炎が上がっていた。
赤々と燃え盛る炎は、天正十年、織田信長と共に本能寺を焼いた。
信長の家臣であった明智光秀が、何故謀反を起こしたかは定かではない。
しかし、一つだけ確かなのは、今日この日をもって、織田信長は天下と共に、己の命を失った。
焼け落ちる本能寺を見つめ、光秀たちは何を思い、感じたのだろうか。
依然、弱まる事を知らぬ火勢が周囲を照らし続ける中、紅の巨兵が謀反を起こした男を見下ろした。
「ようやく、終わった」
あまりに巨大な戦友の言葉に頷くも、光秀の表情は依然として晴れることはない。
「十兵衛」
名を呼ばれ、見上げた友の姿に、光秀はわかっているとばかりに、ただ頷いた。
彼らの役目は終わった。
本来、この世界にあるべきではない異界の力。忍巨兵と呼ばれる彼らは、これ以上この世界にとどまるべきではない。
彼ら鋼の巨兵を纏める少女は、信長を討った後に忍巨兵を全て封じる決意をした。
元々、戦いが終われば破壊するつもりだった彼らを、あえて封じる事になったのには理由があった。
織田信長率いる異形の武将たち。彼らは信長の命を受け、もう一年にも渡って、この地から離れていたからだ。
いつ戻らぬとも知れない信長の武将。彼らと渡り合うには、忍巨兵の存在は必要不可欠なのだ。
だからこそ、その日が来るまで彼らは眠りにつく。
永い、永久とも思われる時間を眠り、いつかまた、戦いという目覚めが来る時まで。
叶うなら、そのまま眠り続けることを夢に見て。
いつか、守るための心と、刃を持つ者が現れるその日まで。
不意に見上げた空に、一筋の星が流れた。
それはまるで、彼らリードの民が現れたその日を再現するような、そんな既視感を覚える光景だった。
勇者忍伝クロスフウガ
巻之弐弐:「白き王の帰還」
目が覚めて、最初に目にしたのは、木枠の格子だった。
石床に、申し訳程度に敷かれた藁敷きに寝かされていたためか、まるで筋肉痛を抱えて朝を迎えたような感覚に見舞われる。
いったい、どれだけの時間を眠り続けたのだろうか。
そもそも、自分がどうして眠っていたのかを、思い出す事ができなかった。
藁敷きの上に胡座をかき、腕を組んで考え込んでみる。
首を捻りながら思い出したのは、竜王を庇って文字通り真っ二つにされた盾王の最期と、双武将に囚われた愛しき姫の姿。
そこまで思い出した瞬間、陽平は弾かれたように立ち上がると、木枠の格子に体当たり。慌てて周囲の状況を見渡していく。
ぐるりと視線を巡らせてみたところ、人影らしきものは見当たらない。
陽平がいるのは、六畳ほどの広さの石室で、目の前の木枠以外は完全に石の壁だ。
ようするに、世間一般で言うところの牢屋に当たる。
よもや、ガーナ・オーダに捕縛されたのかとも思ったが、それにしては警備状況が薄過ぎる。
舐められているのだろうか。そんな事まで考えたが、ガーナ・オーダにしては陽平に対する気遣いが出来過ぎている気がする。
いくら捕虜とはいえ、ガーナ・オーダがわざわざ藁敷きの上に寝かせるだろうか。
「ありえねぇ」
思わず口にしてしまうほどに、想像できない光景だった。
とにかく一応の状況は理解した。
ならば、これ以上大人しく捕まっていてやる必要もなかろうと、陽平は自らの衣服をまさぐっていく。
どうやら武器の類いは抜かれているらしく、肝心の獣王式フウガクナイも見当たらない。
どうやら、また一つやることが増えてしまったようだ。
木枠ごと叩き斬ってやろうかと思ったのだが、ここはセオリー通りに鍵を開けて出ていくことにしよう。
靴の裏に仕込んでいた針金を引き抜き、かけられた大きな錠前を確認する。どうやら思った以上に、簡単に開けられそうだ。
針金の先を適当な形に折り曲げ、錠前の鍵穴に針金を差し込んでいく。
中の形を確かめるように何度か動かし、見極めた瞬間には、錠前がカチン、と音を立てて外れていた。
腑に落ちない。どうにも簡単過ぎる気がする。
ひょっとすると、陽平をここに閉じ込めた相手は、最初から捕まえておくつもりがなかったのかもしれない。
お世辞にも手触りの良いとは言えない木枠の戸を開け、冷たい石室から堂々と抜け出すと、もう一度確認のために周囲をぐるりと見回してみる。
「地下か」
陽平がそう思うのも無理はない。
ここには、窓は愚か、外の見える穴すらないのだから。
あるのは、出口なのか入口なのかわからない階段くらいなもの。あとは蝋燭を立てる皿が置いてあるのと、巫女姿の少女がこちらを見て硬直しているくらいなものだ。
奇異の目を向けられているわけではなく、かといって恐れられている風でもない。
こちらの様子を伺うように、階段の途中から覗き見る少女は、陽平と目が合うなり、回れ右して走り出した。
「お、おい!」
こちらも、慌てて少女の背中を追いかけながら、一瞬だけ見えた少女の顔を思い出す。
まさかとは思いながらも、駆けていく後ろ姿が陽平の知る少女とぴったり一致する。間違いない。あれは、陽平が命懸けで守り抜くと誓った姫君の姿だ。
「翡翠っ!」
その名を叫び、逃げる背中を追って外へと飛び出していくと、階段の中まで差し込む強い日差しが、今が昼間であることを教えてくれる。
暗いところから突然明るいところに出たために、突き刺すような陽光の眩しさに目が眩む。
それは、文字通り瞬きの間だったはずだ。それなのに陽平は翡翠を見失い、そしてどういうわけか囲まれていた。
今の一瞬で現れたのだろうか。いや、彼らはただ、潜んでいただけだ。息をひそめて気配を殺し、身を隠して風景に溶け込む術。忍術では最も知られていると言っても過言ではないその術の名を隠れ身の術≠ニいう。
十数人の忍者に囲まれ、その一人一人が手にした武器が、陽平の命を確実に奪いに来る。
刀が、手裏剣が、陽平の急所を捉えようと何度も閃いたが、その度に陽平は紙一重で全ての攻撃をかわしていく。
鎖分銅が足を取り、引かれる力に抵抗しながら、陽平は右手の土遁と左手の風遁をまとめて足下に叩き付ける。
「風雅流、爆土っ烈風鎚ィ!」
陽平を中心に大地が爆発し、竜巻が忍者たちを根こそぎ薙払う。
吹っ飛んだ者には目もくれず、堪えながらも怯んだ者は、片っ端から拳や蹴りをお見舞いする。
場が鎮まるのに、それほど時間は必要なかった。
ほとんどの者が塀に叩き付けられたり、急所を強打されて気絶しているようだが、殺すつもりで来たのだ。多少の怪我くらいは、大目に見てもらおう。
そもそも、そんなことよりも翡翠の行方の方が気になる。
知覚領域を広げ、周囲から感じる視線の束を振りほどき、陽平は真正面の門越しに集まりつつある手勢に、またかとあからさまに舌を打つ。
腰溜めにした右手に巫力を集め、力の流れを意図的に変える。
「穿牙ァ!」
叩き込んだ拳が門に突き刺さり、拳から散るように門に流れ込んだ巫力が、門に人が一人通れるほどの大穴を開通する。
「プラス、角牙……」
パラパラと崩れ落ちる木の破片を鬱陶しそうに払い除け、たいした警戒もせずに門の向こう側へと穴を潜り抜ける。
目の前に集まる者たちは、誰一人として武器を持ってはいなかった。
しかし、まさか門を突き破ってくるとは、思ってもみなかったのだろう。口々に「化け物だ」などと言われているようだが、それはあまりに心外だ。自分などとは比べ物にならない化け物を、陽平は良く知っている。
目の前に広がる人垣を、端から端まで一通り見渡してみたが、どうやら自分がハメられたらしいことに、ようやく気がついた。
なんとなく雰囲気こそ違えど、建物などには覚えがある。あくまで仮説にすぎないが、ここはおそらく風雅の里だ。
風雅の者たちが陽平を殺す道理はない。つまり、陽平は試されたのだ。
それを肯定するかのように、人垣から進み出る少女の姿に安堵の息を漏らしながらも、陽平は少女を迎えるべく自らも歩み寄る。
「まったく、冗談キツいぜ」
巫女姿の翡翠に若干の違和感を覚えながらも、陽平はできるだけ平静を装って翡翠が近付くのを待つ。
しかしどうしたことか、翡翠はいつものように駆け寄るでもなく、陽平と触れ合えそうな距離を保つと、じっと陽平の瞳に視線を合わせてくる。
透き通るような瞳だ。全てを見通すような、澄んだ目をしている。
そういえば、以前同じ事を感じた人がいたはずだ。あれは確か……
「こはく」
その名は自然と口にする事ができた。
だが、そんなことはありえない。陽平の知る琥珀と言えば、風雅忍軍の当主であり、また、全ての巫女を束ねる統巫女でもある、凛とした女性だ。年齢までを聞いたことはないが、少なくとも陽平よりは年上だったと記憶している。
それなのに、自分はいったいどうして、こんな少女を「琥珀だ」などと思ったのか。
いや、まだ少女は自らを琥珀だとは言っていない。決め付けてしまうのは、些か早計過ぎる。
だが、そんな陽平の思考を遮ったのは、やはり目の前の少女であった。
「どなたでしょうか」
その言葉一つで思い知らされた。この子は、今目の前に立つ少女は、翡翠ではないと。
「はい。確かにわたしは、翡翠ではありません」
だが、そう告げる声も、容姿も、陽平の知る翡翠そのものだ。
だが、彼女が琥珀であると、決定付けるものがある。
陽平の持つ特殊な瞳──鬼眼。これで相手の心を見るのは、陽平の知る限りでは、琥珀唯一人だ。
「仮に琥珀さんだとして、なんだってこんなに小さく……いや、翡翠になっちまったンだ」
それは、少女に対する質問と言うよりも、半ば自分への問い掛けのようなもの。
これではまるで、琥珀と翡翠が双子のようではないか。
「わたしからも質問です。あなたはどうして、翡翠≠知っているのですか」
その言葉の意味するところがわからない。これはもう一度、改めて自分の置かれた状況を再確認する必要がある。
ガーナ・オーダ鎧の双武将との戦いの最中、陽平は竜王でガイ・レヴィトを追い詰めた。
しかし、問題なのはここからで、追い詰めて、暴竜の姿で遁煌陣を使用した陽平は、その後の記憶がぷつりと途切れてしまっていた。
気が付けば、先ほどの石造りの牢屋で寝かされていた。
「あの……」
突然黙り込んでしまった陽平を不審に思ったのか、心配そうに見上げる少女に、陽平は慌てて頭を振る。
「貴方の言う竜王とは、ひょっとして忍巨兵の事ですか?」
今の質問で確信を得ることができた。
彼女は琥珀ではない。少なくとも、陽平の知る琥珀とは、別人ということになる。
だが、どうしたことか。一向に応えようとはしない陽平に何を思ったか、少女は不安の面持ちで見上げると、唐突に深々と頭を下げるのだった。
「貴方様の心を読むような、無礼な真似をしたことは謝ります。ですが、どうか一つだけ質問に答えていただけませんか」
どうにも、状況がよくわからない。
謝るのはそこだけかと、ツッコミを入れてやりたいし、心が読めるわりには妙に質問が多い。
ちらりと視線だけ動かして様子を見てみれば、少女は泣きそうな表情を見せたまま、じっと陽平の返事を待っている。
どうにも子犬チックな子だ。
少々のやり難さを覚えながら後頭部をぽりぽりと掻き、負けたとばかりに両手を上げる。
「負けたよ。なんでも聞いてくれ。お前の質問に答えてやるよ」
半ば諦めモードに入った陽平は、好きにしてくれと言わんばかりに、自嘲的な笑みを浮かべる。
悔しいが、あの顔を見て黙っていられるほど、陽平と翡翠の絆は浅くはない。
そんな陽平にホッとしたらしく、小さな胸を撫で下ろした少々は、「では一つだけ」と、人差し指を立てた。
「貴方の知りうる限りの全てを、わたしたちに教えてください」
「は?」
陽平は己が耳を疑った。一瞬、聞き間違えたかと首を傾げるが、「一つだけ質問に答えてくれるんですよね」と、小悪魔チックな笑みを浮かべる少女に、陽平はやられたとばかりに肩を落とした。
子犬だと思っていた少女が子狐だとわかった直後、陽平は見知らぬ一室に通された。
風雅の里で通されていた部屋と良く似ているようだが、少なくとも襖紙の模様が違う。
ぐるりと見回してみたが、全体的な差異を探していてはキリがなさそうだ。
結局のところ、ここは風雅の里ではないのだろうか。
ただ、ぼーっと天井を見上げながら、そんな考えを巡らせていた陽平は、近付く二つの気配に表情を引き締めると、自然な動作で姿勢を正しておく。
足音から察するに、近付いているのは二人。大人と子供が一人ずつ。
大して作法を気にする様子もなく開かれた右手の襖に視線を向け、入室してきた人物を素早く観察する。
大人の方は、男だった。見た目では陽平の父、雅夫と同じくらいかそれ以上に見えるが、滲み出す貫禄が既に五十を超えているだろう事を物語っている。
だが、肝心なのはそこではなく、彼の格好──衣服の方だ。
頭髪を髷に結い、更には紋付き袴などと、いったいいつの時代の人間かと、思わず喉の辺りまでツッコミが出かかってしまった。
もう一人の子供は、大方の予想通り先ほどの子狐……もとい、琥珀と思われる少女だった。
二人は陽平の視線を気にする風でもなく、部屋の中を進んで行くと、これまた当たり前のように陽平の向かいに座する。
威風堂々という言葉が似合いそうな男は、陽平の不機嫌そうな視線さえもものともせず、ニヤリと笑うと、徐に懐から大振りのクナイを取り出した。
「これは、お主が持っていたものだ」
獣王式フウガクナイ。陽平の運命を大きく変えた物であり、パートナーの忍巨兵、獣王クロスを繋ぐ忍器でもある。
現在は勾玉を竜王のものに変えてあり、本来の黄色とは違う蒼い勾玉が柄尻で輝いている。
それを見た瞬間の陽平の微妙な変化に気がついたらしく、男は満足そうに頷きながら腕を組む。
どこか雅夫に似ていて親近感を抱くものの、彼らの正体が分かるまで油断するわけにはいかない。
陽平の見守る……というよりも、睨み付ける中、男は自分の膝前に獣王式フウガクナイを置くと、もう一度懐から何かを取り出した。
だが、それを目にした瞬間、陽平は思わず声をあげるほどに驚愕の表情を晒してしまう。
「そんなばかなッ! これって……どういうことだよ! なんでアンタがそれを持ってンだ」
目の前に置かれた二振りの大きなクナイ。それは紛れもなく、獣王式フウガクナイそのものだった。
それどころか、なんと柄尻には、獣王との繋がりを表す黄色の勾玉がはめ込まれているではないか。
これはさすがに、陽平でなくとも驚いた。
確かに、この世には二つの獣王式フウガクナイが存在する。
陽平の持つ、と言っても今は目の前の男が持っているのだが、蒼い勾玉がはめ込まれたクナイと、リードの皇、釧が持つ混沌の獣王用のもう一振り。
だが、そのどちらでもないもう一振りが目の前にある。
「率直に聞こう。お主は何者で、何処から来た」
なるほど。正体不明はお互い様ということらしい。それならば陽平のできることは一つしかない。
意を決し、深呼吸で自らの緊張と警戒を解くと、陽平は穏やかな表情で己が名を口にする。
「俺は風雅。勇者忍軍竜王忍者が忍び、風雅陽平だ。アンタたちは?」
互いに腹を割って話すには、まずは自らが話す事で相手の警戒を解く以外にない。
しかしどうしたことか、男は何かに驚いたような表情を見せると、すぐに口元を緩め、更には雅夫に似た不敵な笑みで豪快に笑い出す始末。
「何がおかしい」
ムッとして尋ねる陽平に、男は「すまん、すまん」と適当に謝ると、今度は手をついて頭を下げる。
「ワシは明智光秀。親しき者には十兵衛と呼ばれておる獣王忍者の忍びだ。近頃は名乗らずとも知っておる者ばかりでな。どうか許されよ」
「は?」
その名には、当然ながら聞き覚えはある。
明智光秀。天正十年に、本能寺にて織田信長を討った裏切りの武将。
それこそ有名人どころの騒ぎではなく、歴史の教科書に載ってしまうような人物だ。
「風雅の者ならばこちらの娘は知っていよう。なぁ、琥珀」
「いえ、十兵衛さま。わたしがこの者を知りません」
「なんと。では、彼はリードの者ではないと?」
十兵衛の言葉に頷く琥珀に、陽平は思わず立ち上がっていた。
「ちょっと待ってくれ! 明智光秀って……ウソだろ?」
驚きを身振り手振り付きで訴える陽平に、十兵衛は背筋を正したまま頭を振る。
「ワシは正真正銘、明智光秀だ」
「そんなバカな。だって、明智光秀っていや天正の頃の人間だぞ! なんだって……」
そこまで口にして、ようやく一番ありえなさそうで、しかしながら、一番正解に近い回答に気がついた。
襲ってきた忍者。小さな琥珀。そして、目の前の紋付き袴姿の男、明智光秀。
それらを総合した答えは、過去≠ニいう単語以外に思い当たる節がない。
「た、タイムスリップしちまったってのかよ」
いったい何が原因かはわからない。しかし、どうやらここが、過去であることは間違いないようだ。
思わず顔を見合わせる十兵衛と琥珀は、大袈裟に苦悩する陽平を見上げた後、やはり二人同時に首を傾げるのであった。