スッ、と伸ばした指先に触れる滴の感触に、風魔楓はゆっくりと眼を開いていく。
 一糸纏わぬ姿で川の水を潜り、全身にまとわりつくような不快感を丁寧に洗い流していく。
 どうしても拭えぬ不安は果たしてなにを指しているのか。
 風雅の里を離れ、既に一晩が明けている。あまり時間をかけるわけにはいかないのだが、なぜか帰れない状況に安堵している節がある。
(私は、なにをしているの…)
 のし掛かる不安を拭い切れぬまま川を出る。手拭いで隠しきれない曲線を忍びの装束で隠すと、指先をパチン、と弾くことで離れた位置に集めておいた薪代わりの枝に火をつける。
 自身の生み出した炎に歩み寄りながら、楓はゆらゆらと揺れ動く炎から目を逸らすことができないでいた。
 思い返されるのは幼い記憶。まだ、楓が風魔としてはあまりに未熟だった頃の忘れられない記憶。
(私は…楓。風魔忍軍次期当主、柊の兄妹にして、風魔の失格者)
 その気持ちがそうさせるのか、必要以上に忍びであり続けようとする才能なき少女。それが、楓という少女の姿であった。






勇者忍伝クロスフウガ

巻之十伍:『双子 - Day of reunion -』







 初めて姉を意識したのは恐らくあの日のこと。
 身体作りがある程度の成果を見せ、初めて忍びという世界に触れた5つの頃。楓は連れられた風魔のお屋敷で生まれて初めて触れた手裏剣を、見事的に当てて見せるよう言われていた。
 風魔に生まれた者は、その特殊な血筋故か、忍びとしての才能に秀でている者ばかりが生まれていたために、忍具の扱いに長けた者や、忍術の扱いに長けた者ばかりの、いわゆるエリート忍者集団であった。
 それらの才能を調べるため、こうして身体作りが一定水準を超えた者から才能の開拓を始めるのだが、楓だけは少し勝手が違っていた。
 結論から言えばおちこぼれ。結局この日も、楓は手裏剣を当てることは適わなかった。
 だが、楓の場合は前例にないほど才能を発揮する場がなく、忍具も、忍術も、忍者という要素全てが彼女を否定するかと思われるほどに、才能というものが欠如していた。
 そしてその度に「では椿…」という言葉と共に突き付けられる力の差。初めはそんな姉に憧れていた楓も、いつしか姉の才能を羨むようになっていった。
 自分には天性の才能が欠落していると認識した頃、楓は人知れず努力を重ねるようになっていた。
 他人が三度やって身に着ける技術なら、その倍以上の時間を費やしてでも他人を超える技術を身に着けていた。寝る間を惜しみ、技術を磨くことだけに費やした日々は、決して彼女を裏切らない。そう自身に言い聞かせることで、自分で自分を抱き締める。
 10歳を迎えたとき、楓は双子の兄、柊と命のやりとりをした。
 初めて会った片割れは、楓が羨むほどに才能に溢れていた。まるで、柊が楓から才能の全てを奪っていったのではないだろうかと疑うほどに、楓は差というものを感じていた。
 天才とは、努力の達人が十日かけて身に着けたものを、最初の一度で行える者をいう。
 ならば努力で天才を超えるには、いったいどうすればいいのか。その答えは思った以上に単純なものであった。
 努力して、自らも天才になればいい。努力の天才になればいいのだ。
 そうして事実、楓は努力の天才になった。そうすることで、楓は失格者という汚名を自らの力で脱ぎ捨てていった。
 だが、皮肉なことに風魔の長女、椿もまた、努力の人であった。
 決して才能を過信することなく、天性の才能に加えて努力を重ね続ける姉は、いつしか楓の想像を遥かに超えた存在となっていた。
 楓がどれほど駆け足で進もうとも、常に椿の背中が壁となって立ちはだかる。
気付いた頃には自然と椿を避けるようになっていた。
 目を閉じても、耳を塞いでも聞こえてくる姉との比較。椿ならもっと…∞椿より…∞椿の妹なのに…′にする言葉は違えど、結局は誰もが椿と楓を比較する。
(誰か……私を見て。私は楓。私は椿姉さんじゃない!)
 次第に追い詰められた楓は、社会に溶け込むために学ばねばならないとそれらしい理由をつけ、高校に入学することを決意した。もっともらしい理由をつけ、風魔の家からは遠い時非を選んだ。
 なぜなら、そこには誰もいない。椿を知り、楓を知る者は誰もいないのだ。そこならばもう比較されずに済む。もう、誰かに重ねられることはない。
 そう。楓はただ、逃げ出したかったのだ。
 しかし、その逃亡生活も、そう長くは続かなかった。
 きっかけは風雅の忍巨兵が現れたこと。それは、古の盟約により風魔もまた、その戦いに加わらねばならないことを意味していた。
 しかしここで予想外の出来事が起きた。あの椿が忍巨兵に拒絶されたのだ。どうせ選ばれはしない。そう高を括っていた楓は、椿が選ばれなかったことを知るや否や、すぐさま帰省すると、是非自分にと申し出た。
 あの椿が拒絶されたのだ。誰も楓の言葉に首を振る者はなかった。だが、意外にも楓を推挙したのは誰でもない椿であった。
 椿の意図はわからなかったが、おかげで機会を得ることができた。
(私は…姉さんを超えてみせる)
 なんの滞りもなく先に風王との契約を済ませた柊を余所に、楓は張り裂けそうな心臓を必死になって抑えた。
 柄にもない。緊張しているらしく、足が竦んで動くことができない。
 ただ、あの赤い勾玉に触れればいい。それができれば、晴れて炎王との契約成立だ。
 周囲の人間が息を飲んで見守る中、ふと姉の手に巻かれた白い包帯が目に付いた。
 聞いた話によれば、風王に拒絶されれば風の牙に切り刻まれ、炎王に拒絶されれば炎に焼かれるという。
(怖い…)
 姉でさえ拒絶された炎王に、どうして自分が認められようか。気がつけば楓は、椿と己を自ら比較していた。
 震える足を進められず、避けようとする手を止めることができない。
(やっぱり…)
 恐怖と不安に駆られ、その場から退こうとした瞬間、楓は誰かに腕を掴まれた気がした。いや、実際に何者かが楓の腕を掴まえていた。
「逃げるな」
 振り返るそこにあったのは、もう一人の自分の姿。楓にないモノを持つ半身。
「オイラがいる。楓にないものはオイラが埋めるから」
 少し前まではこんなことを言う少年ではなかったのだが。いったいなにが柊をここまで変えたと言うのだろうか。しかし、あるときを境に変わった柊は、間違いなく楓の半身であった。
「楓を埋めるのはオイラの役目。オイラを埋めるのは楓の役目でしょ」
 風王と炎王は共に造られた双子の忍巨兵だと聞き及んでいる。つまり、風王に認められた柊のパートナーになれるのは、この世に楓を置いて他にはいない。
 柊に強く頷いたときの楓に、もう恐れも、迷いも、不安もなかった。
「炎王クウガ…。私は楓。柊の半身にして半心。どうか……私にあなたの翼を貸してください」
 そう告げながら手を伸ばした瞬間、掌が熱くなるのを感じた。決して焼かれるような熱さではなく、暖かな翼と握手をしたような不思議な感覚。
 ふと掌に視線を落とせば、そこには赤く輝く炎王の勾玉が握られていた。
 このときを境に、楓と椿を比較する者は急激にその数を減らし、楓は柊と共に在ることが増えたという。まるで、足りない半身を埋めるかのように…。






 そんなことを思い出し、楓は隣りにない半身に酷く違和感を覚えていた。
 楓が不安なとき、迷ったときにそれを埋めていたのは確かに柊なのだが、どうも今感じている不安は別物のような気がする。
 どちらかというと、柊のことは心配するまでもないと思っているし、今更隣りにいないだけで不安になるようなことはない。
 では、この寂しさのような感情はなんだというのか。
「……せんぱ──ッ!?」
 胸に浮かんだ言葉をそのまま呟いてみた瞬間、楓は頬が熱くなるのを感じていた。
 咄嗟に言葉を遮ったために噛んでしまった舌が痛かったが、おかげで取り乱すことなく落ち着くことができた。
 怪我の功名などと言うが、よもや実践してしまうとは。陽平に見られなかったのがせめてものすく──
「…ッ!?」
 まったく、自分はこんなときになにを考えているのだろうか。
 情けない…。
 そ、そうだ。情けないのだ。忍び頭が情けないからこそ、楓がしっかりしなければならない。この不安もなにもかも、陽平の不甲斐なさに繋がっているんだ。
 そんな言い訳じみた思考に行き着き、ようやく落ち着きを見せると、楓は髪を束ねて愛用のゴムバンドで止めておく。
 忍び装束に袖を通し、髪を束ねて伊達眼鏡を外す。自分の中でこの一連の行動を儀式化している楓は、この瞬間に少女ではなく一人のクノイチになる。
「私の使命は忍巨兵の封じられた心を開放すること…」
 呪文のように呟き、楓は気持ちを切り替えていく。
「私は使命を果たし、一刻も早く風雅の下に帰らねばならない」
 そうして与えられた使命を再確認すると、楓は目前に迫った目的地を目指して一気に駆け出していく。
 目指すは眼前にそびえる活火山。目的は、その火口にあるという封印の開放。






 そんな楓の姿を、彼女に気取られずにずっと追いかける影があった。
 悪戯好きの猫のように細い枝に座り、ゆらゆらと尻尾を動かすのは、ガーナ・オーダ鎧の双武将ガイ・レヴィト。
 獲物というよりも、マタタビを前にした猫のように目をとろんとさせ、レヴィトは楓の背中に溜め息をつく。
「ええなぁ…。やっぱあの娘がイチバンや」
 そんなわけのわからないことを呟き、舌なめずりをするレヴィトの右腕で輝くそれは、かつて陽平の目の前で、織田信長の懐刀と称される森蘭丸が1体の忍巨兵と共に持ち去ったもの──闇王式甲糸であった。
 鉄武将ギオルネの実験施設でレヴィトの見つけたもの。それは、風雅の技術を蒐集するために調べ尽くされ、バラバラに解体された闇王モウガであった。
 たとえ無力化したとしても忍巨兵は危険だと、信長の憂いは一つでも絶つべきだと、蘭丸が闇王を利用せずに解体したという話を聞いたレヴィトは、ならば自分が有効に再利用してやろうと、こうして再び闇王を組み上げたわけだ。
「蘭ちゃんはわかっとらんなぁ。やっぱ道具は使うモン次第やで」
 忍巨兵だろうが忍邪兵だろうが、所詮は道具にすぎない。ただ、至極上等だというだけだ。使う者によって憂いにもなれば、便利な手足にもなるものだ。
 こんな風に…、と闇王式甲糸から飛ばした糸を使い、レヴィトは枝から枝へと器用に飛び移っていく。
 まずは案内してもらうとしよう。彼ら風雅が血眼になって探す何か。恐らくは忍巨兵の類いだろう。
 ならばそれも奪い、今後のために役立てるまでだ。それに…。
「よぉ動いた後の方が美味しいしな」
 あの柔肌に歯を突き立てた時、炎王のクノイチはいったいどんな声で泣いてくれるだろうか。
「あかん、考えてたら濡れてしもた…」
 そんな不謹慎な言葉を呟きながらも、レヴィトの瞳は楓の姿を見失いはしなかった。
 まずは追い詰める。そして、抵抗ができなくなるまで苛め抜き、最後はゆっくりと楽しませてもらう。
 そんなレヴィトの気質は、まさに猫そのものであった。






 火口に近付くにつれ、周囲の温度までもが上昇していく。鬱陶しい暑さだ。まるで身体に纏わりつき、四肢の枷となって行く手を遮るかのようだ。
 だが、それは比喩にとどまらず、徐々に身体が重くなっていく。
 走るどころか、立っているのさえやっとの状況に、楓は酸欠になったかのようにハァ、ハァ、と肩を上下させながら息を切らせる。
 明らかに様子がおかしい。空気の薄い高所での修行にも耐え抜いた楓が、多少空気が薄い程度でここまで消耗するはずがない。
(これは……結界?)
 まるで、炎が周囲の酸素を全て飲み込んでしまったような気さえしてくる。
 もし、これが風雅の結界ならば、とても策なしに突破できる代物ではないはずだ。
 仕方なしと這うようにして退いた楓は、ゆっくりと立ち上がり、軽くなった身体をほぐしていく。
 やはり身体に異常はない。それもそのはず。あれは、潰されたというよりも、身体に力が入らず、立てなくなったという感じだった。
 脱水症状や酸欠、貧血などに似た感覚を覚えた。つまり、これは高重力フィールドの類いではないということだ。
(忍巨兵でいけば…)
 不完全な忍巨兵とはいえ、クウガは炎王の名を冠する忍巨兵だ。もし、この結界が熱を利用したものならば、炎や熱に強い炎王で突破できるかもしれない。
 そう思い、後腰の炎王式七首に手を伸ばした瞬間、かろうじて視認できる細さの糸が背後から無数に拡がり、楓の身体をギリギリ傷つけない力加減で締め上げていく。
 迂闊だった。まさかこんなところまで尾行されているとは思わなかった。
 当然警戒はしていた。しかし、楓の嗅覚ではこの相手を捉えるには力不足だったということだろう。
 肌に食い込む糸に歯を食いしばり、睨み付けるように首だけで背後を振り返る。
「ガーナ・オーダ…!」
「せやで♪ ウチは鎧の双武将ガイ・レヴィト。アンタのゴシュジンサマや」
 突拍子もないことを言う。
 しかし、尻尾をゆらゆらと動かし心底嬉しそうに笑うレヴィトに「正気か?」と尋ねても、恐らくは当然のように頷いてしまうのだろう。
「そない目ぇせんといてや。ウチはよぉお近付きになりたいだけなんやしさぁ!」
 糸を引かれる。ここで抵抗すれば輪切りにされるため、されるがままに引かれていく楓は、背後から抱き締めるレヴィトに困惑の表情を浮かべる。
 楓に劣らぬ柔らかなものが押しつけられるほどに抱き締められる。いったいどういったつもりなのか。すぐに殺されるというわけでもないようだが…。
 ふと、楓の視界に見覚えのあるものが映る。
「……それは!」
 レヴィトの右手にあるもの。楓の目に映った手甲には風雅の印が刻まれてあり、腕の部分には黒い勾玉がはめ込まれている。
 間違いない。ガーナ・オーダが闇王モウガと共に奪っていった闇王式甲糸だ。
「これ? えーやろ。蘭ちゃんが捨ててたからな。ウチが再利用すんねん」
 そう言いながらも、レヴィトは楓の髪を咥え、良い匂いだなどと呟いている。
 さすがにこの状態でいるのにも、いい加減腹が立ってきた。
 既に全ての糸に絡ませるよう、鋼糸を張り巡らせてある。あとはそれを…
「いい加減離してください」
 引くだけだ。
 刹那、身体を拘束していた全ての糸が切断され、楓はレヴィトの首を一閃するほどの勢いで炎王式七首を走らせる。
 だが、浅い。薄皮一枚を裂いただけに終わり、楓はすぐにレヴィトとの距離を置いた。
「なんや自分、めっちゃつれないなぁ。ゴシュジンサマの抱擁やで?」
 そう言いながらも手甲からは新たな糸が垂れ、腰に巻き付けた奇剣…もとい、連結刃を引き抜いていく。
「私の主は貴女じゃない。抱き締められようが、愛の言葉を囁かれようがなんとも思いません」
 むしろ嫌悪感の方が勝っていた気がする。
「まぁ、そないでっかいこと言うんは……ウチから逃げれたら言いな」
 逃げるつもりなど毛頭ない。今後のためにも、双武将はここで倒すに限る。
 手にした七首を握り直し、クナイを構える。
「風魔流飛閃…、いきます!!」
 風遁による加速と突撃。さらに両手の獲物で対象をめった斬りにする。
 事実上回避は困難な技なのだが、楓は既に幾度となくこの技を破られている。
だからこそ、レヴィトの連結刃に全ての斬撃を弾かれてもさして驚くこともなく、当然のようにレヴィトの背後へと駆け抜けていく。
 更に振り返ると同時に印を組み、楓は手から伸びている鋼糸に火遁を放つ。
 油を染み込ませてあったのか、炎は瞬く間に糸を走り、擦れ違いざまに巻き付けておいたレヴィトの腕へと引火する。
「小癪な真似やなぁ。こないしょーもないモンでウチのこと倒せる思われとるんやろか?」
 腕の一振りで炎を消し去り、レヴィトはやれやれとばかりに頭を振る。
 やはり強い。一筋縄でいく相手ではないと思ってはいたが、想像以上だ。
 ひょっとしたら椿でも勝つのは容易ではないかもしれない。
(それでも私は…)
 逃げるわけにはいかない。ここで逃げ出せば、もう楓に戻る場所などないのだから。
 赤い衣を着装し、手にした手裏剣が乱れ飛ぶ。糸によってその全てを弾かれ、大蛇のように襲いかかる連結刃から必死に逃れる。
 一気に接近してクナイで斬り上げるが、切っ先が触れることもなくかわされ、反り返る勢いで放たれた蹴りを飛び越えるように回避する。
「火遁──」
「鈍いで!!」
 印を組む瞬間にレヴィトの糸が舞い、楓の衣を引き裂いていく。
 だが浅い。レヴィトの肩を蹴って距離を取り、手裏剣で牽制をかけながら着地する。
 強い。これだけ動いていながら、レヴィトは息を切らせるどころか、まだまだ余裕があるとばかりに笑みを絶やさない。
(勝てないかもしれない…)
 学校で遭遇したガイ・ヴァルトも確かに強かったのだが、レヴィトの強さはまた違うところにある。
 忍者に近い動きを見せながらも重たい一撃を放ち、こちらの動きを先読みして反撃を入れてくる。
 以前、釧に動きが正確故に読みやすいと指摘されたことがあるが、どうやら長年続けてきた反復練習が仇になったらしい。既に癖のようになってしまったものを、そう易々とは改善できようはずがない。
「ほんなら、次はウチの番やでぇ!!」
 レヴィトの振るう連結刃が高速で伸びてくるのを紙一重でかわす。だが、鞭のような奇剣は手首の動きだけでその軌道を変え、前後左右から不規則に襲いかかってくる。
(このヒト……私が逃げ回るのを楽しんでる!?)
 かわし損ねた刃がマスクを割り、楓の黒髪が羽のように散っていく。
「くっ…!?」
「そうそう。アンタは素顔がカワイーで♪」
「大きなお世話です!」
 刃の波を掻い潜り、レヴィトの懐に飛び込んだ楓は、なにを思ったかレヴィトの足下に七首を突き立てる。
 刹那、僅かながらレヴィトの動きが止まったのを楓は見逃さなかった。
 束縛忍法影縫い。対象の影を術を編んだ刃で地面に縫い付けることで、対象の自由を奪う術だ。
 正直、楓の力では相手の動きを僅かに妨げることしかできないが、油断している相手にはそれが命取りだ。
(狙うは一点!!)
「はあぁぁぁぁっ!!」
 突き立てた七首を引き抜くと同時に、楓の振り上げた刃がレヴィトの右腕に深々と食い込んでいく。
 皮を切り、肉を裂き、骨を絶って再び肉を裂く。
「先輩の憂い…、確かに返していただきましたよ」
 飛び散る鮮血から逃れるように退く楓に、レヴィトはなにが起こったかわからないとでもいうかのように、両の眼を見開いた。
 視線がゆっくりと右腕に下り、そこにあるはずのものが消失しているという現実に、先ほどまでとは打って変わった怒りの形相を浮かべる。
「アンタああああああッ!!! ちょっと優しくしたったら調子ぶっこきやがって!!! 自分がなにしたかわかってんのかボケがぁ!!!!」
 怒りの咆哮が空気を伝い、楓は顔をしかめながら闇王式甲糸から腕を引き抜いていく。
 それにしても、まさかここまで豹変するとは思っていなかった。
 どうやらレヴィトは、自分を傷つけられることを極端に嫌う傾向にあるらしい。
「風雅の品を返していただいただけです。だいいち、これは貴女には必要のないものでしょう」
「うっさいわッ!!! もぉ遊ぶンはやめや。アンタは四肢切り落としてからウチのペットにしたる!!!!」
 怒りと共にレヴィトの身体が変化していく。体毛が濃くなり、爪と牙が伸びていく。
 変身のためか、出血はピタリと止まり、レヴィトは連結刃を投げ捨て楓に襲いかかる。
「速いっ!?」
 ドンッ、という派手な音と共に爆ぜる土煙に顔をしかめた瞬間、楓の身体が孤を描くように宙を舞う。
 不意に受けたその一撃は、あのガイ・ヴァルトを軽く超えていた。












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