──同刻 風雅の里──
酷い顔だった。
随分と泣いてしまったのだ。無理もないが、これではみんなに笑われてしまう。
目の前の鏡に映るのは、まるで死人のような自分の姿。あまりにも生気に欠ける表情は、まさに今の自分に相応しいものに思えた。
恐らく、陽平はクロスフウガに生かされた。理屈はわからないが、クロスフウガはあの瞬間、自らの命を盾にして陽平を守った。
だが、陽平にはそれが無駄に思えて仕方がなかった。
残された陽平に力はない。あるのは生気が抜け、覇気が消え失せた抜け殻だけ。
それに比べ、クロスフウガが生きていれば、新たな忍者と共にガーナ・オーダを討つことだってできたかもしれない。
なぜ無力な自分が生き残り、風雅の象徴とも、希望ともいうべき獣王が死ななければならなかったのか。
そんな想いは陽平の胸をギリギリと締め付けていく。
握り締めた拳も、なんの意味もないということはわかっている。それでも叩き付けずにはいられず、気付けば目の前の鏡は、陽平の拳によって叩き割られていた。
獣王を失った自分に価値はない。アニキと慕う少年は失望するだろう。決意を認め、付き従ってくれた少女は、陽平を斬り殺すやもしれない。囚われたままの幼馴染みは、なにを信じて待てばいいのだろうか。陽平の、守るという言葉を嬉しいと言ってくれた少女は、いったい誰が守るのだろうか。
「俺じゃ……ない!!」
ドン、と拳が叩きつけられた鏡台がぐらりと揺れる。噛み締めた唇の端から、赤い滴が流れ落ちていく。
もう、流す涙はない。ならば、いったいなにを以て償えばいいというのだろうか。
「俺じゃ……だめだったんだ!」
崩れ落ちるように膝をつき、陽平は手にしたそれを畳にめがけてがむしゃらに突き立てた。
何故、だめだと、自分にはできなかったんだと、そう思っていても、どうしてこの手は掴んで離さないのだろう。握り締めた拳は固く結ばれ、陽平の手はまだ、獣王との繋がりを求めるようにあのクナイを握り締めている。
捨てればいい。それだけで陽平はもう楽になれる。そんなこと、わかっていたはずなのに。どうしてもこれを手放すことはできなかった。
これは、陽平の運命を切り開くための鍵。そして誓いを立てた証。友と約束を交わした繋がりでもある。
手放せるわけがない。そんなこと、できるはずがない。
握り潰さんばかりに強く握り締め、畳に突き刺さった切っ先を引き抜く。
重い。そう感じたのはこれが初めてだった。獣王という忍巨兵との繋がりだけではなく、この獣王式フウガクナイには数多くの約束が詰まっている。
それは、おそらく陽平だけのものではない。
光を失い濁ってしまった勾玉に触れ、陽平は何度も謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめん…、ごめん…ごめん──」
みんなの大切な想いを砕いてしまって。みんなの想いに応えられなくて。
胸の前で抱きしめるように握り締め、陽平は再び勾玉を覗き見る。
いつも見えていた獅子の影はない。しかし、輝きを失ったはずの勾玉は、陽平に応えるかのように、襖の隙間から差し込む小さな光を受けて輝いている。
まるで、「大丈夫だ」と「ワタシがキミの力になる」とクロスが励ましてくれているように感じる。
自分の都合のいいように解釈しているなんて、そんなことはわかってる。それでも陽平は、クロスが許してくれると思うだけで、心底救われた気持ちになれた。
「俺で……いいのかな。俺なんかで、本当にいいのかな…」
光を失ったクナイは答えない。だが、クナイに残された、友と交わした約束は、陽平の背中を押すように何かを訴えている。
震える声も、腕も、足も、全部あいつがいない証なのに、それでもまだ、陽平が立ち上がれることを教えてくれる。
立てる。そう思った瞬間、陽平は当たり前のように立ち上がっていた。
まだなにをすればいいのか、なにかできることがあるのかもわからないけど、それでもこの、獣王式フウガクナイを手にしている以上、このままじっとしているなんてできない。
胸の奥に聞こえる獣王の咆哮を強く握り締め、陽平は仰々しく巻かれた包帯を振りほどいた。
「失礼致します」
そう言って、様子を見に部屋を訪れた巫女がそっと中を覗き見たとき、陽平の姿は忽然と部屋から消えていた。
巫女は驚きの声をあげそうになるのを自身の手で抑えると、すぐに知らせなければと踵を返す。
だが、彼女はそこから走り出すわけでもなく、その場で恭しく頭を垂れる。
いつの間にそこにいたのだろうか。風魔の長女、椿に、巫女は陽平がいたはずの部屋を促した。
すっ、と音もなく襖を開け、椿はすべてを悟ったかのように小さく頷く。
眠り続けていた獅子の子は、ようやく走り出したらしい。そんなことを考え、椿は小さな含み笑いを浮かべる。
獅子の子は、まだ爪も牙も未熟で、一人で獲物を捕らえることもできない弱い生き物だ。
しかし、その成長は目覚しく、親が狩りをする姿を見て、真似して、初めて一人前になるのだという。
そういう意味では、陽平のもつ鬼眼複写≠ニは強くなる一番に近道なのかもしれない。
そして、親を失ったとき、獅子の子は新たな獅子となる。
今の陽平は、まさしく獣王を失った王の子だ。
「これで陽平さんは、ようやく新たな王になれる」
獣王の死でさえ、必要だった死と割り切ってしまえる辺り、自分はどこか冷たいのかもしれない。
しかし、そんな素振りさえ見せずにその場を後にした椿は、未だ戻らない弟たちのことへと思考を巡らせる。
これ以上の遅れは致命的だ。そもそも、あの未熟な二人に新たな忍巨兵を扱いきれるのだろうか。
未熟故にその力を引き出せないとなれば、琥珀の負担は大きくなるだけだ。
やはり一度、本気で二人に修行をつけねばならないのかもしれない。膝をつけば命を落とすような過酷な試練こそが、今の二人には必要なのだ。
(すべては……琥珀のため)
そう。たとえ弟と妹を生贄に差し出すことになろうとも、琥珀は守り通してみせる。
琥珀はきっと怒るだろう。そんなことを考え、椿はどこか自嘲的な笑みを浮かべる。
いい、それでも構わない。琥珀のためならば自分も、親も、弟や妹だって生贄に捧げてみせる。
そんな黒い決意を秘めた椿の目は、どこか亡国の皇によく似ていた。
あれから、笛の音に誘われるように近隣の街に降りた腐獣王は、破壊のみが目的であるかのように右手の凶器を振り下ろし続けた。
なにをするかと思えばくだらない。ただ破壊活動を行うために忍巨兵を使うとは、ガーナ・オーダの人材不足も相当深刻らしい。
無駄な破壊よりはマシだと、腐獣王に群がる国連軍のハエを根こそぎ叩き落としながら、釧は少し前まで立ち塞がっていた少年のことを思い出していた。
獣王と獣王の戦いは、釧と黒の獣王の勝利で幕を下ろした。
しかし、釧の中に勝利の喜びはない。あるのはやり場のない怒りと、虚しさにも似た脱力感だけ。
らしくないと思う。獣王を倒した程度で、なにを腑抜けているのだろうか。まだ目的も、復讐も終えてはいない。それなのに…。
どこかはっきりとしない自分に苛立ちながら、戦闘機が撃ち出すミサイルをカオスショットで撃ち落とし、スパイラルホーンの生み出す光の渦を空に解き放つ。
雨空が黄金に輝き、次々と落ちていく戦闘機の残骸に、釧は自身の苛立ちを隠そうともせずに火遁のフウガパニッシャーで薙払っていく。
つまらない。そもそも破壊行為そのものに楽しみを見出だせるような奇特な感性はしていない。
いい加減、腐獣王につまらない指示を与え続けるガーナ・オーダの念を振り払ってやろうと、瞼を閉じて意識を集中した瞬間、釧は己が耳を疑うような声を聞いた。
どこか獅子の咆哮にも似た少年の叫びは、遠く離れた場所からでもはっきりと聞き取ることができた。
そうだ。やつは生きていた。
「釧っ!!」
白いTシャツから見える、身体の至る所に巻かれた包帯が、彼の怪我の具合を雄弁に語っている。どこかおぼつかない、頼りない足取りで釧を目指す姿は、陽平がまだ本調子でないことを指している。
しかし、彼は確かに生きている。黄金の角によって胸を打ち抜かれながらも、彼は再び戦場へと舞い戻った。
「不死身か…キサマ」
思わずそんな言葉を口にする釧に、陽平は肩を大きく上下させながら息を切らせ、そんなわけあるかと頭を振る。
「風雅……陽平!?」
そんな驚きの声を上げる釧に、ここまで歩いただけで疲れ切った身体に鞭を打つ陽平は、頬を流れる汗を手の甲で拭う。
まともに戦えるような状態とは思えない。しかし、トドメを刺されに来たにしては、あの日を凌ぐほどに強い眼光を放っている。
油断をしていれば、いつ首を落とされてもおかしくない。そう思わされるような視線に、釧は胸の内にあった虚しさがいつの間にか消え失せたことに気がついた。
「生きていたか…」
「ああ。相棒の命を踏み台にしてな」
どこか自虐的に聞こえる陽平の言葉に、釧はなるほどとばかりに舌を打つ。
では、獣王なき勇者忍者が、怪我を押してまでこの場に現れたわけはいったいなんなのか。
守る術もなく、戦う術もない者が、進んで戦場に現れる理由など、自殺願望でもあるとしか思えない。
(だが、ヤツの目は生きている…!)
「釧…」
風が陽平の髪を揺らし、どこか鬱陶しそうに目を細める。
「お前の気持ち、やっとわかった。なにかを失うときの痛みとか、怖さとか…」
獣王が逝ったことで空いた穴は、どんな鈍器で殴られたより痛くて、どんな鋭利な刃物で切り付けられるよりも痛かった。
「お前は……こんな痛ぇ想いしてたンだな」
静かに語る陽平とは対照的に、釧は怒りの形相で睨み付ける。
「キサマになにがわかるっ!? 知った風な口を…!」
「わかるさ。だって、こんなに痛ぇンだ。こんなに辛ぇンだ」
掌に食い込む爪が皮膚を裂き、陽平は小さく拳を震わせる。
こんな想いは二度としたくない。こんな想いは誰にもさせちゃいけない。
綺麗事に聞こえるかもしれないけど、そのためには自分を殺してでも貫き通す鋼の意志が必要で、釧は今まさにそんな中にあるとわかってしまったから。
だから…
「今度は、お前の分まで俺が背負う。お前も、もうそんな想いをしちゃいけねぇンだ!」
そこに秘められた意志は、刃の如く。瞳に宿る強さは、紛れもなく獣王のものであった。
今までとは違う。今までは、獣王を通して陽平の感じたが、今は陽平を通して獣王の意志をはっきりと感じ取ることができる。
これは、獣王の死を乗り越えたのではなく、死してもまだ、獣王と共に歩み続ける者の姿に他ならない。
「世迷い言を…!」
心の動揺を押し隠すかのように怒りを表面化する釧に、陽平は迷わず一歩を踏み出した。
「獣王亡きキサマに、なにができるっ!!」
両肩のカオスショットが火を吹き、陽平の周りで何度も火柱があがる。
だが、陽平は歩みをやめない。死を恐れていないかの如く、ただゆっくりと腐獣王に歩み寄っていく。
「俺は……翡翠の忍者だから…」
獣王亡き今も、獣王式フウガクナイは変わらず陽平に影の衣を与え、少年を勇者忍者へと変える。
「だから、あいつが笑えるようにしなきゃいけねぇンだ」
だから守ると、だから救うと、だから戦うと決意した。
死が怖くないはずがない。今だって立つのがやっとなのに、逃げ出せるならすぐにだって逃げ出すのに、それでも歩みを止めないのは成すべきことがあるからだ。
そうすると決めたことがあるから。
振り下ろされる黄金の角が地面を穿ち、その勢いで陽平の身体が石ころのように転がっていく。
だが、痛みがないとでもいうのか、陽平は重たい身体をゆっくりと起こすと、再び釧へと歩み出す。
(わからん…!)
両肩のカオスショットが吹き荒れる。
(わからん!!)
スパイラルホーンが陽平を掬い上げるように、地面を穿つ。
(ヤツはなぜ立つ!?)
ふらふらと立ち上がる陽平に、確かな恐れを感じる。
(なぜ倒れないっ!?)
影衣とて万能の防御を誇るわけではない。弾ける石が皮膚を裂き、陽平が痛みに顔をしかめる。
「何故だ…。答えろ、風雅陽平っ!!」
再び立ち上がる陽平は、頬を流れる血を拭うと、当たり前だとばかりに笑みを漏らした。
「何故……だって? 俺は翡翠の忍者だぜ。あいつに…、心の底から笑えるようになってほしいからに決まってンじゃねぇかっ!!」
まだ、年端もいかない少女が声を殺して泣いたとき、陽平は初めてあの娘の心も守ってやりたいと思った。
その気持ちは今も、そしてこれからも変わることはない。
風雅陽平が、勇者忍者であり続ける限り。
「ならば、その決意を秘めたまま散るがいい…」
その意気や良し。
この男が、獣王に相応しい心の持ち主であったことを、釧は永久に忘れることはないだろう。
陽平という男を認めるからこそ、ここで確実に息の根を止める。
黄金の渦が唸りを上げる。気力で立ち塞がる陽平から目を逸らさず、釧は弓を引くように右腕を振り上げた。
「さらばだ!! 風雅陽平っ!!!」
「だめぇ!!」
陽平を目掛けて振り下ろされたはずの閃角が、悲鳴にも似た叫びにピタリと動きを止めた。
いつの間に現れたのだろうか。
歩み寄る気配も、足音すらしなかったはず。そもそも、忍巨兵の攻撃の前に立つなど、命知らずもいいところだ。
二つに分けた長い髪が、渦の生み出す風に煽られる。陽平を守るように両手を広げ、翡翠はスパイラルホーンの切っ先を前に、気丈な様子で立ち塞がる。
「翡翠…」
「ようへいは、だめ!」
呟くようにその名を呼ぶ兄に、妹は必死になって頭を振る。
「ようへいを、ころすのはだめ。わたしがやらせない」
その真意を問うまでもない。翡翠にとって、風雅陽平とは既に忍者以上の存在であることを認めねばならない。
「やめろ翡翠! 怪我じゃ済まねぇ!!」
本当ならば、すぐにでも翡翠を連れて逃げねばならないのに、いかんせん、足に力が入らない。
膝が折れてもおかしくないこの身体で、立っているだけでも奇蹟なのに、これ以上の無茶は身体が許してくれないようだ。
陽平の叫びにもまた、翡翠はぶんぶんと頭を振る。
あまりに激しい風にふらつきながら、翡翠は手を広げたまま、もう一歩を踏み出した。
どうあっても陽平を殺させない。そんな気持ちが、大きな瞳から溢れ出している。
(…こ…う都合だ。ここで翡翠の命を絶てば、生命の奥義書は永遠に失われる!)
「…構わん。退かぬというのなら、翡翠…、お前ごと打ち貫くっ!!」
「待て、釧っ!! 翡翠を、妹を殺めるなっ!! やるなら俺を…俺をやれっ!!!」
その瞬間、身を呈して翡翠を守ろうとする陽平の姿に、釧はここに在るはずのない男の影を見た。
それは在りし日の遠き故郷。
今も昔も、泣き虫だった妹たちに泣き付かれ、釧はやれやれとばかりにわざとらしい溜め息をついた。
話を聞いてみればどうということはない。王である父を我儘で困らせた挙句、叱られてしまったらしい。
仕方がない。父も母も多忙極まりない立場の人間だ。そして、その双肩にはリードの未来がかかっている。
しかし、幼い妹にそれを話したところで納得するはずもない。
フワリと柔らかな手触りの髪を撫でてやると、釧は自分が一緒に謝ってあげるから、と笑ってみせた。
いつか自分はこの星の王になる。そうなれば妹を構ってやる時間もなくなってしまうかもしれないが、だからこそ大切に守ってあげたいと切に願う。
「ありがとう。あにうえ…、だいすき」
そんな言葉と笑顔を、釧は生涯忘れたりはしない。
そして、釧や妹たちの未来を変えた運命の日。
お気に入りの丘が、こっそり抜け出して通った街並みが、紅蓮の炎に染まったあの日、釧は黒衣の獣王を駆り、ガーナ・オーダの武将を相手に熾烈な戦いを繰り広げていた。
そして見た。焼け落ちる城とは違う、別の場所から光をまとって飛び立った巨大な物体を。
あれはリードの守り。あれは、獣王なきリードの最後の砦だったはず。それが飛び立っていく光景に、釧は驚きを隠せずにいた。
誰が、誰が逃げ出した。今、あれがなくなれば、いったい何を以ってこの危機を逃れればいい。
『釧…、我が息子よ』
「父上!?」
カオスフウガを通じて聞こえる父の声に、釧はすべてを悟った。
あれを持って逃げたのは、リードに残る唯一の皇女翡翠。釧の……妹だ。
『釧、あれを守れ。あれが最後の希望。最後の奇跡だ…』
そんな父の言葉に、釧は逆上したように声を荒げる。
「なにをばかな! この期に及んで逃げ出す者など──」
『逃げ出すはずがなかろう。あれはリードの姫、そしてお前の妹だ』
それはつまり、父や母が逃がしたということなのだろう。たったひとつの最後の希望として…、獣王のいる、地球を目指して。
まだ戦えるのに…。自分はまだ戦えるのに。それでも故郷を捨て、父を、母を捨てて逃げなければならないなんて…。
『釧、その気持ちを忘れるな。そんなお前の優しい気持ちは、常にあの子達を守る──』
不意に途切れた声と共に、釧の目の前を巨大な火柱が立ち上っていく。
大きな、まるで空を貫く杭のような火柱に、釧は大粒の涙を溢れさせる。
「父上ぇーっ!!!」
刹那、釧の中でなにかが爆ぜた。
感情の爆発はそのまま忍巨兵の力となり、スパイラルホーンは黄金の竜巻を生み出していく。
「消・え・ろっ!! 我が亡霊よっ!!!!」
腰溜めに構えた右腕にすべての力が集中する。どうやら生身の相手に使うつもりらしい。あの技を、獣王クロスフウガを貫いた一閃、螺旋金剛角を。
全ての関節が悲鳴をあげている。筋肉が凍り付いたかのように伸縮をやめている。そんな軋む身体に鞭を打つと、何度も転びそうになりながらも無理矢理地面を蹴って、陽平は翡翠を庇うように真正面から抱き締める。
陽平ひとりいたところで、黄金の角は難なく翡翠を殺めるだろう。
だからといって、それは翡翠を守らない理由にはならない。どうせ濡れるからと、雨の日に傘をささない者はいない。できないからやらないというのは、ただの逃げでしかない。
できるだけ視界を隠せるように、頭を抱え込むように抱き締め、乱れる髪を一緒に両の腕で包み込む。
せめて、最期の瞬間を直視せずに済むように。できる限り翡翠の全てを守れるように。
(クロスフウガ…、お前が俺を包み込んでくれたように、俺も翡翠を守ってみせる)
最期の瞬間まで…。
「ようへい」
腕の中の翡翠は、目の前に迫る結末が恐ろしくないのか、不思議なほどにいつもの声だ。
きっと信じているのだろう。陽平が自分を守ると、陽平ならなんとかしてしまうだろうと。
「翡翠…!」
応える代わりに、翡翠を抱く両手に力を込める。
そうしてもらえるのが嬉しいのか、陽平の胸に頬を擦り寄せる翡翠は、そっと伸ばした小さな手で、陽平の身体を抱き締めた。
「ようへいは、もうたたかわないの?」
投げかけられた無垢な質問は、陽平の心臓を大きく跳ね上げた。
戦わないのではなく、戦えない。でも、それはすべて自分のせいだから。
だから、ごめん。戦ってやれなくて。守ってやれなくて。
「俺に力がないから…!」
どこか悲鳴に近い陽平の言葉に、翡翠は抱き締められたまま、小さく頭を振った。
「力なら、ある」
そんな当たり前のような言葉に、陽平は腕の中の翡翠に、驚きの視線を投げかける。
そこにあった笑顔は、どこか自信たっぷりで、それでいて太陽のように優しかった。
いつか、琥珀に誰かが似ているなどと考えたことがあったが、今ならわかる。あれは翡翠のことだった。
「ようへいがよぶの、ずっとまってる」
「呼ぶ? いったい…」
誰を呼べと言うんだ。そう続けようとした陽平に、翡翠は掌を差し出した。
いや、正確には、その小さな掌に乗せられた勾玉を、だ。
透き通った綺麗な蒼だ。まるで晴れた空のように澄んだ色をした勾玉は、翡翠の手から陽平の手へと渡される。
その瞬間、勾玉に浮かび上がるなにかの影に、陽平は、あっ、と驚きの声をあげた。
どうやら今のが翡翠の言う、陽平の呼び掛けを待つ者らしい。
獣王とは違う、でも雄々しく猛々しい気配を感じることができる。
そして聞こえる。これが、王を継ぐ者の産声なのだと。
「ようへい」
これでいい? そんな声が聞こえてきそうな瞳に、陽平はありがとうともう一度抱き締めると、手にした勾玉を獣王のものと付け替える。
専用に誂えたかのようにカチリと填まった勾玉に、陽平は心静かに意識を集中させていく。
「風雅流…、召忍獣之術っ!」
陽平の言霊によってクナイが勾玉の力を解放することで、未来を守る蒼天の忍巨兵が、ようやくその産声をあげた。
──同時刻──
風雅の里最奥部にある工場施設でも、大きな異変が起きていた。
蒼天の卵の中で、胎児のように眠っていた翡翠姫が、突如としてその姿を消したのだ。
神隠しとでもいうのか、忽然と姿を消した翡翠を探して人が慌ただしく動き回る中、日向はひとり、努めて冷静にすべての状況を再確認する。
消えた翡翠は、恐らく風雅の里にはいない。少し前に風雅陽平も消えたという報を聞いていたために、なんらかの方法で陽平に合流したのでは、というのが日向の推論だ。
琥珀や雅夫、それに椿までもが動いている以上、日向には翡翠を心配する理由はない。
それならば、自身に与えられた使命を果たすことに全力を注ぐまでだ。
だが、次の異変は思いのほか早く訪れた。
施設内に鳴り響く警報と共に、周囲から驚きと戸惑いの声があがる。
「葵さん、蒼天が…!!」
そんな声に、日向は卵を振り返る。
何事もないではないか。少しでもそんなことを思った自分が恨めしかった。
目の前に映し出された蒼天の映像は、確かに卵の姿を認識している。しかし、その内側を映しているはずの画面は、中の忍巨兵を捉えてはいなかった。
いや、正確には、少しずつ消失していく忍巨兵に、機械が姿を捉えられなくなっているのだ。
「いったい何事だっ!?」
慌てて駆け寄った男の技師は、光り輝く卵に目を細め、そのあまりに強い光に掌で視界を覆い隠す。
「誰かが蒼天を召喚しようとしているんだ!」
「まずいぞ。まだ蒼天はまともに戦えるような状態じゃぁない!」
次々に駆け寄る技師や巫女を前にしながらも、蒼天は自分を喚ぶ主の下へと転移を続ける。
「誰か、急いで結界をっ!」
「だめです。間に合いません!!」
そんなやりとりをしている間にも、画面は蒼天の消失を報せてくる。
なんとか結界を張ろうと数名の巫女が駆け寄った瞬間、突然、天を裂くような咆哮をあげ、狭い卵の中で身体をうねらせる忍巨兵に、一同は思わず動きを止めて卵を凝視してしまう。
獣王のものとは明らかに異なる咆哮だが、それは決して獣王に劣っているわけではない。
警告アラームの音が餌をねだる鳥の雛のように騒がしく鳴り響き、琥珀の到着を待たずして、蒼天の忍巨兵の姿は完全にその場から消え去っていった。
眩しすぎた光が収まり、少しずつヒビの走る卵を前に一同が唖然としている中、ようやく施設内に現れた琥珀は、消え去った蒼天に驚きと嬉しさが同居したような、なんとも複雑そうな表情を浮かべる。
おそらく、あれを喚んだのは彼だ。そして、忍巨兵を必要とする事態に彼が直面したということは、きっと…。
「陽平さんのところに行ったみたいね」
遅れて現れた親友に首肯した琥珀は、ぱらぱらと砕け落ちていく卵の光景に、大きく立ち塞がる人生の壁を重ねてみた。
きっと蒼天は、待っていたに違いない。陽平が壁を乗り越え、新たな一歩を踏み出すことを。そして、彼が壁を超えたとき、蒼天は卵という壁を砕いて陽平と向き合った。
こうしてみると、蒼天とは、どこか獣王に似た気質があるらしいと気付かされる。
まるで、本当に獣王の意思が宿っているかのような新たな忍巨兵に、琥珀はそっと胸の前で手を組むと、どこか遠くを見るような仕草で祈りを捧げる。
「獣王…、どうか見守っていてください。貴方を継ぐ新たな王、竜王と、貴方の認めた勇者さまの戦いを…」
再び喧騒に包まれる施設を後にすると、琥珀はそのまま外へと歩みを進めていく。
凛とした表情を造り、長い黒髪を揺らして歩きながら、琥珀はスッ、と片手をあげる。
「お呼びで?」
どこに潜んでいたのか、唐突に現れた雅夫に小さく頷くと、琥珀は無言のまま里の出口へと進んでいく。
見届けなければならない。新たな忍巨兵の戦いを。いや、新たな勇者忍者の戦いを。
雅夫を供につけ、琥珀が目指すは、蒼天の竜王が舞う戦場。