっている。
 雅夫に渡された鉛の入ったリストバンドを両手足に身につけ、塀の上やフェンスの上などを歩き、より洗練されたバランス感覚を身につける。
 登下校中に至っては、あろうことか目隠しまで行っているために、先ほどから何度も落下している。
 さしもの光海もこれには呆れたらしく、もう何度目かのため息をついた。
「ねぇ、歩くくらい普通にできないの?」
 光海の言葉に陽平のこめかみがピクリと動いた。
「だったらやってみろよ!! なにも見えねぇのに、普通に塀の上なんか歩けるかよ!!」
 多少論点のズレた陽平の切り返しに、今度は光海が額を押さえる番だった。
「そうじゃなくて…、その目隠し外しなさいって言ってるのよ!」
「修行中だって言ってンだろぉが!!」
「そんなの家に帰ってからすればいいでしょ!!」
 その姿はまるで噛みつきあう猛獣のごとし。
 互いに叫ぶだけ叫ぶと、気が済んだのか今度はツカツカと歩きだした。
「ほら、翡翠ちゃんも行くよ?」
 振り返る光海の言葉に頷き、小走りで追いついてくる翡翠に、光海はスッ、と手を差し出した。
「ヨーヘーのバカはあんなだし、私で良かったらだけど…」
「ありがとう、みつみ」
 しかし、そう言って光海の手を取りながらも、翡翠の目は何度も塀から落ちかけている陽平に固定されたまま。
 現役の高校教師である陽平の母・香苗の例え異星人のお姫様だろうと学問を疎かにするのはよくない。≠ニいうありがた〜い提案で、こうして小学校に通うようになった翡翠だったが、登校時はいつも陽平の隣を歩いている気がする。決して友達がいないとかそういうわけでもないようなので今まではなにも言わなかったのだが、少し陽平に依存しすぎているような気がしないでもない。
 しかし本来、注意しなければならない立場にある陽平はこの通り。
 陽平が招いたことなのに、どうして自分が…、と思いながらも、陽平と翡翠にとってどうするのが一番いいかを考え始めている自分に涙が出そうだった。
「あーぁ、ライバルに塩なんか送ってる場合じゃないのにな…」
 そんな光海の呟きが聞こえたのか、翡翠の手にギュッと力が込められた。






降魔宮殿──。

 暗く冷たい大きな空間。そこは巨大な冷蔵庫と化した工場であった。
 その中央に位置するハンガーに固定された、まだむき出しのフレームにすぎない巨兵を見上げ、ガーナ・オーダの鉄武将ギオルネは苛立ちを露わに手元のパネルを操作する。
「まだだ。まだなにかが足りん…!」
 両の拳をパネルに打ち付け、暗い工場内で一際目立つディスプレイに表示されるデータに再び目を走らせる。
 理論的にはこれで忍巨兵を超える邪装兵ができるはずだった。忍邪兵を捨て駒に、忍巨兵のデータも収集した。それなのに、なぜかはじき出される数字は忍巨兵を下回る。
「なにが…なにが足りんと言うのだ」
 いつもこちらの予想を上回る忍巨兵たち。計測した数値はアテにならない。その数値の二倍三倍を目安に動かなければ、手痛いしっぺ返しを受けることになる。
 これは、そのための邪装兵なのだ。
「これさえ、これさえ完成すれば蘭丸など…!」
「私がなにかな。鉄武将…」
 突如、背後に現れた主・織田信長の懐刀・森蘭丸に、ギオルネの目が大きく見開いた。
 すべての扉はロックされていたはず。蘭丸がここに入れるはずがない。
「貴様、なぜここに…」
 ギオルネの問いに、微笑を浮かべる蘭丸は、ゆっくりとギオルネの周囲を回るように歩き出す。
「貴公のためにひとつ働いてみようと思ってね」
 本気か嘘か、どちらともわからぬ笑みに、ギオルネが甲冑の下で訝しげな表情を浮かべる。
「忍巨兵の正確な情報が必要なのだろう?」
 蘭丸が言葉を紡ぐ度に、ギオルネの中に疑惑が生まれていく。
「なにをするつもりだ?」
「見つけたのさ…」
 そう言って左手にはめられた手甲をチラつかせる。
 だが、ギオルネは確かに見た。その手甲にはめ込まれた黒い勾玉と、刻まれた風雅の印を。
 それが忍巨兵の忍器であると気づくのにそれほど時間はかからなかった。
「まさか…」
「これが教えてくれる。まだこの地に眠る忍巨兵の存在を」
 手甲の指先からしゅるしゅると垂れる斬糸が、暗い工場内でキラキラと輝く。
 付着した鮮血を飛ばすように振るい、蘭丸は頬に飛び散った返り血をペロリと舐めあげる。
「貴公のため、信長さまのため、風雅の忍びたちをバラバラにしてこよう」
 そう告げる蘭丸の瞳は妖しげな光を放ち、ギオルネでさえ僅かな寒気を感じていた。






 今日は土曜日で半ドンだったというのに、結局翡翠は帰宅するまで陽平と話をする機会を設けることはできなかった。
 リビングで早々に宿題を済ませ、片付けも終えると庭の外を眺めてみる。
 今、そこに陽平の姿はない。それなのに、不思議と今もそこにいるような存在感がある。
「ようへい」
 どうしてだろう。涙が溢れ出すのを止めることができない。それどころか、まるでダムが決壊してしまったかのように次々と涙が溢れてくる。
「ようへぇ…」
 嗚咽を鳴らし、肩が震える。
「まったく、しょうのない息子ね。大切な子にこんな寂しい思いをさせてまで得る強さになんの意味があるんだか」
 今し方帰宅したのだろう。スーツ姿のままで翡翠の頭を撫でる陽平の母・香苗に、翡翠は構わず泣きついた。
「そうだ。ねぇ翡翠、いいものをあげるわ」
「いーもの?」
 香苗の言葉に顔を上げ、手の甲で涙を拭う翡翠に、香苗は困ったようにハンカチを翡翠の瞼に押し当てる。
 そうするだけで、不思議と涙で腫れていた目が安らいでいく。そんな気がした。
「今日ね、こんなものを貰ったの」
 ポケットから取り出した2枚の紙切れを受け取り、翡翠はその紙面に描かれた文字や写真に目を落とす。
「なに?」
「それはね、遊園地のチケット。陽平を誘ってデートしてくるといいわ」
 香苗の言葉に、翡翠は再び首を傾げる。
「でーと…?」
「そう。好きな人と二人きりで遊びにいくこと」
 その言葉に翡翠の目が輝いた。
「したい! ようへいとでーと」
 そんな翡翠にうんうん、と頷き、香苗は愚かな息子のことを思い浮かべる。
 まさかとは思うが、陽平は翡翠の誘いを断りはしないだろうか。
 決してありえない話ではない。そのために幾度となく幼馴染みの少女は涙で枕を濡らしているのだから。
「少し世話を焼いた方がいいかもね」
 すっかり機嫌を直した翡翠の様子を伺い、香苗は今日もどこかで暗躍しているだろう夫のことを真っ先に思い浮かべる。
 やはりなにか裏方をするなら雅夫が適任だろう。
 とりあえず余計なことをしないよう言い含めておけばきっと大丈夫……のはず。
「さて、まずは陽平を呼び戻さないと」
 そんなことを呟きながら、懐から取り出した携帯で素早く息子の番号を呼び出していた。






 一方、肝心な陽平はと言うと…。
「いってえぇっ!!」
 再び目隠しで塀の上を歩いて帰宅していたところ、突如として鳴り響いた携帯に足を踏み外していた。
「痛ぅ…。いったい誰だよこんなときに!?」
 目隠しを外し携帯のディスプレイを覗き込む。どうやら母からの連絡らしい。
 そうとわかれば迷うことなどない。通話ボタンを押すと、携帯を耳に押し当てた。
「もしもし?」
 これでもし、電話の相手が悪友だったりした場合は迷うことなく電源を落としていたが、母を相手にそんなことをすれば明日を迎えることはできないだろう。
『陽平、真っ直ぐ帰ってきてる?』
「ああ。親父に言われた通り、目隠しのままバランス取る練習しながら帰ってるけど…」
 おかげで本来の倍近い時間をかけねばならないが、直に慣れるに違いない。
『目隠しはいいからすぐに帰ってきなさい』
 あまりに唐突な発言に、陽平は言葉を失った。
 有無を言わせない口調でピシャリと言い放つ母。その姿を想像することは実に容易いことだ。
「わかった。ところでなンかあった?」
 父はともかく、理由もなくそんなことを言う母ではない。
 しかし、その答えが返ってくるより早く電話は切れ、ツー、ツー…、という特有の音が耳に届く。 なるほど。理由を知りたくばさっさと帰ってこいと言うことか。
 仕方なしに目隠しをしまい込むと、鞄をしっかりと脇に挟み込む。
「見てろぉ、新記録更新してやるぜ!!」
 ひらりと塀の上に飛び乗ると、自宅の方を目指して一直線に走り出す。
 気のせいなのかもしれないが、不思議と身が軽く感じた。
 少しは修行の成果でも出たのでは。そんなことを思いながらも、母の用件はいったいなんなのだろうかとどんどん不安になっていく。
 それこそ忍巨兵を召喚して帰宅するくらい高速で帰らねばならないのではないだろうかという気さえしてくる。
 だが、そんな阿呆な考えでもやもやしている間にも、既に自宅は陽平の視界に入り込んでいた。












<NEXT>