それから一ヶ月。勇者忍軍にとって、嵐のような日々は目まぐるしく過ぎていった。
 学生らしさを忘れぬよう、夏休みの宿題という難関に立ち向かいながらも、ほぼ一ヶ月を修業に費やした日々。過密スケジュールかつ内容の濃い修業に、最初こそは食事も喉を通さないほどに疲れ果てていたが、終盤になれば光海でさえ平気な顔で修業をこなせるようにまでなっていた。
 柊は足技と同じくらいに拳を鍛えあげ、持ち前の俊敏さをさらに引き上げた。
 楓は椿を相手に、ずっと模擬戦じみたことをしていたようだ。結果、咄嗟の判断力に加え、持ち味だった幅広い戦闘の底上げに成功した。
 孔雀と光海は琥珀を師事し、多彩な術を身に着けた。
 そして、陽平は…。
風雅流天之型…
 間合いに飛び込んでくる陽平に対し、雅夫は手にした刃を格子状に素早く走らせる。それは針のような細い煌めきを残し、陽平の侵攻を阻む光の網となる。
「にゃろ、こっちだって!!」
 雅夫の放つ格子状の煌めきに重なるよう、陽平の刃もまた針のように細い煌めきを描く。
「「輝針【きしん】っ!!」」
 二つの輝針が互いに打ち消し合い、二人を阻む刃の壁が消え失せる。
「へっ、どんなモン──」
風雅流天之型、千雨【ちさめ】」
 技を相殺したことに軽口を叩く余裕もなく、視界を埋め尽くす切っ先の筵に全身を突かれて失速する。
 痺れるような痛みを堪え、尚も追撃してくる雅夫の猛襲を避け続ける。息を吐く暇もないほどの連続攻撃。それこそが風雅流天之型の神髄。
 なんとか攻撃の外へ逃れさえすれば反撃の可能性もある。だが、雅夫の繰り出す斬撃をかわすことこそやっとな陽平に、雅夫の間合いから抜け出せる余裕などあるはずもない。
 一手逃れれば次の手が、それを迎え撃てばさらに次の手に打ち落とされる。
 足下に突き刺さるクナイに足を取られ、無様に転がりながらも陽平は考えることをやめない。相手が強いのならば尚のこと、恐怖に思考を止めれば間違いなく瞬殺される。
 度重なる攻撃を避けながら手裏剣を投げ、態勢を崩したと見せかけて組んだ印を隠す。
「風雅流…」
 一足で間合いを詰める陽平に、雅夫はカウンターで合わせるように刃を突き出した。
風牙【ふうが】ぁッ!!」
穿牙【せんが】ッ…!」
 風を纏うことで鋭さを増した高速の突き──風牙に対して、雅夫は回転のかかった高速突きで応酬する。だがいかんせん、同じ性質の突き故に、回転を持った穿牙が勝るのは当然のこと。
 競り負けた陽平が肩を裂かれ、地に倒れ伏したのを一瞥しながら、雅夫は刃についた血を振り払う。
「ここまで」
 刃を納める父に唇を噛みながら、陽平は握り締めた拳を地面に打ち付ける。
「負けん気があるのは構わんが、今日はもう休め。いいな」
「……わかった。ってか、そんなことよりも!!」
 まだ元気は有り余っているとばかりに飛び起きる陽平に、雅夫は惚けたように顎の髭を擦ってみせる。
「さっきの穿牙≠チて何なんだよっ! 確か昨日は角牙【こうが】とか使ったよな…!」
「さて…な」
「惚けンなっ! まるで忍巨兵の名前分だけ技があるみてぇなことしやがって…」
「みたい……ではなく、あるのだ。正確には角牙、穿牙、崩牙、狼牙、空牙、網牙、透牙、鎧牙、零牙、影牙、雷牙……と、十一通りの風牙が存在する。お前が使える風牙など、その基本に過ぎん」
 指折り数える雅夫に、陽平はぐうの音も出ないと溜め息をつく。
「お前の言うように、この十一の風牙の特徴を持つのが星王以降の忍巨兵だ。故に、風雅に連なる忍巨兵として名を与えられたと聞く」
 肩の傷を止血しながら雅夫の説明に相槌を打つと、陽平は頬についた土を手の甲で拭う。
 初耳とはいえ、これはいいことを聞いた。とりあえず当面の目標は、残る九つの風牙を雅夫から引き出すこと。一度でも見ることができれば、鬼眼でコピーして反復練習も応用も可能になる。
 立ち上がりながら先日見た角牙と、今見たばかりの穿牙を思い返す。
 基本の風牙は、練り上げた術を拳や武器に通わせて、攻撃力を飛躍的に向上させる技法だ。角牙や穿牙はいわばその風牙の発展型。
 角牙は武器に通わせた術を、対象との接触に合わせて打ち出し、拡散させる風牙。一点から複数に散らして放つというのは、確かに森王の弓に通じるものがある。
 穿牙は術を通わせるのではなく、武器や拳を術で包み込み、いわゆる気の流れを作ることで切れ味や貫通力を増す風牙だ。これはやはり、輝王の角に由来するものなのだろう。
(基本の風牙を含め、全部で十二の型を持つ秘術。これが風雅流の基本であり、奥義でもあるってなら俺は必ずマスターしてやる…!)
 先に先にと思考が働いているためか、少し肩に力が入り過ぎているように思える陽平の姿に、雅夫は少し困ったように顎髭を撫で擦る。
 強くなろうとするのは決して悪いことではないが、これでは以前の二の前。また、一人放置された翡翠が悲しむのは目に見えている。というか、既に悲しい顔をしていたのだが、そんなことを口にしてはせっかく火が着いた陽平の気持ちに水をさすことになりかねない。
「ふむ…」
 こんなことだからいつまで経っても光海の気持ちにも気付かないし、ガキっぽさも抜け切らないのだ。
 そういえば、一ヶ月ほど前、里での修業が決まった日に、光海が約束がどうのこうのと言っていたが…。
 悩みふける息子の姿に、雅夫はふと妙案が浮かんだとばかりに怪しげなダンディースマイルを浮かべると、陽平をその場に残して早々にこの場を離れるのだった。






 その夜、雅夫によって集められた勇者忍軍の面々は、あまりに突拍子もない提案に己が耳を疑わずにはいられなかった。
 そんな中、やはり先陣を切るように意見したのはやはり陽平だった。
「おい、クソ親父…」
「なんだ、バカ息子」
 たった一言。それだけを交わしたに過ぎないというにも関わらず、親子の間に凄まじい稲妻が走る。
「修業も大詰めで、この一番肝心な時期になんつった…?」
 陽平の問いに腕を組み直し、雅夫は一息つくと改めて同じことを繰り返した。
「明日の修業は中止。みんなで海水浴にいくぞ≠ニ言ったが……なにかおかしなところでもあったか?」
 こうしてハッキリと口にしている以上、嘘でも冗談でもないらしい。それにしても、唐突に海水浴とは…。
「心配するな。ご当主にはワシが許可を取ってある。水着も人数分用意してある。ビーチボールもゴムボートも、浮輪もある」
 いろいろとツッコミたいところが多過ぎて、いったいどこから突っ込んでいいのやら。そもそも、そんなものをどこから調達したというのだこの親父は。
「はて。他に足らぬものでもあったかな」
「あ。オイラね、スイカ割りしてみたい」
 まるで文化祭の出し物を決めているかのように挙手して発言する柊に、雅夫はサムズアップで応える。
「ぬかりない」
「わたしも。たまごわる」
 真似して挙手する翡翠の発言に、陽平は力なく「そんなモン割ってどーするよ」と、ツッコミを入れておく。
「確かに、修業には集中力は必要不可欠。しかし、煩悩の塊である人にとって、集中力を持続させるという行為は相応に神経がすり減り、ストレスの原因にもなる」
「誰がストレス発散の話をしろって言ったよクソ親父」
「わからんかバカ息子。ストレスが溜まり続ければ、少なからず実戦に影響が出る。これが強敵との戦いならば命取り!」
 確かに、雅夫の言うことももっともだ。しかし陽平には、どうしてもこの父が、ただ海水浴に行きたいだけに思えて仕方がなかった。
 どうやら他のメンバーはいい具合に絆されたようだが、陽平にはどんな理由があろうとも休む気になれない理由があった。
(クロス…)
 当然、雅夫もそんな陽平の様子に気付いていたからこそ、休ませる気になったのだが、どうやら傷は思った以上に深いようだ。
 やれやれと溜め息をつきながらもここは縋るより他ないと諦め、雅夫はあえて、陽平には触れないよう話を進めるのだった。






 結局。翌日の昼には、肌を刺すような真夏の強い陽射しを浴びながら、陽平は一人砂辺で海を眺めていた。
 光海や翡翠、楓や柊や孔雀が海で遊ぶ姿を視線で追うようなことはせず、ただひたすら頭の中で反復練習を繰り返す。イメージの中で動く度に、全身の筋肉が反応する。巫力を抑えながら穿牙の応用で身体の至る所に力を移動させ、より幅広い技へと昇華していく。
 全身から吹き出すように滲み出た汗が、すでに陽射しのせいではないことなど、誰の目にも明らかにだった。もちろん、それは楽しく遊ぶ三人の目にも明らかで…。
「アニキ…、まだやってるよ」
「もう、かれこれ一時間半近くやっていますね」
 双子の言葉に小さく頷き、光海は手にしたビーチボールを心なしか強く抱き締めた。
 確かに、このままではガーナ・オーダ以前に、陽平の方が倒れかねない。
 彼の主──翡翠でさえ連れ出せなかったところを見ると、今の陽平は梃子でも動かないはず。そんな翡翠は孔雀という遊び相手を見つけたらしく、今は浅瀬で綺麗な石を探している。故に、現状で陽平を連れ出せる人間がいないことは既に明白だ。
 今は亡き獣王クロスフウガに代わり、陽平自身が強くなることで、竜王ヴァルフウガが風雅の象徴にならなければならないという気持ちも、確かにわからなくはない。わからなくはないが、死人に義理立てしたところで誰も喜ばないというのもまた事実。
「私、やっぱりヨーヘーに言ってくる」
 ビーチボールを抱き締めたまま砂辺に戻る光海に、顔を見合わせた柊と楓もまた、ざぶざぶと水をかきながら移動を開始する。
 案の定、これだけ近付いているにも関わらず反応がないということは、修業に集中しすぎて警戒が疎かになっている証拠だ。
「よ──」
「邪魔すンなよ、光海…」
 瞼を閉じているはずの陽平に名を言い当てられ、光海はビクリと肩を震わせた。
「ヨーヘー……気付いてたの?」
「まぁな。そのくらい気配でわかるっての」
 どこかぶっきらぼうに言い放つ陽平に唇を尖らせ、光海は手にしていたビーチボールを目の前で大きく振りかぶる。
「そんなモン投げて、どぉしよぉってンだ…」
 また言い当てられた。どうやら、修業の成果は確実に出ているようだ。
 行き場のない怒りを再び胸に戻すと、光海はもういいとばかりに踵を返した。
 なにも、あんな追い返し方はないと思うのだが…。陽平から離れ、楓たちの下へと戻っていく光海は、唇を尖らせながら抱き締めていたビーチボールを抓ってみる。
 暴竜が現れたあの日、あんなに優しかったというのに。まるであの姿が一時の夢であったように感じるのは、決して光海だけではないはずだ。
「光海先輩。私たちも少し休みませんか?」
 無残にも追い返された光海を心配してか、柊の用意しているビーチパラソルを指差す楓に、光海は苦笑混じりに歩いて行く。
「そうね」
 そうだ。こういうときは冷たいものでも飲んで頭を冷やすに限る。
 ふと見れば、柊はどこから持ち込んだのか、一昔前に駄菓子屋で見掛けたようなかき氷機のハンドルを、必死になって回している。
「それじゃ、私もご相伴に預かろうかしら」
 濡れた水着を気にしながら楓の対面に座り、光海は目の前に置かれた氷と、色鮮やかなシロップボトルの束に目を丸くする。
 本当にいったいどこから持って来たというのだろうか。いや、雅夫のすることだけに、聞くだけ野暮というものなのだが。それにしたって、サイズがピッタリな各自の水着といい、ビーチパラソルやかき氷機などというものは、すぐに用意できてしまうものなのだろうか。
「光海先輩はなににしますか?」
 楽しそうにイチゴのシロップをかけながら問い掛ける楓に、光海は指を遊ばせながらブルーハワイの青いシロップボトルを取る。
「なんだか少し意外かな。楓ちゃん、練乳とか宇治金時っぽい印象あったから」
 光海の言葉に照れ笑いを浮かべながら、楓は赤く染まった氷の山を掬い取る。

「私、甘い物結構好きなんですよ」
 そう語る楓の顔は、確かに幸せそうであった。
「結構どころかかなり好きじゃんか。ガキの頃から甘い物、あんまし食べられなかったからね。ちなみにオイラも好きだよ」
 なるほどと頷く光海に満足したか、楓の隣りの椅子に腰を落ち着けると、黄色のレモンシロップを並々と注いでいく。シロップが氷の山を溶かしていく様は、まるで噴火の影響で溢れ出したマグマのようである。
「それは……ちょっとかけ過ぎかな」
 頬をひきつらせて笑う光海に「ダイジョーブ、ダイジョーブ」と手を振る柊は、徐に氷……というよりもシロップ漬けに近いものを掬い上げると、笑顔のまま口に流し込んだ。
「ん〜〜ッ、やっぱこのくらいがオイシイよね」
 本気が冗談かもわからない言葉に絶句しながら、光海は苦笑のままかき氷を口にした。
 こうしていると、本当にただの友達で、忍者などとは無縁の高校生なのに…。
いったいいつから、自分たちはこんな非日常に足を踏み入れてしまったのだろうかと思う。
 全てのきっかけは、今、視界の隅で砂の城を作っている少女で、その少女を守ると幼馴染みの少年がいきり立ったのが原因で…。
(でも…、ヨーヘーを追いかけたのは私の意思)
 そう考えると、すべて自分が悪いという気さえしてくるから不思議なものだ。
(かといって、今更辞められるわけないもん…)
 どこか疲れたような視線でちらりと様子を伺い、未だに修行を続ける陽平の姿に、光海は誰も気付かないほどの小さな溜め息をついた。






 丁度その頃、そんな光海の気も知らず、一人黙々と修行に勤しむ陽平の知覚領域に誰かが踏み込んでいた。
 まるでカーテンの隙間から入り込んでくる微風のように、警戒しているこちらに対してまったく違和感を与えずに近付いた相手に、陽平は驚きのあまりビクリと肩を震わせる。
(誰だ…)
 光海とは違う。あれはもっと強引に居場所を作ろうと、自分の周りの風を強くする。柊や楓は、いつも近付かず遠ざからずの距離を保っている。翡翠なら問答無用に飛び込んでくるし、孔雀なら近付こうともしないだろう。
 すぐそこに誰かがいるのはわかっている。あと三歩ほどて、陽平を通り過ぎることができる距離。
 草履が砂を踏む音が聞こえる。一歩、二歩…。だが、通り過ぎるかと思われた相手は、どういうわけか陽平のすぐ隣りで歩みを止めると、風の香りがする髪を揺らしながらその場に腰を落ち着けた。
 なにをするでもなく、ただそこにいるだけ。それだけの相手だというのに、なんと大きな存在感に充ち満ちているのだろうか。
 別に根比べをしていたわけではないのだが、どこか根負けをした感覚を覚えながら陽平はゆっくりと瞳を開いていく。
 海からの潮風に揺られた髪が視界を過ぎる。髪がふわりと舞い上がり、そしてまた戻るのを追いかけるように陽平もまた自然に隣りを振り返る。
「琥珀さん…」
 その姿を認めた瞬間、すべてに納得がいった。
 なるほど。どうやら琥珀にまんまといっぱい食わされたらしい。修行の邪魔をしているわけではない。しかし、こちらの動揺を巧く誘い、ただそこに在るだけの存在となれば、陽平は気になって集中力を欠く。確かにこれでは修行どころではない。
「成果はありましたか?」
 視線は海に固定されたまま、どこかのんびりとした言葉を紡ぐ琥珀に、陽平は小さく頭を振る。
 こんな小さな動揺から集中力を欠いているようでは、まだまだ修行が足らない。それに…
「琥珀さんにまで心配かけて…。俺、なんかひとりで片意地張ってたかな……って」
 陽平の本音ともいう言葉に、琥珀は笑っていた。優しく、そしてすべてわかっていたと言わんばかりの包み込むような微笑みがそこにあった。
「ホント、琥珀さんにはなんでもお見通しなんだな」
 鬼眼の力とか、決してそういったものだけではなく、琥珀には人を見る力に長けているようだ。それはどこか、国をまとめる王のような器を感じさせ、陽平は感嘆の声を漏らす。
「陽平さんは…」
 ゆっくりとこちらを振り返る琥珀に、ドキリ、と陽平心臓が跳ね上がる。
「獣王がいなければなにも守れませんか?」
 琥珀が見せたのは、いつもよりずっと厳しい表情。そして、一番口にされたくなかった問い掛けに、陽平は思わず息を詰まらせる。
「獣王が共に在らねば、姫も仲間も、大切な人との約束も守れませんか?」
 琥珀の強い意思が、瞳を通じて真正面からぶつかってくる。
 逃げたいと思う反面、この視線から顔を背けることを拒んでいる自分が確かに存在している。
「俺は…」
 獣王に依存しきっていたつもりはない。それはおそらく今も変わらないけど、獣王を……友を失った痛みが陽平を常に駆り立てている。もっと強く、もっと早く、もっと、もっとと。
 しかし、この気持ちはいったいなんなのだろうか。焦り……責任……不安?
 そうだ、これは不安だ。今の自分は不安の言い訳を獣王に置き換えているに過ぎない。その回答に行き着いた瞬間、あまりの情けなさに涙が出そうだった。
「自分の未熟棚に置いて、よりによってあいつのせいにしてるなんて…」
 自嘲の笑みを浮かべる陽平に、琥珀はどこか悲しそうな、それでいて安心したような表情を見せる。
 すぐに気付けたということは、決して手遅れではない。陽平はきっと、獣王よりも一際輝く風雅の象徴となるに違いない。
 そんな琥珀にどぎまぎしてしまう自分を押し止どめ、どこかわざとらしい空元気で立ち上がる。
「おっし。気分転換に泳ぐか!」
 父がどこから調達してきたのかは知らないが、せっかく水着を着ているのだ。
まったく泳がないというのもやはり勿体ない。
「琥珀さんもどうッスか?」
 巫女服に身を固め、常に気を張っている風雅の当主にも、やはり息抜きは必要だ。もっとも、今の今まで仲間たちの誘いを突っ撥ねていた男の言葉故に説得力は皆無だが。まぁ正直な話、琥珀の水着姿は想像できなかったわけだが、それを見てみたいと思うのは決して邪な感情ではないと信じたい。
 誘われたことに驚きの表情を浮かべながらも、陽平に並び、立ち上がった琥珀は「そうですね」とどこか悪戯っぽく笑ってみせる。
 その瞬間、陽平の脳裏をかすめていく嫌な予感は、一気に警報を鳴らすレベルまで加速する。なぜならば、その笑いには嫌と言うほど覚えがあるからだ。
 それにしたって、自分の周りにはどうしてこう天使の顔をした悪魔が多いのだろうか。
 そんなことを考えているのも束の間、突然千早を脱ぎ、袴の紐を解いていく琥珀に、陽平の頭がコンマ二秒で沸騰した。
「こっ! こここここ……琥珀さんっ!?」
 ニワトリも真っ青な奇声をものともせず、琥珀はわからないといった素振りのままするりと袴を下ろす。白衣の裾が長いためにそうそう露わになることはないが、それでもちらちらと見え隠れする白い肌に、陽平の心拍数は瞬時にMAXまで上り詰めていく。
 なにか隠すものをと慌てて周りを探すが既に時遅し。雪のように白い肩が見えた瞬間、陽平の中でなにかがぷつりと切れた。
「そんなに驚かなくても、ちゃんと水着を着ていま…──す…」
 なにやら様子がおかしいと疑問符を浮かべた琥珀が振り返れば、見事に意識が吹っ飛んだ陽平が前のめりに倒れるところであった。
 どうやら少々刺激が強過ぎたらしい。なまじ我慢を続けたためか、頭に上った血が鼻血になったといったところだろうか。
「あらあら。勇者さまは想像以上に純情だったのですね」
 まるで人事のように笑う琥珀の声を聞きながら、思考もままならないほどにヒートアップした頭に、陽平は内心滝のような涙を溢れさせるのであった。






 当然ながら、そんな陽平の姿を不機嫌そうに眺める……否、睨み付ける瞳があった。
 つい先ほど無残にも追い返されたにも関わらず、こうして遠巻きに見守っていた光海の心境やいかに…。

ガタンッ!!

 どうやら語るまでもなかったようだ。
 何ゆえスプーンをテーブルに置くだけで、こんなけたたましい音を立てるのか。
 凄まじい怒りのオーラがぐおぐおと渦巻いているのが一目でわかるほどに、光海の笑顔は笑えていなかった。
「あ……の…」
 楓でさえ声をかけるのが躊躇われる光海の表情に、柊は我関せずとテーブルの下に避難する。それをズルいと非難する間もなく、光海の視線が楓を振り返る。
「楓ちゃん」
「は、はいっ!」
 あまりに冷ややかで静かな光海の声に、背筋が伸び切るほどに楓の肩が跳ね上がる。
 このとき、楓は初対面の陽平に抱いた怒り以上の憎悪を抱かずにはいられなかった。
(先輩……恨みますよ)
 席を立つ光海を目で追いながら、楓は背筋を流れる冷汗に苦笑を浮かべる。
「光海先輩…?」
 いったいどちらへ……と続くはずの言葉を口にすることもできないほどに重苦しい雰囲気。
「ちょっと……散歩してくるね」
 気圧されたままにコクコクと頷く楓は、離れていく光海を引きつった笑顔で見送るのだった。
 それにしても、まったく陽平にも困ったものだ。そんな呆れの溜め息を漏らしながら、楓は先ほど倒れた陽平を振り返る。
「……ッ!!」

 楓の怒りゲージが上昇した。
 いつの間にそうなったのか、水着姿の琥珀は再び砂辺に腰を落ち着け、倒れた陽平を膝枕で介抱している。
 あまりに巧妙と言わざるを得ない琥珀の行動に、楓はクノイチのような狡猾さを感じずにはいられなかった。
 それにしたって、巫力・斜陽を用いて鼻血を癒すというのは、さすがに前代未聞ではなかろうか。
 だが、いかんせん天然なのか、それとも計画的犯行なのか、あれでは何度癒したところで効果は期待できない。水着を着ているとはいえ、膝枕をしている脚にいたっては裸も同然。そんなお御脚に寝かされて、純情少年の血圧が上がらないはずがない。つまり、100回癒したところで101回鼻血を吹き出す仕組みになっているわけだ。
 なんだか光海が可哀想で、そしてなんだか申し訳なくて、楓は自分のことのように内心で謝辞を告げるのであった。












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