幼馴染みの矢からなんとか逃れることに成功した陽平は、鈍った身体をほぐすように、何度かに分けて肩をぐるりと回した。
 やはり肩に痛みはない。胸の傷も、琥珀の治療によって順調に回復しているようだ。
(目下の悩みはコイツだけか…)
 無造作に包帯を巻き付けた右拳を握り締め、途端に走る痛みに顔をしかめる。
 竜王の持つ破壊力は、今までふるっていた獣王の力とは明らかに異なる。それは戦い方もさながら、獣王では一度もなかった、装甲が足りない故の自身へのダメージというまったくもって不可解なものまでもが付属していたことにもある。
 よもや仕様ではあるまいとも思ったが、そもそもそんな使い勝手の悪い武器を装備しているとは到底考えられない。つまりは事故のようなもの。そう考えた陽平は、先ほどの件を謝るついでに相談してみようと、忍巨兵の技師──葵 日向の姿を探していた。
 風雅の里自体がかなりの広さを持つため、ひょっとしたら自宅などがあるのかとも考えたのだが、よくよく思い出してみれば、彼女を工場以外で見た覚えがない。
 そもそも、日向とまともに会話したのだって、釧との戦いが終わった後だったのだ。今更ながら、日向といい琥珀といい、この里については知らないことだらけなのだと改めて実感した。
 そんなことを考えながら、陽平が工場へと足を向けたときのことだった。ふとした瞬間に聞こえてきた音に、陽平は思わずその場で歩みを止める。
 誰かが奏でているのだろうか。風に乗って聞こえた笛の音に、陽平はぐるりと周囲を伺った。
(生演奏じゃない。スピーカー…録音したものか)
 僅かな音の差異に首を傾げながら、陽平は音の聞こえた方へ誘われるように歩みを進めていく。
 いくつか蔵のような建物を通り過ぎ、その先にある小さな池…と言っても一般家庭の湯船よりも広いのだが、その池の水面を舞台に、真っ白な扇子を手に舞う少女の姿があった。

 陽平の周りにはあまり見掛けない短めの髪。そして陽平よりもいくつか若く見えるあの容姿、いつもの作業着ではなく巫女服に身を包んではいるが、あれは間違いなく陽平の尋ね人──日向だ。
(すげぇ…。ただ水面に立つだけでも大変だってのに、あんな風に、あんな優雅に舞えるなんて…)
 日向の舞う一挙一動が、陽平の目を奪う。神に捧げる舞い──巫女舞いとは、これほどに美しく、また幻想的なのかと思わされる。陽平にボキャブラリーがあれば、もっと気の利いた言葉でも出てくるのかもしれないが、そんなことを差し引いても、日向の舞いは美しかった。
(池の縁にあるラジカセだけがアンバランスだけどな)
 どうやら笛の音は録音らしく、ラジカセから聞こえる音は、日向の舞いには少々不釣り合いに思えて仕方がない。
 驚かせないよう、できる限り気配を殺して歩み寄ろうと、陽平が右足を出した瞬間、まるでビデオの一時停止のボタンでも押してしまったかのように、日向の動きがピタリと制止した。
「…陽平さん」
 突然名を呼ばれ、陽平はビクリと肩を震わせる。正直、気付かれるなどとは思ってもみなかった。
 バレているのなら、いつまでもこんなところで隠れている必要はない。少々気まずそうに頭を掻くと、陽平は観念したようにすんなりと日向の前に姿を見せた。
「覗き見するつもりじゃなかったンだ」
 そう弁解する陽平に、日向はイタズラっぽく笑うと、人差し指を顎に当てて水面を進み、陽平の側にまで歩み寄った。
「お風呂も、覗くつもりじゃなかったんですか?」
 表情から察するに、見てしまったことを根に持っているわけではなく、単純に陽平をからかっているらしい。
 どうしてこういった気性を持った人間が自分の周りに多いのだろうか。日向といい、琥珀といい、椿といい…。そういえば陽平が幼い頃から馴染みのある喫茶店の娘──佐藤彩香や、陽平の母──香苗も、陽平をからかうことに楽しみを見出だしている節がある。
(俺、年上限定で女難の相でも出てるンじゃねぇだろぉな…)
 思わず浮かべた苦笑に、日向はからかって悪かったとばかりに優しく微笑んだ。
「舞いの…稽古ってワケじゃなさそうだったけど?」
 むしろ、これ以上に稽古が必要なのだろうかと疑うほどに、日向の舞いは美しかった。
 鳴りっ放しのラジカセを止めて、両手で抱える日向を視線で追いかけながら、陽平はどこか耳に残る笛の音を思い出していた。
「稽古というか、んと…、日課みたいなもの……ですね」
「毎日やってンのかよ。そりゃ、上達もするよな」
 どうしても年上には見えない少女に感嘆の声を漏らしながら、陽平は日向の手にしたラジカセに視線を落とした。
 いろいろと科学が進んだ結果、既に再生する媒体が一般家庭から消えてしまい、今では持っていることの方が不思議になってしまった音楽再生デバイス──テープレコーダーのようだ。かなり使い込んでいるらしく、随分と日焼けや汚れ、細かな傷が目に入る。
 そんな陽平の視線に気付き、日向はどこか気恥ずかしそうにはにかむと、手にしたテープレコーダーを軽く持ち上げてみせる。
「これ、ごみ捨て場から拾ってきたんです。それを直して使えるようにして…」
 いわゆる再利用だと笑う日向に、陽平は改めて感心する。なるほど。技師にはそういった特典的な要素もあるわけか。
 ふと、技師という単語に、陽平は自分が日向を探していた理由をようやく思い出した。
「あのさ、竜王のことで相談があるンだけど…」
「竜王ですか?」
「こいつを見てほしいンだ」
 疑問符を浮かべる日向に、陽平は傷ついたままの右拳を差し出す。
「これ、ヴァルフウガで火遁煌使ったらこうなっちまったンだ。デカい攻撃力にヴァルフウガの強度が追いついてねぇみたいなんだけど…」
 竜王は格闘を主体に戦うことを想定されていたために、装甲強度は通常の忍巨兵を遥かに凌ぐよう作られている。故に、少しくらいの爆発ではビクともしないはずなのだが、それはあくまで設計通りに完成していた場合の話だ。
 蒼天の竜王ヴァルガーは、生まれないはずだった。獣王が破れたために起こす時期を急いだためか、未熟なまま目覚めた竜王は、奇跡ともいうべき力によって、なんとか誕生することができた。
 苦肉の策で自らの形状を削り、装甲や機能といった足りない部分を補ったものの、当初の予定値に達することはできなかったらしく、現に竜王は自身の技で自らを傷つけてしまっている。
 ことのあらましを聞いた陽平は、ふと脳裏を過ぎっていく生命の奥義書≠ニいう単語に表情を強張らせる。
 翡翠自身は知らないと言っていたが、知らずの内に持たされた可能性がないわけではない。何故なら彼女はリードの姫であり、そしてなにより唯一と言ってもいいだろう生存者なのだ。なんらかの方法で秘密裏に持たされていても不思議はない。
 そして生命の奥義書は、無から命を生み出すと聞いている以上、今回の件も奥義書の副作用だと思えば納得がいく。それに…
(あれだけの大怪我をしたにも関わらず、俺が生きてたのはなんでだ…)
 琥珀の治癒がすごいというのはわかっている。しかし、瀕死の人間を一晩で癒すほどに強力とはどうしても考え難い。
 では、どうして陽平が助かったのか。
(それは、あの場に翡翠がいたからだ…)
 どうやら陽平の考えと同様の結論を導き出していたらしく、目が合った日向は無言のまま陽平に頷いた。
「おそらく翡翠さま自身はご存じないのでしょう。でも、間違いなく彼女は生命の奥義書を持っています」
 そう断言した日向に目を見張った陽平は、背中に流れる冷たい感触にゾッとする。
「竜王の強度については私なりに考えてみます。とにかく陽平さんは、遁煌を使うときの威力調整を心掛けてください」
 日向の言葉に頷き、陽平はなんともしがたい気持ちで拳を握り締める。
 相手を倒すときに手心を加えるなど、今まで考えたこともなかったため、威力調整というのは陽平にとって、非常に厄介な技術を要求されることになる。
「大丈夫。陽平さんたちが頑張って乗り切ってくれたおかげで、新たな王も直に目覚めます」
「新たな……王だって!?」
 王とは、この場合忍巨兵を意味している。つまり、竜王に次いでまた新たな忍巨兵が生み出されようとしているというのだ。
「新たな王が誕生すれば、竜王は新たな力を手にします。そうすれば遁煌を直接相手に打ち込む必要はなくなります」
 笑顔でとんでもない発言を残す日向に圧倒され、陽平はぐうの音も出ないと盛大な溜め息をついてみせた。
「でも、それってどういう──」
「光海さん…?」
 まるで陽平の問いを遮るように呟いた日向に、陽平は彼女の視線を追いかけるように振り返る。
 なにやら虚ろな瞳のまま、ふらふらと森の方へと歩いてく人影がある。見慣れた陽平には、それが光海であることはすぐにわかった。
「あいつ…、どこ行く気だよ」
 誰にでもなく問い掛ける陽平は、仕方がないと溜め息混じりに頭を掻く。
「悪ぃ。俺、光海のこと追いかけるから…」
「いえ。なんだか元気がなかったみたいですから…。優しくしてあげてください」
 そんな日向の言葉に苦笑いで応えると、陽平は軽く手を上げて日向に別れを告げるのだった。






 それにしても、一度にたくさんのことが起きると、対処していくのも一苦労だ。
 それこそ一つずつ解決していくしかないのだが、それでも面倒と感じてしまうのは、別に陽平が特別面倒臭がりだから、というわけではないはずだ。
「ったく光海のやつ。怒ったり落ち込んだりと、忙しいやつだな…」
 少なくともその一端どころではない理由を担っているはずの人間が言うセリフではないはずなのだが、自覚がない者にはなにを言っても無駄だろう。
 近道とばかりに木の枝に飛び乗ると、陽平は完全に人間離れした動きで枝から枝へと飛び移っていく。
 先行していたとはいえ、ゆっくりと歩いていた光海に追いつくなど今の陽平にとっては造作もないこと。
 足下に見慣れた黒髪が見えた瞬間、陽平は迷うことなく光海の目の前に飛び降りた。
「光海!」
 突然降ってきた人影に驚きはしたものの、すぐにいつもの表情を作る。
「ヨーヘー…、どうしたの?」
「どうしたのじゃねぇだろ。光海こそ何処行く気だよ」
 いつもとは違う真剣な表情を見せる陽平に、光海は困ったように口を閉ざして視線を逸らす。
 らしくない。今の光海に感じるのは、そんな違和感だけだ。さっきまではそんな素振りさえ見せなかったくせに、本当に忙しないやつだと溜め息をつく。
「なんだよ。気になることがあるならハッキリ言えよ」
 問い詰めるような陽平に、光海は視線と同様に歩みも逸らしていく。
 どうやら言い難い類いの悩みらしい。普段、なにかある度に突っ掛かってくるだけに、こうして光海が黙り込むのは陽平に聞かれたくない悩みがあるときに限られる。
(そのくせ聞いてみりゃ、くだらねぇことばっかなンだよな…)
 その理由というのが、陽平との約束を守れない事情ができたとか、陽平が誕生日を忘れただとか、陽平が光海との約束をすっぽかしただとか、そんなことばかり。
 大抵光海が話し出すまで待つことになるのだが、どうやら今回もそのパターンらしい。
 森の中をアテもなく歩き続ける光海を追って、陽平もまた光海の歩幅に合わせて歩き続ける。時折、後ろの陽平が気になるのか、歩みを止めてちらりと振り返るのだが、いつまで経っても光海が話し始める気配はなかった。
 いい加減焦れてきた陽平は、仕方なしと歩みを早めると、光海の腕を掴まえて強引に振り返らせる。
「おい、光海。いったいどうしたってンだよ!」
 明らかに苛立ちを見せる陽平に、光海は本心を見せるかのようにポツリと呟いた。
「だって…、ヨーヘーは悪くないから。私が悪くて、それなのになにもできない自分が嫌で、ちょっと自己嫌悪してただけ」
「だけって…、なんだよそりゃ? もうちょっとわかるように言えよ」
「分からなくていい。ヨーヘーはわかっちゃダメなの!」
「なにワケわかンねぇこと言ってンだよ!? お前どうかしてるぞ?」
 どこか取り乱した様子の光海に、陽平はやれやれと溜め息をつく。
 普段、なんでも遠慮なく話してくる光海だけに、こうなった場合は完全にお手上げだ。
「私が…」
 ようやく話す気になったかと、陽平は光海に目を向ける。どこか判決を待つ囚人のような顔つきで口を開く光海に、内心で溜め息をつくのを忘れない。
「私があんなことになったから…、クロスフウガが…。それにヨーヘーもあんなに怪我して…」
 ようするに罪の意識に潰されている、ということらしい。なるほど。実に光海らしい。
「でも…!」
(まだあるのかよ…)
「でも…、そんな罪悪感を感じてるくせに、内心じゃ、ヨーヘーと誕生日ができなかったことばっかり考えてる自分が、どうしようもないくらいイヤなのっ!!」
 悲鳴にも似た光海の告白に、さしもの陽平も驚かないわけにはいかなかった。
 目を丸くして言葉を失う陽平に、光海は「ごめんね」と、どこか自嘲的な笑みを浮かべる。
 光海が罪の意識を感じている。それで落ち込んでいるというのなら、まだ納得がいくのだが、それ以上に自分の誕生日のことを悔やんでいる自責の念に潰されそうになっていたというのは、正直予想外であった。
 光海の誕生日である七月二十日。あの日、確かに光海は楽しそうだった。陽平と出かけるのを楽しみにしていたのだ。ガーナ・オーダの双武将がこなければ、きっと振り回され、くたくたになりながらも、陽平にとっても楽しい一日になっていたはずだった。そう思うと、陽平の中にもガーナ・オーダへの私怨がふつふつと沸き起こってくる。
 なるほど。こういう感じなのか。これは確かに、楽しみにしていた分だけ怨みが募りそうだ。
「仕方ねぇよ。誰だって辛いこととか嬉しいことの物差しがあるンだし、悔しいもンは悔しいからな」
 これで慰めているつもりだというのだから驚きだが、それ以上に、小さく舌打ちした陽平が突然光海を抱き上げると、やはり人間離れした跳躍で木の枝まで飛び移ったことに、光海も驚きを隠せずにいた。
「ちょっと、ヨーヘー…!?」
「口開けるな。舌噛ンじまうぞ!」
 再び跳び上がった勢いで、思わず目を閉じて陽平の胸に顔をうずめる光海は、恥ずかしさと嬉しさから、頬どころか指先まで真っ赤にして抱き付いた。いったい何度跳び上がっただろうか。落ち着ける足場を確保したらしく、いつの間にか陽平の動きが止まっていた。
「光海、もういいぜ」
 陽平に言われるがまま、ゆっくりと瞼を開ける光海の目にいっぱいの光が飛び込んでくる。
 思わず反射的に目を閉じるものの、何度かに分けてまばたきをしているうちに、光海は目の前に広がる光景にようやく気がついた。
「ぁ…」
 陽光に照らされて輝く木々が、宝石の絨毯のように一面に広がっている。
 つい先日の雨粒が降り注ぐ陽光に反射しているだけなのだが、人の手が入らない、自然の恵みだけが生み出した天然の芸術であった。
「きれい…」
 思わずそんな言葉を漏らす光海は、頭をポン、と叩かれ、弾かれたように陽平を振り返る。
「まぁ、なんだ。俺も悪かったと思ってる。悪かったな、誕生日台無しにしちまって…」
 照れ隠しから顔を背けて告げる陽平に、言われてた当の光海は心底驚いていた。
「ヨーヘー…」
「とにかく元気出せよ。プレゼントは帰ったらなんとかするからよ。今は…な」
 暗い雰囲気は伝染する。とくに、今の風雅は危ういバランスで立っているようなもの。一人でも絶望を、不幸を口にしてしまえば、それは一斉に伝わっていく。
「心配……してくれたの?」
「しねぇわけねぇだろ。ったく…」
 これまた照れ隠しなのか、光海の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱すと、驚いた拍子に光海の小指に自らの小指を絡ませる。
「それとだ。もう光海にあんな真似させねぇから…、あんな辛い想いさせねぇ。俺がさせねぇから…」
 ぶっきらぼうに言い放つのも気恥ずかしいと顔を逸らした瞬間、視界の隅に雫が見えた。
 それが光海の瞳から溢れ出たものだと気付き、陽平は思わず疑問符を浮かべた。
「…ヨー…ヘ」
 堰を切ったように、涙が溢れ出していく。
 新しい約束は、とても些細な、しかし、守るのはとても難しい約束だった。
「本当に忙しいヤツだな。落ち込んだり、怒ったり、泣いたり…」
 幼い頃の、あの日を再現するかように、泣いたままの光海の頭を撫でてやる。
「でも…、ずっと見てるから。俺、光海のこと見てるから。だから一人になって泣く必要なんてねぇよ。な?」
 できるだけいつも通りに言ったつもりだが、そうできたと思っているのはおそらく陽平だけだろう。
 いつもよりも優しい言葉は、光海が超え難かった壁を容易く突き崩し、少し大人びるようになった表情は、走り出した気持ちを抑えることなく、陽平の胸に飛び込んでいく。
「ヨーヘー…っ!!」
「ちょ、ちょっとまて! 落ちる落ちる!! 落ちちまう──って、うわっ!?」
 バランスを崩しながらも咄嗟に態勢を立て直し、しっかりと枝を伝って地面に着地する辺りはさすがと言えよう。
「あぶねぇ…。光海、お前なぁ…!」
 これはさすがに一言文句でも言っておこうと、腕の中を見下ろした瞬間、今にも触れてしまいそうな距離の顔に、思わず生唾を飲む。
 涙で潤んだ瞳に見つめられるだけで、まるで金縛りにでもあったかのように視線を逸らせなくなる。濡れた唇を見てしまうと、もう完全に動けなかった。
 ゆっくりと近付いてくる光海の瞳に吸い込まれていくように、陽平もまた、ゆっくりと近付いていく。
「ヨーヘー…」
 近付き合う二人の鼻先が触れた瞬間、光海の瞳がなにも映していないという事実が、陽平を一気に現実へと引き戻していくのと同時に頭の中で警報を鳴らす。
「み──」
 唇になにかが触れた気がした瞬間、額を割るような激しい痛みに、陽平の身体が大きくのけ反った。
「が…──っ!!」
 意識に雲がかかったように、思考がはっきりしない。ただわかるのは、額にある激しい痛みだけ。
 糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちる光海は、いつの間に怪我をしたのか、額から流れる赤い雫を滴らせ気を失っている。
 そんな光海を視界の隅に捉えた瞬間、陽平の中でなにかが爆ぜた。
「うぅぅあ゛ああああああああああっ!! 召っ、忍っ、獣っ!!!」
 立ち上ぼる蒼い光と共に、風を裂き、木々を薙ぎ倒し、蒼天の竜王がその姿を現した。






──降魔宮殿──

 風雅の里付近の森に竜王が現れた頃、その光景を映し出した鏡を手にした森 蘭丸は、信長の魂が宿る鎧を前に深々と頭を垂れていた。
「先の計いが失敗いたしましたこと、まことに申し訳ございませんでした」
 鎧の隙間から覗く青白い炎がユラユラと揺れ、蘭丸の言葉を待つ。たとえ失敗したとしても、このままで終わるような家臣であるはずがない。それは肉体を失った今も、彼の主──織田信長が一番良く知ることであった。
 そして、その通りであるといわんばかりに蘭丸の口元が緩む。
「ですが信長様。ひとつ仕掛けを施して参りました」
 仕掛け? そんな疑問の言葉が聞こえているかのように蘭丸は深く頷く。
 以前捕えた森王の巫女。その力を十二分に利用するため、蘭丸は豆粒ほどもない寄生虫型の忍邪兵を巫女の額に埋め込んでおいたのだ。
 純粋に巫女である場合、忍邪兵にとっては危険な因子でしかない。故に忍邪兵を寄生させることで巫女の意識に膜を貼り、余計な力を使わせないようにしたのだ。
 もっとも、そんな忍邪兵の力さえも飛び越えて、光海の祈りは陽平に力を与えていたようだが、それは蘭丸のあずかり知らぬところ。
 そして今、その忍邪兵は森王の巫女を離れ一人の忍者の中に在る。
 獣王の忍び……いや、竜王の忍びを内側から支配することで、風雅の最大戦力を無傷で手に入れることに成功したのだ。
「今や竜王は我らの傀儡。その凄まじい牙も、爪も、すべては風雅を引き裂くためにあります」
 蘭丸の言葉に、青白い炎がその勢いを増したように揺れ動く。
 それを良しと捉えたか、深々と頭を垂れた蘭丸は再び姿勢を正して一礼すると、いつもの無感情な瞳で鏡の中の竜を覗き込む。
「信長様。これより起こります余興、たっぷりと御覧ください」
 信長に見えるよう、手にしていた鏡を掲げた蘭丸は、内心その外見の美しさからは想像もつかないほどにどす黒い怒りを燃やしていた。
(よくも恥をかかせてくれたね。たっぷりと苦しむといいよ…)
「キミ自身が仲間を殺すという大罪を犯してね…」
 蘭丸の言霊につき動かされるかのように、鏡の向こうの竜王は、その双頭から特大の火球を撃ち出した。






 少し時間は遡り、あの後、陽平と別れた日向はすぐに竜王の待つ工場へと足を運ぶと、陽平に言われた竜王の装甲強度における問題解決に取り掛かっていた。
 陽平の言うとおりならば、竜王は大きなリスクを背負ったまま戦うことになる。それは陽平にとって、また竜王にとっても命取りになる。
 すぐに竜王の装甲強度を計測して、本来完成したときに得られるはずだった装甲強度と比較してみたが、その数字の差に日向は一瞬立ちくらみを覚えた。
「そんな…、まさかとは思ったけど、本来の7割程度しかなかったなんて…!」
 この状態にすぐ気づけなかったのは技師長である自分の責任だ。すぐに対策を立てなければ、陽平は戦うたびに自らを傷つけていくことになる。
 ちなみに獣王たち他の忍巨兵の装甲強度は、竜王が得るはずだった予想装甲値の半分程である。
 従来の忍巨兵を遙かに上回る竜王の装甲を作り上げるには想像以上に時間がかかるらしい。生命の奥義書の力とはいえ、省略できるようなものではなかったようだ。かと言って、今更装甲強化に時間をかけている暇はない。竜王は獣王に代わる戦力の要。戦線を離れるわけにはいかない。
「装甲を被せるのは重量を重くしてしまうし、かと言って結界の類は巫力の消費が激しすぎるから遁煌を十二分に使えなくなる。でも…」
 そうだ。獣王にも竜王にも、強力な結界が装備されているはずなのだが、どういうわけかその力は一度として発動することはなかった。出力が不足しているわけでもなく、装置そのものが故障しているわけでもない。では、いったいどうして結界が発動しないのか。
(風雅の技師たちの間では、発動条件を満たしていないことが原因だって言ってたけど…)
 未だにその条件がなんなのか、誰一人として見つけることができないでいる。あれがあれば今の問題をクリアできるのだが、やはりないもの強請りをしても仕方がない。
「とにかく今は、遁煌が埋め込んである腕や脚を念入りにコーティングだけして、急いで琥珀さまに相談を…」
 だが、日向が踵を返して工場を後にしようとしたそのとき、突然あふれ出した巫力は竜王を包み込むと、その姿を瞬く間に粒子化して転送し始める。
「陽平さんが竜王を!? まさか、ガーナ・オーダ?」
「いや、付近にガーナ・オーダはいない」
「輝王。それはどういうこと?」
 日向に問われ、輝王は伏せていた身体をゆっくりと持ち上げる。
「不穏な空気だ。おそらく森王もこれ以上じっとしていられまい。ワタシも出陣する、巫女の代役を頼めるか」
 代役という言葉を一瞬疑問に思うが、釧に関しての顛末を聞いた孔雀のことを思い出すとそうも言っていられない。
 本当に慕っていた。心の底から釧に仕えていたのだ。彼が死んだかもしれないということ。そしてカオスフウガの亡骸を見せられて崩れ落ちた孔雀に、戦えというのは酷だ。
「……わかりました。ですが、私は巫女の権限を剥奪された者。期待はしないでくださいね」
「承知した」
 どこか悪戯っぽく微笑む日向に頭を寄せ、輝王はその輝く角を一時的に預ける契約を果たすと、まさしく光のごとき速度で工場を駆け出していく。
 竜王の気配は、風雅の里からそれほど離れているわけではない。何事もなければいいが。そんな不安を抱えながら、日向は見慣れぬバトン状の忍器を薙刀へと変えた。












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