翌朝、予想外にも早起きに成功した陽平は、狙い澄ましたようないつもより早めの親父襲撃を切り抜け、咲の待つ学校へと急いでいた。
 この調子なら咲が来るよりも早く着いてしまうかもしれない。そんなどうでもよさそうな心配をしながら、足場である一軒家の屋根を蹴る。
 夏休みの修行のおかげか、明らかに向上した忍者としての能力は、微妙なところでも役立っていた。おかげで二学期に入って遅刻はないし、いざとなれば貴仁の尾行を撒くことだってできる。まぁ、そのどちらも本来の用途とは明らかに違うのだが、いろんな意味で緊急事態なためにそれはこの際無視することにする。
「ん…?」
 ふと見下ろしたとき、たまたま視界に時非高校の制服が入り、陽平は歩みを止めて相手を眺めてみる。
 やや小柄な身体に短めの髪、特徴といえば周囲を寄せ付けないような重たい雰囲気くらいなもの。そのどれもに覚えのあった陽平は、すぐに一人のクラスメイトを思い出した。
「ありゃぁ……天城じゃねぇか」
 確か、名前は瑪瑙といったか。同じクラスになったとき、自己紹介で聞いたきりだったから不安ではあるが、特徴的な名前だったことから特に印象は強かった。
「こんな朝っぱらからどこ行こうってンだよ、あいつ…」
 朝から屋根の上を走る自分を棚に上げて言う台詞ではないが、学校とは別方向、おそらく駅か海岸にでも向かうつもりなのだろう。往復時間を考えると、やはりこんな時間から駅や海岸に向かうのは妙な話ではある。
「いけね。俺は俺で約束あるンだった…」
 気になるとはいえ所詮は他人事。陽平が首を突っ込む必要はどこにもない。ましてや、咲との約束をすっぽかしてまですることではない。
 どこか後ろ髪を引かれるような思いを残しつつも、自分には関係ないと振り切ると、急いで学校を目指すのだった。






 学校に到着したものの、咲がどこで待っているのか聞くのを完全に失念していた陽平は、やれやれとばかりに知覚領域を展開した。
 まったくもって便利な能力だ。そんなどうでもいいことを考えながら、陽平は知覚した複数の気配から咲を選別していく。
 複数人で動き回っているのは部活の朝練か。大切な話があるからと、こんな時間に呼び出したのだ。誰かと一緒にいるとは考え難い。つまり、咲は一人でいるはずだ。
 知覚した気配の中、一人でいるのはごく少数だ。あとは絞り込めばいいのだが、どうやら思いの他簡単にみつかりそうだった。
 陽平たちの教室辺りにひとつポツンと在る気配。どうやらこれで間違いなさそうだ。
 急ぎ下駄箱で室内履きに履き替えると、教室を目指して疾走する。途中、よく知った声に「廊下を走るのはマナー違反です」と言われた気がしたが、おそらく気のせいだろう。
 あっという間に教室に辿り着き、締め切った部屋に疑問を抱きながらもなんの躊躇もなく戸を開ける。
 咲は……いた。光海の椅子に座り、陽平の椅子がある方をじっと見つめている。その行為になんの意味があるのかわからないが、とりあえず戸を閉めて咲に歩み寄っていく。
「もっと待つかと思ってた」
「期待に添えなくて悪かったな」
 そんな冗談ともつかないやりとりを交わしながら、陽平は咲の視線に割り込むように自分の椅子に座る。
 なにか話があるのではなかったのか、黙って陽平を見つめる咲に、陽平は居心地が悪いかのように視線を逸らす。
「安藤くんにね…」
 ようやく語り出した咲に、陽平は生返事で頷く。
「光海と、風雅くんを仲直りさせる作戦だって言われたの」
 あの貴仁のことだ。なにか企んでいるとは思っていたが、今度はいったいなにを始めようと言うのだろうか。
「あいつ、なにしろって?」
「私にね、風雅くんを誘惑しろって…」
 咲の言葉に思いっきり吹き出した陽平は、「あのバカ…」と呆れながら悪態つく。
 よりにもよって、なんというバカな作戦を立てるのか。ようするに、陽平が咲に誘惑されれば光海が焦り、そして咲が光海を遠ざけることで陽平は光海の大切さを再確認する。と、こういうことらしいが…。
「あいつ、一度殴っていいよな…」
 冗談と思っているのか、笑みをこぼす咲に陽平は本気だとばかりに拳を握り締めて見せる。
「それで。咲は俺を誘惑しようってのか?」
「まさか。ただ、個人的に話したいことがあるだけ」
 はにかむように笑う咲に、陽平はそりゃそうだと苦笑いを浮かべる。
「ねぇ、覚えてるかな。私が風雅くんに初めて会ったときのこと」
 おぼろげながら確かに覚えている。あれは、中学一年のときの夏休みだった。
光海に言われ、仕方なく弓道部の試合を見に行った陽平は、ひとり手洗い場でたたずむ少女の姿を発見した。
 第一印象は根暗そう=B実際、少女は陽平に気付いた瞬間、怯えたようにタオルを胸の前で抱き締めた。
 いったい何事かと尋ねてみれば、初めての試合で緊張してしまって、身体の震えが治まらないと言う。
 ……に言われ、仕方なく「緊張を楽しめよ」と励ましてやれば、彼女は不思議そうに目を丸くしていた。
(まただ…)
 あのとき、陽平の隣りには一人の少年がいた。幼い頃からの友達で、誰もが認めていたはずの陽平の親友。
 しかし、昨年の春先。少年はなにも言わずに姿を消した。そこにいたという痕跡も、人々の記憶からも完全に少年の情報だけが抜け落ちていた。いや、むしろ初めからそんな者はいなかったとでもいうかのように、彼という存在は消滅した。
 当然、陽平は血眼になって彼を探したが、誰に聞いてもそんな少年は知らないと言い、彼の家族さえ少年の存在を否定した。だから、陽平は夢だと思うことにした。親友なんて初めからいなかった。そう思い込むことにした。
(咲は……覚えてねぇのかよ)
 陽平がそんな思いに囚われているとは露ほども知らず、咲は懐かしむような言葉を続けた。
「あの後、私貴方を探したの。でも、風雅くんが光海の幼馴染みだって知ったとき、私は怖かった」
 咲の妙な発言に、陽平はわからないと眉をひそめる。
「だってそうでしょ? 光海と風雅くんは凄く近かった。それこそ、私なんかが入れる隙間がないくらいに。だから私は光海の気持ちを利用したの」
「なんだよ……それ」
「光海の相談役を買って出て、まんまと風雅くんとお近付きになる。私の目論み通り、光海は私を風雅くんに紹介したわ」
 どこか自嘲気味な笑いを浮かべる咲の表情に、陽平は思わず厳しい表情を返してしまう。
 わからない。なぜ、咲はこんなことを話すのか。どうして今になってそんなことを告げる気になったのか。
「風雅くん……光海のこと、好き?」
 咲の問い掛けに、陽平の肩がビクリと跳ね上がる。
 そんな陽平に「やっぱり」と呟く咲は、意を決したように大きく息を吸い込んだ。
「風雅くん……うぅん、陽平くん。私の一世一代の告白を聞いてください」
 初めて出会ったときのように震える唇で、しかしはっきりとした口調で言葉を紡ぐ咲に、陽平は黙って頷くしかなかった。
 ありがとう、と呟いた咲は、再び息を吸い込むと姿勢を正して真摯なまなざしを向ける。
「私、椎名咲は……風雅陽平くんが好きです。私と……付き合ってください」
 冗談など微塵も感じない。あるのはただ、純粋でまっすぐな感情だけ。それだけで少女はこんなに強くなれるのか。そんな事実に驚かされつつも、陽平は咲に返す言葉を決めあぐねていた。
 そういえば、すぐ身近にこんな風に純粋でまっすぐな感情をぶつけてくる少女がいた。少女はたったそれだけの感情で武器を手に戦場を駆け抜ける。それを当たり前と感じていた自分にようやく気付き、陽平は頭をハンマーで叩かれたような錯覚に陥る。
 陽平との間に流れる沈黙に耐えられなかったのか、恥ずかしそうに視線を逸らした咲は、どこか誇らしげな表情を見せていた。
「返事は……光海とのことに決着がついたらってことで…」
 そんな咲の申し出に、困ったような、それでいて助かったような不思議な感情が陽平の中で渦巻いていた。
「ごめん。誘惑なんかしないとか言っておきながら……こんな…」
「気にすンなよ。結局、一番悪いのは俺だってわかったからな」
 本当にバカだった。陽平は光海に甘えていた。甘えすぎていた。陽平の周囲には真正面から気持ちをぶつけてくれる者ばかりで、陽平は人の気持ちを探らずとも相手の本心を聞くことができたから。それゆえに陽平は他人の感情には鈍感で、翡翠のように感情を探る必要がない限り、言葉が本心だと信じて疑わなかった。だけど本当は、その言葉の裏にこそある本心に気付いてあげなければならない人がたくさんいたはずなのに。
 急に立ち上がる陽平を目で追いかけながら、咲は思わず不安の面持ちを隠せずにいた。答えを先延ばしするような真似をしたのだって、本当はわかりきっているはずの答えを聞くのが怖かったから。肝心なところで勇気が足りない。そんな自分が情けなくて、でも、想いを告げられた自分が誇らしくもあり、複雑な感情に左右されながらも、咲は歩き出した陽平の背中を目で追い続けた。
「悪ぃついでに先生に言っといてくれねぇか。風雅陽平は早退するって…」
「うん。任せて」
 一度だけ振り返り、極めていつもどおりの表情で笑ってみせる陽平に、咲は安堵の息を漏らす。
 一人残された教室がらんと広く、なんだかとても寂しく感じる。それがまるで、埋まらない自分の心を表しているようで、咲は閉じたはずの瞼から、とめどなく涙を溢れさせた。






 あの後、陽平の足は自然と獣岬を目指していた。
 そこになにがあるというわけでもなく、そこに誰かが待っているわけでもない。しかし、揺れた心を落ち着けるにはこれ以上ない場所とも言えるだろう。
 こんなことでは、とても獣王に顔向けできない。自分の情けなさに反吐が出るというのは、こういうときに使う言葉なのかもしれない。
 それにしても、咲の告白には驚かされた。好き≠ネんて言葉は翡翠が良く口にするが、咲の言った好き≠ヘ重さがまるで違う。
 好意を向けられることに慣れていないわけではないが、さすがに一世一代の告白と言うだけはある。とても意識せずにいられそうもない。
 夏休み最後の海水浴。まるで、あの日を境に、迷宮にでも迷い込んでしまったような気分だ。
 しかも悩みは解消されるどころか、種が増えるばかり。翡翠と生命の奥義書のこと。風雅のこれからのこと。ガーナ・オーダのこと。釧のこと。獣王のこと。
光海とのこと。咲とのこと。そして、先ほど思い出した親友のこと。
「アタマ痛ぇよ…」
 悪態つく陽平は、すべての悩みをかき消すように、自らの髪の毛をわしゃわしゃと掻き毟る。
 とにかく、まずは光海とのことを片付ける他ない。こんな気持ちのままでは、とてもじゃないが光海を戦場に立たせるわけにはいかない。
 だが、正直解決の糸口が見えないことにはどうしようもないことは事実。なにかきっかけでもあればいいのだが。
「そういや、光海とケンカする度にフォローしてくれたっけ…」
 今でも思い出せる親友の顔。やはりあれが夢とは考え難い。
 そんなごちゃごちゃした思考のまま獣岬に到着した陽平は、頬を撫でながら吹き抜けていく風に身を任せる。
 このくらいの高さなら着地は容易い。そう思いながら身体の力を抜いた瞬間、何者かの気配が突然背後に現れる。
 しかもあろうことか、その相手は陽平の右手を掴まえると、流れるような動作で足払いを仕掛けてくる。
「なっ──!?」
 陽平が驚きの声をあげると同時に視界が一回転する。
 それは瞬きの間の出来事であった。気付けば陽平は獣岬の上で仰向けに寝転がり、それを見下ろす小さな人影は、恐ろしいほどに純粋な敵意を向きだしにしていた。
 いや、これは敵意というよりも怒気。そうだ、この相手は怒っているのだ。
「お前……天城」
 自分を見下ろす顔に覚えがある。今朝、学校に行く途中見掛けたクラスメイト──天城瑪瑙だ。
 陽平が無事だということがわかるや否や、瑪瑙はすぐに陽平から離れると、踵を返してその場を離れて行く。
「お、おい…」
 咄嗟に立ち上がって呼び掛けるが、瑪瑙が立ち止まる気配はない。仕方なく瑪瑙が歩みを止めるまでついていくことにする。
 背中についた砂を払いながら、陽平はさっきの出来事を思い出していた。
 無造作に掴まれたと思った瞬間、流れるような動作で投げられていた。そうだ。今、瑪瑙は不意打ちとはいえ、陽平を投げ飛ばしたのだ。あの小柄で、あんな無茶な態勢で、しかも陽平が倒れる向きに逆らったにも関わらず。
(あれは柔道なんかでいう普通の投げ技じゃねぇ。足を払うまでは確かに普通だったけど、投げ自体は合気道……に近かった)
 だが、実のところ投げ自体に大した興味はない。問題なのは、投げられた瞬間、陽平は受け身を取りやすい態勢に転がされたのだ。
(ありゃぁ……日向さんが使ってた技にそっくりじゃねぇか)
 舞いと風の巫力の合わせ技。修行中、日向は、それが風雅流戦舞だと教えてくれたが、それを普通の女子高生が使えるとは考え難い。
 獣岬から五分くらい離れた同じ海岸で、瑪瑙は海を見下ろすようにピタリと歩みを止めた。
 ひょっとして瑪瑙は、ここから獣岬まで走り、陽平を投げたというのだろうか。だとしたら、風魔の兄妹が使っていた歩法などとは比べ物にならない速度で走ったことになる。
(天城瑪瑙…、いったい何者なンだよ)
 それにしても、後ろからついてきていることはわかっていただろうに、当の瑪瑙はまるで意に介していない様子。現に、少し離れているとはいえ、今もこうして背後に立っている陽平に声をかける素振りすらない。
 どうやらこれは、完全に無視されていると言っても良いだろう。
「おい、天城…!」
 少し強く声をかけてみるが、瑪瑙は振り返る素振りすら見せない。なるほど。どうやらかなりご立腹らしい。
(ったく、しっかり怒気だきゃぁこっちに向けてやがるし)
 しかしこちらも尋ねたいことがある以上、この程度の障害に屈しているわけにはいかない。
 多少強引ながらも隣りに立ち、可能な限り瑪瑙の視界に入り込む。
「天城、聞きたいことがある」
 一瞬だけ視線がこちらを向いた。あからさまに迷惑そうな視線を向けられたが、これは大きな前進だ。
「理由はわからねぇけど、お前が俺にいい印象持ってねぇのはわかってる。今もなンか怒ってンのはわかってる。それを承知で話がある」
 反応はない。しかし、陽平に興味を持ってくれたのか、先ほどから感じていた怒気が和らいだ気がした。
「頼む…!」
 手を合わせ、拝むように頭を下げる陽平に、瑪瑙はわからない程度に溜め息をつくと、ようやく視線を向けてくれた。身体はそのままというのは、おそらく「聞くだけだ」という意思表示。だが、それでもかまわない。今は聞きたいことがあるだけだ。
「サンキュ…」
 お礼に対し、瑪瑙が瞳を伏せたのは「気にするな」という意思表示だと受け取り、陽平は先ほどから疑問に思っていたことを口にした。
「天城…、俺を助けてくれたのか?」
 投げられたあの場面、傍から見れば自殺をしているようにも見えるということに、今更ながら気がついた。最近になって向上した身体能力が、周囲と比べると超人級であるということをついつい忘れがちなのだが、確かに他の人間が岬から前のめりに倒れれば、陽平だって助けに入るだろう。
「貴方とわかっていれば、助けたりはしませんでした」
 さり気なく身も蓋もないことを言われてしまった。
「そ、そんなに俺のこと嫌いかよ…」
 再び瞼を伏せる瑪瑙に、「何を今更」と無言で言われた気がした。
 崩れ落ちそうになる気持ちを立て直し、更なる疑問を瑪瑙にぶつける。
「ここから俺を助けにきたのか?」
 まただ。また目が語っている。「それがどうかした」とでも言っているのか、そろそろ鬱陶しそうな視線になってきた。
「あ、天城って足早ぇンだな」
「…はい」
 今、一瞬だけあった間に溜め息が混じった気がする。
「わたしからも聞きたいことがあります」
 初めて瑪瑙からまともな言葉が返ってきた。
「貴方には幼馴染みがいますよね……男の子の」
「ああ。貴仁だろ? 同じクラスの安藤貴仁」
 陽平の提示した回答に、瑪瑙はただ黙って頭を振る。
 違う。貴仁ではないのだとしたら、他に男の幼馴染みなど…。
(…いる)
 不意に脳裏をかすめていくひとつの名前。それはあの日から一度たりとも口にすることのなくなった名前。
「……じゃあ」
 陽平が別の回答を持ち出してきたのが予想外だったのか、今、瑪瑙の意識がハッキリと陽平に向けられた。
「星浩介【ほとほりこうすけ】…」
 刹那、陽平の頬を乾いた衝撃が走った。

 一瞬、勘違いかと思ったが、どうやら目の前にいる少女に叩かれたというのは間違いないらしい。
 悲痛な面持ちで、かつ怒りのまなざしで陽平を睨み付ける瑪瑙は、その澄んだ瞳から大粒の涙を溢れさせていた。
「なんで……覚えているんです」
「天城…」
 人を叩いたことなどなかったのだろう。陽平を叩いた右手を胸の前で抱き締める瑪瑙は、先ほどまでとは別人のように激しい感情をぶつけてくる。

「なんで覚えているのに……忘れてたふりなんてしたんです!」
 忘れてたふり。瑪瑙の言うとおり、陽平はずっと忘れてたふりをしてきた。親友だった彼が文字通り消えてからというもの、彼を探す陽平の姿は周囲には奇異に映った。それが異常であると、そう突き付けられたのだ。だからこそ陽平は普通≠フ皮を被り、周囲と同じになった。
 だけど、ここにいたのだ。ただ一人、陽平と同じく消えた者を覚えていた者が。
「貴方は親友だったはずなのに……あんなに仲が良かったはずなのに…!」
 瑪瑙の見せる激情に、陽平は返す言葉が見つからなかった。
 刹那、不意に襲いかかった突風が二人の間を割いていく。
 咄嗟に顔を隠しながら周囲を伺えば、見えないなにかがありありとその巨大な存在感を感じさせる。
「この気配……忍巨兵かっ!?」
 陽平の言葉を肯定するかのように、二人の目と鼻の先である海上に真っ白ななにかが浮かび上がる。それは黒い紙に水をたっぷりと含んだ絵の具を落としたときに似ている。
 白い身体をいっぱいに伸ばし、純白の翼を大きく広げる。それは陽平を威嚇するかのように翼を羽ばたかせ、ありったけの感情を言葉で叩き付けてくる。
「メノーをイジメルなっ!!」
 巫力の籠った突風が放たれ、陽平は咄嗟に風牙で風を引き裂いていく。
 風の向こうに現れた白馬……いや、双翼を持つ天馬の姿に、陽平は椿の言葉を思い出す。
「そうか。てぇめぇが逃げ出した忍巨兵かよ…!?」
 天馬の忍巨兵は答えない。だが、数多くの忍巨兵を見てきた陽平には、不思議とこれが忍巨兵だということだけは理解できた。
 この忍巨兵には風雅の当主が危惧するほどの兵器が装備されていると聞いていたが、見た目それらしいものは見当たらない。むしろ、角がない分森王や輝王よりも幾分か力不足にも見えるし、色のためか翼や角がなかった戦王よりもひ弱に感じる。
「なんで逃げ出したっ! 答えろ、天馬の忍巨兵っ!!」
「オマエ、うるさいよ…」
 今までの忍巨兵とは違い、威厳とはかけ離れた無邪気な子供のような声に、陽平は少なからず違和感のようなものを感じていた。
 忍巨兵が元は人間だったということは聞いて知ってはいたのだが、陽平の知る限り、こんな幼い子供が忍巨兵になっていた例はない。
「ねぇねぇ。こいつやっつけちゃってもいいよね?」
 物騒なことを言う忍巨兵だが、その言葉が本気だということはわかっている。
 力ずくで取り押さえるしかない。懐の獣王式フウガクナイに手を伸ばし、それと同時に陽平の表情が戦士のそれへと変わる。
 こちらに対して少しでも危害を加えてくるようなら、残念だが竜王の牙が食い破るしかなくなる。だが、瑪瑙がいるからなのか、天馬の忍巨兵がこちらに対して直接攻撃に出る気配はない。
(どういうことだ。天城は……忍巨兵に選ばれたってのか!?)
 忍巨兵に選ばれた勇者忍軍には、風雅と無関係なものは誰一人としていなかった。そうなると、瑪瑙もまた風雅の関係者なのか。
 そんな疑問が脳裏を過ぎった瞬間、時非市市街地になにかが落ちた。
 それは落下点を中心に円形に拡がる衝撃波を放つと、問答無用でビル群を薙ぎ倒していく。
「な──ッ!?」
 遠目に見える不気味なオブジェは、それ自体が生命体であるかの如く脈動を繰り返す。
(忍邪兵なのか…?)
 だが、今までの忍邪兵とはなにかが違う。今までの忍邪兵は、紛いなりにも生物としての原型を保ったものたちだったはず。
 しかし、目の前のそれは生物は愚か、見た目だけで言えばガラクタの寄せ集めだ。
「考えてる暇はねぇ…! 天城、それにお前。話は後だ!!」
 慌てて駆け出していく陽平に訝しげな瞳を向けながらも、瑪瑙はちらりと遠目に見える忍邪兵へと目を向ける。
 最近は沈静化していたと思われていた風雅とガーナ・オーダの抗争。四百年前にあれだけの命を奪い、今の時代でもたくさんの犠牲者が出たというのにまだ続けるつもりなのか。
 僅かに怒気を含んだ視線を向けたまま、瑪瑙は隠し持っていた忍器──水晶之笛をキツく握り締めた。


















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