忙しなかった怒濤の夏休みも終わり、九月に入って既に一週間。まだまだ暑い日は続いていた。
 久方振りに顔を合わせるクラスメイトを、懐かしいなどと思ったのは最初の数日だけ。今ではすっかり夏休み前と変わらない、在るべき日常の姿に戻っている。
 変わったと言えば、クラスメイトたちの見事な日焼けや、夏休み中のイメージチェンジですっかり雰囲気が変わった者、あと、いつの間にかカップルが成立した者も少なくはないと聞く。
 でも、そんなことは変わった内に入らないと、時非高校二年B組の面々は考える。本当に変わってしまったのは、ある意味クラスの中心人物たちの関係。
 誰もが認める忍者オタク、風雅陽平と、弓道部のエース、桔梗光海の関係は、夏休みという大きな境と共に、目に見えない、しかし確実に深くて広い亀裂を作ってしまっていた。
 あまりに深刻すぎて、他者が介入して良いものかと検討していたクラスメイトたちも、いい加減この重苦しい雰囲気に耐え切れなくなったのか、ついに二人の身近な友人である安藤貴仁と椎名咲に白羽の矢を立てたのであった。
「とはいえ、おれらでも近寄り難い雰囲気やで。いつものことやったら陽平のアホ捕まえて謝らせてまえば良かったんやろけどな…」
 黙っていれば十分に美形な表情を大袈裟に崩し、貴仁は「ムリムリ」と小さくかつ素早く手を左右に振る。
「終了式のアレが原因なら、私のせいだ」
 終了式の日、咲は溜まりに溜まった我慢を陽平に向かって吐き出している。いわゆる余計なお世話≠してしまったわけだが、それは陽平のみではなく、光海にとってもお節介でしかなかった。
 結局あのときは謎の襲撃者事件のために休校のまま夏休みへ突入。そのまま有耶無耶になってしまったのだが、幼馴染みの二人のことだ。夏休みだからといって会わないということはまずないだろう。
 やはり満場一致で夏休み中になにかあったと見るわけだが、それにしたってこれはあまりにも酷すぎる。
 陽平はなにか辛いことでもあったのか、時々泣き出してしまいそうな表情を見せるものの、基本的にはいつも通りを演じているようだが、いかんせんバレバレだ。
 光海に至っては声をかけることさえ躊躇われるような痛々しい表情で、ただぼ〜っと窓の外を眺めている始末。あの光海が陽平をまったく見ていない時点で、彼となにかがあったことを物語っている。
「まぁ、二人の問題っちゃそれで終いなんやけどな。おれらダチやもんなぁ…」
 軽口ばかりな上に、不可解極まりない男にしては、珍しく良いことを言ったと、咲はしきりに首肯する。
「ったく。珍しいは余計やっちゅーねん」
 しっかりと地の文にツッコミを入れつつも、貴仁はとりあえず打開策でも考えてみるかと首を捻る。
 こういうことは、基本的になにもしない方が一番。時間が解決してくれるのを待つ方がいいのだが、このままでは教室の空気は重くなる一方だし、それになにより、友達の苦しむ姿を見て手をこまねいてるしかできないなんて、そんなのは絶対に友達じゃない。
「ほんなら、とりあえずや。あの二人にお互いの大切さっちゅーのを教えたろっか」
 いったいなにを思い付いたのか、ニンマリと怪しげな笑みを浮かべる貴仁に、咲は一抹の不安を感じるのであった。






勇者忍伝クロスフウガ

巻之十九:「天風 - The stormy day -」







 結局、今日も光海と口を利くことはなかった。
 明らかに避けられているのはわかっていたし、光海が放っておいて欲しいと言うのならそっとしておくつもりだ。
 問題なのは周囲の反応。クラスメイトにいたっては、貴仁を筆頭になにやら悪巧みを始めている様子。世話を焼いてくれるのはありがたいが、正直これでは気が休まる暇がない。
 風雅の忍者として、考えなければならないことは山積みなのだ。風雅の当主、琥珀は、今は日常に帰りなさいと陽平たちを送り出してくれたものの、不気味にも息を潜めているガーナ・オーダも、いつ翡翠を狙って先の襲撃事件のように襲いかかってくるのかわかったものではない。
 とにかく、今は問題を一つずつ排除していくに限る。
 そんなことを考えながら少し大袈裟に溜め息をついた陽平は、つけ回すように背後に迫る気配を確認すると、その場から掻き消えるように動いた。
 巧く隠れたようだが、雅夫との修行で神懸かった索敵能力を身に着けた陽平には丸見えもいいところだ。
 一瞬にして背後を取った陽平は、指に力を込めるだけで締め落とせるように首を掴まえ、できるだけドスの利いた声で相手を威嚇する。
「どうして俺を──」
 だが、言い終わるよりも早く異変に気付いた陽平は、参ったとばかりに苦笑しながら首の拘束を解くと、空いた手に握り締めていたクナイを手放した。
「私に気付いたのはさすがですが、髪の長い相手の首を掴むには少し不用意すぎですね」
 よく知った声は振り返りながら陽平の手に絡めた極めて細い鋼糸を解くと、どこか食えない笑みを浮かべてみせる。
「椿さん。どうしたンです?」
 前回の一件で、椿が琥珀を守るクノイチであることは知っている。しかし、雅夫も戻ってきている現状で、椿までもが里を離れたのは解せない。なにか理由があるはずだ。
 それを肯定するように厳しい表情を見せた椿は、声量を落として口を開いた。
「風雅当主から火急の命を預かっています」
 風雅の当主にして、巫女を束ねる統巫女、琥珀からの命だけに、陽平もまた厳しい表情を見せる。
「ここでは少し目につき過ぎますね。場所を変えましょうか」
 有無を言わさず歩き出した椿の背を追いながら、陽平はやれやれと頭を掻くと、すんなりと気持ちを切り換えて椿に並ぶ。
 いつものことながら、本当に神出鬼没な上に謎の多い人だ。
 こうして隣りを歩く姿は普通の女性なのに、その正体は日本屈指のクノイチで、しかも陽平なんかじゃ適わないほどの使い手だ。人は見掛けによらないとは言うが、椿や雅夫はいい例なのかもしれない。
 不意に、椿のまとう気配が変わった。陽平の目が気になった……というわけではなく、なにかに気付いたらしい。椿は平静を装いながら隣りの陽平に話しかけた。
「陽平くん」
 案の定、呼び掛けながらも椿の意識は二人の背後に向けられている。どうやら椿も陽平と同じく、自分たちを付け回す視線に気付いたようだ。
「気にしないでください。あれ、ただのバカッスから」
 視線の相手がわかっているだけに、陽平は警戒することなく笑ってみせる。
 学校を……いや、教室を出てからアレがずっと尾けてきているのはわかっていた。安藤貴仁。陽平の腐れ縁にして悪友。
「素人にしては気配を殺さず生かさず…。放っておくにはもったいない人材ですね」
「いえ、思いっきり放っておいてください…」
 間髪入れずに断言する陽平に、椿はそうですかと苦笑で応えた。
 というか、今のは本気だったのだろうかという疑問が脳裏を過ぎるが、考えるだけで恐ろしいことについては考えないに越したことはない。
 陽平はぶるる、と肩を震わせると、余計なことは考えないようにと頭を振った。
「そういえばどこに行くンです?」
 人目を避けるようなことを言っていたが、獣岬へ行くなら方向が違う。よもや貴仁の尾行を撒こうというわけでもあるまい。
「近くに美味しい珈琲を飲めるお店があるんです。私の古い友人の実家なんですけどね」
「へぇ。この辺にそんな店あったンだ。ん? ってことは、椿さんて時非にいたことあるンですか?」
「ええ。貴方たちと同じ歳の頃、お仕事で時非高校に通っていたことが…」
 つまりその頃から椿はクノイチとして飛び回っていたということになる。そんな話に感心しながら、陽平の思考は椿の制服姿に勝手な妄想の羽を広げていた。
 それから少し歩き、椿が歩みを止めたのに合わせて、陽平も歩みを止める。しかも、よく知った喫茶店の前で。
 看板に描かれた喫茶ガルテンの文字に、陽平の頬がまさかと引きつり笑いを浮かべる。
「さぁ、入りましょうか」
 カランカラン、と鐘を鳴らす扉を潜り、いつものカウンターで、いつものように客を待っていた看板娘に、椿は慣れたように挨拶を交わす。
「彩香」
 どこかフランクに声をかける椿に驚いたのか、それとも椿が来たことに驚いたのか。目を丸くしてカウンターに乗り出した彩香に、椿は一番奥のテーブルを指差した。
 無言で頷く彩香に陽平も手を振り、椿に続いて椅子に腰掛ける。
「陽平くんも顔馴染みだったんですね」
 今のやりとりを見ていたのだろう。椿の言葉に「ガキの頃から」とだけ応えておく。
 しかし、世間とは狭いものだとつくづく思い知らされる。人間関係とはどこで繋がっているかわからない分、重要な情報網になるとはわかっていたが、ここまでくると偶然という言葉が軽く思えてくる。
「ご注文は?」
 少し離れたところから声をかけたのは、彩香なりの配慮なのだろう。ひょっとしたら椿の正体も知っているのかもしれない。
 そんな陽平の疑問を察したのか、「触り程度に」とだけ答える椿に、彩香が含み笑いを浮かべる。
「私はいつものを」
「あ、俺はアイスコーヒーね」
 二人の注文をメモしてカウンターに戻る彩香を見送りながら、陽平は何食わぬ顔で話を切り出した。
「それで、お話って…」
 なんなンですか。そう続けようとした陽平の視線が、椿の唇に違和感を覚えた。言葉は発していない。しかし、椿の唇は確かに言葉を紡ぐように動いている。

ドクシンハツカエマスカ

 読唇。文字通り唇の動きから声を聞かずに相手の言を読み取る方法だ。
「少しですが…」
 陽平の回答にひとつ頷き、椿は改めて声のない言葉を紡ぐ。

シノビキョヘイガユクエヲクラマシマシタ

 忍巨兵が行方を眩ました。そんな突拍子もない切り出しに、陽平は思わず眉をひそめる。
 詳しい話はこうだ。
 風雅の里で、とある新兵器の運用を目的とした新たな忍巨兵を作っていたらしい。それは竜王とは違う方法で生み出されたため、すぐに完成はしたものの、完成した昨晩のうちに里から姿を消したという。
 あのサイズだ。忍巨兵が動けばすぐに察することはできるのだが、その忍巨兵が装備した武器だけは絶対に他者に渡すわけにはいかない。故に勇者忍軍には天王の捜索に当たって欲しいということであった。
 彩香の運んできたアイスコーヒーに口をつけ、一息つきながら考える。
 忍巨兵の武器は確かに強力だ。使い方によっては核兵器さえも凌駕する超兵器になる。陽平の知る限りでも、戦王ホウガの武装、バニッシュキャノンは、忍巨兵の武装でもとくに群を抜いて強力だった。
(あのサイズの隕石を簡単にぶっ壊しちまうくらいだもんな)
「難しい顔して、陽平クンらしくないぞ」
 何気に失礼なことを言われた。
 振り返れば、銀のトレーを抱き締めるようにしてこちらを伺う彩香と視線がぶつかった。
「陽平クン、あんまり悩まない方がらしいよ。なんにでもひたむきに一生懸命がキミの持ち味だもんね」
「それって、バカの考え休むに似たりってこと?」
 さぁ。とはぐらかすものの、おそらくそのままの意味なのだろう。まぁ、確かに考えるよりも動く方が性に合ってるとは思う。
 湯気の立つ珈琲を口にしながら、ちらりとこちらを伺う椿も同意見なのだろうか。
 揃いも揃って似たものどうしだと思うと、やはりいつぞや考えた年上限定の女難はあながち間違いでもないように思えてくる。
「そういや二人は高校の同期だっけ?」
 ストローに口をつけながら尋ねる陽平に、彩香は苦笑いのまま椿を指差した。
「陽平クン、覚えてる? いつぞやのメロンパンの話」
 忘れていたかった記憶を掘り起こされた気分だった。
「あのとき話した消費者が彼女なの」
 いつぞや、楓の妨害によって昼食のパンを買い逃した陽平は、勇気と無謀をはき違えたためにスペシャルメロンパンなどという怪しげなパンを食べることになった。その破壊力はひとカケラで陽平を昏倒させ、あまつさえ腹痛というオマケまで残していったのだ。
 思い出すだけでも吐き気がする。そんな代物を毎日のように消費していた人物が彩香の同期にいるとは聞いていたが、よもや椿が当人とは思ってもみなかった。
「ああ、あれですね。私はわりと好みでした」
 楽しい思い出とでもいうかのようにそんなことを述べてしまう椿に、もはや陽平は空笑いしか浮かべることができなかった。
 一度、椿と美味しいものを食べに行くのも悪くない。そんなことを心に描いた瞬間だった。
「ところで。陽平クンは椿に恋の相談?」
「彩香姉ぇ、俺がそんなガラに見える? 椿さんの弟たちとは友達だから。懇意にしてもらってるだけさ」
 嘘は言っていない。椿も椿で、なんのコメントもせずに珈琲を飲んでいるところを見ると、陽平の好きなように言い訳をしても良いということなのだろう。
「そもそも、なんだって俺がそんなこ……と…」
 彩香の見せる厳しい表情に、陽平は思わず語尾を濁らせる。
「な……なに?」
「光海ちゃん、最近一緒にいるの見掛けないけど?」
 一緒にいないことが不自然と思われるほどに、陽平と光海の距離は近かったのかと思い知らされる。
 まさか、光海と距離があるだけで周りがこれほど反応を見せるとは思ってもみなかった。
「ケンカ?」
「違うよ」
 実際、光海とケンカをした覚えはない。もしなにかあるのだとすれば、それは光海と交わしたいくつかの言葉だ。
 夕日に赤く染まる海岸で、光海の肩を抱いたあのとき、光海は光洋が自分の義理の兄であることを陽平に話した。優しい義兄で、光海にとっては憧れの男性だったと。そんな光洋に唇を奪われ、自分の気持ちを裏切ったように感じた光海は、強く陽平を拒んだ。
 何故、それが陽平に繋がるのかわからない。わかりたくない。わかるはずもない。その回答は陽平の辞書には存在しないのだから。
(だから…、ケンカじゃねぇよ)
 陽平の見せる表情になにを感じたのか、困ったように目を細める彩香は、陽平の向かいに座る椿にちらりと視線を送る。
 話を振られた。そう認識したからこそ、椿はカップを置くと陽平と彩香を交互に見比べた。
「椿さん…?」
 疑問符を浮かべる陽平を捨て置き、椿はやれやれとばかりに小さな溜め息をつく。
「陽平くんはもう少し、きちんと自覚する必要がありそうですね」
 自覚と言われても、それこそ気付かないことに自覚が芽生えるはずもない。そもそも、そこまで言うくらいなのだから教えてくれても良さそうなものを。
「陽平くん、どうか気付いてあげてください。それはきっと、貴方たちにとってとても大切なことです」
 そう言って席を立つ椿は、お勘定をカウンターに置くと一度だけ陽平を振り返った。
「それと、困り者の件もよろしくお願いします」
 手を振る彩香に会釈で返し、にっこりと優しい微笑みを浮かべた椿は、いろいろな謎を陽平に残したまま店を出て行くのだった。






 その夜、自室の部屋でベッドに座り、風呂上がりの翡翠の髪を拭いてやりながら、陽平は混乱した思考の整理に勤しんでいた。
 わかれと言われてわかるなら、きっと言われなくてもわかっている。なら、苦手でも考えるしかない。
 陽平にとっての光海は、物心ついた頃からの腐れ縁で、下手な男友達よりも気が合って、いわゆる気兼ねなく付き合える相手だった。大切な約束を交わし、風雅の忍者になると言った陽平にまでついてきた。
 なるほど。こうして考えると、とても普通の少女でないことが伺える。
 髪を拭く手が止まったからか、首を傾げる翡翠になんでもないと頭を振ると、陽平はドライヤーでそっと髪を乾かしていく。
 光海は今まで、事ある度に陽平を優先させてきた。そのことにはもちろん感謝もしているし、最近に至っては、光海は守ってあげたい女の子にもなった。
 そう。女の子なのだ。幼馴染みとか、腐れ縁とか、友達とか、そんなものの前に光海はひとりの女の子なのだ。そして、陽平は男…。
 なるほど。客観的に見てようやく気がついたが、それだけ親しい男女を世間では何と言うのか、陽平とて知らぬわけではない。
「ようへい」
「…どうした?」
 陽平の胸元を掴み、そっと抱き付いてきた翡翠は、お風呂上がりだからか暖かく、そして良い匂いがした。
「ようへい、ここがいたい?」
 そんな顔をしてしまっただろうか。こんな小さな女の子にまでバレてしまうような心の内を叱咤しながら、大丈夫だと優しく頭を撫でてやる。
「大丈夫だ」
 もう一度念を押すように自分に言い聞かせ、陽平は自分の中に立ち込めた霧を振り払う。
 そのとき、唐突に机の上で震えた携帯電話に、陽平は困ったように翡翠を見下ろした。
 翡翠は抱き付いているのがよほど気に入っているのか、しっかりと胴に回された腕に力がこもる。これはここから動かないという意思表示なのだが、これでは電話に出ることができない。
 やれやれと小さく溜め息をついた陽平は、どこに持っていたのか手にした鋼糸を素早く飛ばすと、卓上の携帯を見事に巻き付けてあっという間に手元に引き寄せる。
 着信は……咲からだ。
 珍しいと思いながらも通話ボタンを押すと、胸の辺りで翡翠が小さな頬を膨らませた。
「もしもし…」
 空いた手で翡翠をあやしながら、受話器の向こうからの声を待つ。
『もしもし。ごめんね、こんな時間に。今大丈夫?』
「ああ。丁度風呂から上がったとこ。で、なんだよ。咲からかけてくるなんて結構珍しいよな」
 実際かなり珍しい部類に入る。それこそ、なにかイベント的なことでもない限り、咲の方から陽平に電話してくることなどなかったはずだ。つまる話、陽平への連絡は光海が行うことが日常化していたのだ。
 まさかこんなところでまで、光海の近さを認識させられるとは思ってもみなかった。
『あのさ、明日ちょっと早めに学校に来られる?』
 躊躇いがちにそんなことを尋ねてくる咲に、陽平は思わず「自信がない」と素直に口にしていた。
「悪ぃ。朝は苦手なんだよ…」
『じゃあ、モーニングコールする』
 間髪入れずにそう応える咲の雰囲気に、少なからず真剣さを感じた陽平は、困ったように視線を泳がせながらポリポリと頭をかく。
『…だめかな?』
 そうまでして、何ゆえ陽平を早く登校させたいのか、少なくとも悪巧みの類いではないだろうが、やはり気にはなる。
『お願い。大切な話があるの』
 そこまで言われて断る理由もない。咲に気圧された陽平は、頬を掻きながら一呼吸置くと、少しだけ真剣な面持ちで「わかった」とだけ応えた。
『ありがとう。じゃあ、明日の朝にね』
「ああ。ちょっとくらいの遅刻は勘弁な」
 冗談じみた陽平の言葉に笑みをこぼすと、咲は「おやすみ」と通話ボタンを切った。
 受話器の向こうから聞こえてくる、ツー、ツー、という音を聞き、陽平は神妙な面持ちのまま電話を切る。
 それにしても、いったい咲は陽平になんの用なのだろうか。最近の話題で考えれば光海絡みの話なのだが、終了式の一件があってからか、咲はあまり陽平に光海とのことを強く言わなくなっていた。
 では、いったいなんの用なのか。
「まぁ、明日行けばわかるだろ」
 ひとりごちるように呟き、いつの間にか陽平に抱き付いたまま眠ってしまった翡翠の手をそっと解くと、揺すらないよう気をつけながら小さな身体を抱き上げる。
 そういえば翡翠はどう思っているのだろうか。たまに周囲の真似をして陽平を窘めはするが、これといって言われたことはない気がする。
 もっとも、12歳の少女にまで言われてしまうと、さすがの陽平でも落ち込むかもしれない。
「俺は翡翠を守る忍者だけど…。あいつのことも、守ってやってもいいよな…」
 夢の中にいるであろう姫君に囁きかけながら、陽平は一人の少女を思い描く。
 それは、昔から良く知るはずの幼馴染み。ずっとずっと、陽平だけを見ていてくれた少女の姿。
 ふと、そんな幼馴染みが泣きそうな表情を見せた気がして、陽平は振り払うようにブンブン、と頭を振る。
「考えだけで混乱しちまうなんて…、修行が足らねぇ」
 翡翠の部屋に当人を送り届けた陽平は、腕の中の少女に「ごめん」とだけ呟くと、起こさないように翡翠を布団に寝かせ、素早く部屋を後にした。












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