この日、国際連合異常犯罪対策部隊日本支部基地では、本年度六月から続く一連の事件について、各国の部隊責任者たちが何度目かの議論を行っていた。
 巨大な円を象ったデスクの中心には、CGで作られた獣王クロスフウガの立体映像が浮かび上がり、円卓に座る部隊長たちは、手元の資料に目を通しては溜め息を繰り返していた。
 ある者は人類の無力を嘆き、ある者は無慈悲に振り下ろされる刃に怒りを唱える。
 結局、対策部隊などと旗を掲げながらも、何一つ対応できちゃいない。これが現実だ。
 先日、日本の首都で起きた戦闘行為に関してもそうだ。
 都心にあれだけのダメージを残した戦いにおいて、国連軍ができたことといえば事後処理くらいのもの。
 誰かを助けられたか。何かを撃退できたか。一つでも、守れたか。
 すべての回答に対して、この場にいる誰もが、首を縦に振ることはできなかった。
 一部の国は、戦闘は戦える者に任せ、救済活動にこそ尽力すべきと意を唱え、また一部の国は戦闘を正体不明の者に任せるわけにはいかぬと、軍備増強にこそ力を入れるべきだと声を荒げる。
 異常犯罪対策部隊最高責任者、夜鷹奈緒【ヨダカナオ】は、どこにでも見られる水掛け論の光景に頭痛を感じながらも、人類が再び直面した非常識とも言える現実に頭を悩ませていた。
 一番の対策は、あの機動兵器を有する一団を味方に付けること。
 あれだけの機動兵器を次から次へと出してくるのだから、それなりに大きな組織と睨んでいるが、残念ながらそれらしい組織の情報は、依然として掴めぬままだった。
 別に、軍に入ってもらう必要はないのだ。ただ、純粋に彼らの力を借りたい。あれには人類が求めて止まない救済の力がある。
 人々はあれを、救世主だとか英雄だとか、ときには勇者などと呼称するが、奈緒にとっては神にも等しい力に思えて仕方がなかった。
 数十年前、今と同じように未知の脅威に晒された人類を守った巨大人型機動兵器は、当時まだ幼かった奈緒にとっては奇跡を起こす神さまだった。
 きっと、今回も彼らの力に縋るしかない。だからこそ、そんな彼らを支援できればと考えているのは、この場において自分だけなのだろうか。
 あの日、世界が絶望に包まれたとき、ここにいる者たちは見ていたはずだ。
 絶望に追い込まれ、孤立し、誰もが諦めかけたとき、あの巨人が希望となった瞬間を。
 何も結論の出ない会議を終えた奈緒は、すぐに退席すると、早足で執務室へと戻っていく。
 途中、携帯電話で秘書を呼び出すと、奈緒はある人物にコンタクトを取るように命じる。
 コードネーム"凪【ナギ】"と"十字架【クルス】"。
 報酬次第では人殺しから盗み、潜入、護衛と、なんでもやってくれる請負人たち。
 裏の世界でも名の通った二人は、奈緒にとっては旧知の人物でもあった。
 以前にも、この二人には何度か仕事を頼んだことがあったが、あまりに完成された実力を持つ二人は、他の請負人とは一線を画していた。
 おそらく、今回の依頼をするに相応しい人物は、彼らを置いて他にない。
 執務室に戻った奈緒は、応接用のソファーに座り、一つ溜め息をつく。
 機動兵器の組織を支援するにせよ、追うにせよ、まずは彼らを知り、接触する必要がある。
 初めて彼らが現れ、今までで最も目撃例が多く、最も敵に狙われてきた場所。それらが示す近似点、"時非市"。
 機動兵器と共に、何度か現場で目撃されている黒装束の人物たちの体格から、少年ではないかと考えられたため、捜査地域を高校周辺に限定する。
 以上の二点から浮かび上がる潜入先は、"私立時非高等学校"。
 既に手元に届いている分の資料に目を通し、それぞれにクリップで添付された写真を卓上に並べていく。
 風雅陽平、桔梗光海、風間柊、風間楓。以上四名の内いずれか、または全員が、あの機動兵器と関わりがあるのではないか。これが先行して調査を進めていた蓬莱光洋大尉の見解だった。
 もっとも、光洋が忍巨兵のパートナーで、かつ風雅忍軍と関わりがあることは軍には明かされていない。
 虚偽報告をすることで事実を曖昧にする。即ち時間稼ぎこそが光洋の狙いだった。
「また、少年……」
 奈緒は誰にともなく呟き、数十年前の出来事に思いを馳せる。
 本当に一部の人間だけが知る驚愕の事実。それは、過去の機動兵器の一団が、まだ二十歳にも満たない少年少女のみで組織されていたということ。
 今回の事件が起きてすぐ、奈緒は当時一団のリーダーを務めていた少年と……いや、少年だった人物と面会した。
 年齢のわりに若々しい姿をした彼が、落ち着いた面持ちで奈緒に語って聞かせたのは、推測と呼ぶことさえばかばかしくなってしまう、妄想じみた夢物語だった。
 しかし、それは夢でも、ましてや妄想でもない。彼らが真に体験した出会いと別れであり、おそらく今このとき新たな少年たちが迎えている現実なのだと彼は語った。
 もし、それが真実ならば、それらに抗う力のない人類は、滅びを宣告されたようなものだ。
 せめて、彼らにもう一度立ち上がってはくれないかと懇願もしたが、彼ら自身、もう強大な力と戦うすべがないことを、彼は静かに語ってくれた。
 だけど、「希望はある」と。
 その希望が、昨今姿を見せる機動兵器の一団を指しているのかはわからなかった。しかし、「人類はまだ、それほど捨てたものでもない」らしい。
 本日何度目かの溜め息をつき、奈緒は祈るように手を握り合わせる。
 彼らが本当に希望となりうるかはわからないが、やはり何にせよ接触しないわけにはいかない。
「今の私にとって、希望となりうるのは、あのお二人のようですね」
「二人、ですかい」
 独り言に対して反応があったことに、奈緒は跳ね上がるように驚いた。
 今、自分はこの場に一人きりだったはず。にも関わらず、いつの間にか現れた黒いロングコートの男は、目と鼻の先にあるドアに寄り掛かり、無精髭の生えた顎を撫で擦りながら紫煙の上がる煙草を咥えてこちらを眺めている。
 胸に下がる銀の十字架が、彼の正体を教えてくれた。
「"十字架【クルス】"、できればノックくらいはして頂きたいのですが」
 心臓に悪いと苦笑いを浮かべる奈緒に、十字架と呼ばれた男はわびるでもなく、対面のソファーに腰を下ろした。
「あんたに呼ばれたんだ。それなりのヤマと睨んでるんだが」
「おっしゃる通りです」
「しかも"二人"だ。オレ以外にもう一人を呼んだってことは、アイツなんだよな、当然」
 十字架の言うアイツが、もう一人の請負人"凪"を指しているのはわかっている。
 彼らは、ときには味方、ときには敵同士と、幾度となく顔を合わせてきた。
 完成された実力者同士、なにか思うところがあるのだろう。
 そういえば"凪"も、十字架を意識しているような発言をしていたことがあった。
「アイツとオレが必要なんて、世界大戦でも起こすつもりですかい?」
「仕事については、もう一人が到着してから──」
 言葉を遮るように鳴り出した携帯電話に、十字架はどうぞとばかりに紫煙を吹き出しながら外方を向く。
 一言二言を交わしてすぐに電話を切ると、奈緒は失礼しましたと頭を下げた。
「お話の"凪"ですが、今は別件中とのことで、こちらには来られないようです」
「ハァン。あの野郎、逃げやがったな」
 さも面白くなさげに紫煙の輪を浮かべる十字架に、奈緒も残念だとばかりに頭を振った。
 しかし、一人になろうとも、やってもらうことは変わらない。
「あなたにお願いしたい仕事は、潜入になります」
 ようやく話を切り出した奈緒に、十字架は待っていましたとばかりに、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。







勇者忍伝クロスフウガ

巻之弐四:「監視者」







 陽平たち風雅忍軍が巨腕の忍邪兵を退けて、もう一月近くが過ぎようとしていた。
 大きな被害を受けた首都は未だに復興の目処がつかず、それを目の当たりにした他の国々も、同様の攻撃を受けるのではと怯え、世界の混乱は少しずつだが確実に広がっている。
 だけど、そんな混乱を見せる世界でさえ一時の休息と、平和を満喫しているのは、事件の当事者たる風雅忍軍の面々だった。
 特に風雅陽平は、つい一週間ほど前に、ようやく起き上がれるまでに完治。検査ということもあって、時非市と風雅の里を往復する日々が続きはしたけど、その合間に幼馴染みと出かけ……いや、デートしたりと、忙しない毎日を送りながらも確かに平和を満喫していた。
 それが、束の間の平和だとわかっていたから。だからこそ、楽しめるときには楽しむ。
 これは陽平が仲間たちと決めたことだった。
 なんだか曖昧になっていた光海との仲も、デートの一件以来ようやく落ち着きを見せ、陽平の悩みは少しずつだが、ひとつずつ確かに解消されようとしている。
 気掛かりなのは、ガーナ・オーダの動きと、翡翠の兄、釧の行方。そして陽平が新たに手にした力、獣帝マスタークロスフウガのこと。
 特に、獣帝には注意が必要で、その強大無比の力は周りも、そして自分自身さえも傷つける諸刃の剣だ。
 最強の力を手にする代わり、その使い手である陽平は、甚大な肉体疲労と精神疲労をこの身に受けることになる。
 肉体疲労に伴う筋肉痛と精神疲労に伴う巫力の一時的な使用制限により、陽平は丸一日もの時間、強制的に昏睡状態に陥っていた。
 風雅忍軍当主の琥珀と、忍巨兵技師の日向の話では、ある程度は慣れるはずだということだが、時間はともかく、強制睡眠と巫力の一時的な使用制限だけはどうしようもないらしい。
 つまり、獣帝を使用した後は無防備になるということだ。
 結論として、マスター以上の権限を以て獣帝への合体を承認されることとなった。
 つまり、陽平の主でありリードの姫でもある翡翠。風雅忍軍当主の琥珀。フウガマスターの称号を持つ風雅雅夫。そして奇しくも、リードの皇であり、陽平のライバルでもある釧。以上四名の内、誰か一人の承認が必要ということになった。
 承認システムという合体前の制限と、強制睡眠という合体後の制限。
 やはり大きな力には相応のリスクが必要なのだと、感じずにはいられなかった。
 しかし、彼らとて、獣帝にばかり頼るわけではない。
 今回の事件を教訓に、各忍巨兵の改良も怠ってはいない。
 過去の世界で合体システムを改良され、陽平なしでも戦闘可能になった獣王クロスフウガは、陽平の抜けた穴を埋めるべく更に改修が行われ、竜王ヴァルガーの中に五つある遁煌の内、機能していなかった中央の遁煌を獣王に移植することで、戦闘力の向上を計った。  更に他の忍巨兵にも改良を施し、巫力の運用効率をアップ。必殺技に必要な巫力の総量を減らすことに成功した。
 それもこれも、全ては改造を行うだけの期間があったからこそ。
 もっとも、その代わりに日向は過労で倒れ、今は風雅の里でゆっくりと身体を休めているらしい。
 実際に戦う陽平たちは、そういった改造期間を持てたことには感謝しているのだが、風雅の頭脳たちはここしばらく動きを見せないガーナ・オーダに、なにやら不気味なものを感じているようだった。
 陰で動くことこそ忍者の本領。それゆえに表立った動きが見えないのは、不安を感じる材料ではある。
 しかし、今の内に身体を休めよとの命令を受けている以上、平和を満喫している陽平たちは、大人しく風雅の里の調査報告を待つ以外になかった。
 結局のところ、今はこうして普通に過ごす以外にすることがないというのが現状だ。  こうして学校に通い、いつものメンバーでくだらない話で盛り上がる。自分がそんな当たり前の学生でいることに、少しでも違和感を覚え始めていることに、陽平はただただ苦笑を浮かべるしかなかった。
 それを不審に思ったのか、隣を歩く幼馴染みが不思議そうに首を傾げるが、陽平はなんでもないと頭を振ると、そそくさと教室の中へと逃げ込んでいく。
「おはよーさん。今日も無事に登校できてなによりや」
 朝からこんなセリフで出迎えるもう一人の幼馴染みに頬を引きつらせながらも、陽平は何事もなかったかのように挨拶を交わして自分の机に鞄を置く。
 何気なく振り返り、背後をぴったりとついてくる悪友の姿に溜め息をつきながらも、陽平は椅子を引きながら話を促すと、馬に跨がるよう背もたれを前にして腰を下ろした。
「なんだよ。なンかおもしれぇ話でも仕入れたのか」
「ほぉ。言わンでも気付いてくれたか。さすがや」
 いや、別に陽平でなくとも、こんな、いかにも何かを言いたそうな顔をしていれば誰だってそう尋ねる。
 そうでなくとも噂話の好きな男だ。なにか新しいネタを仕入れた日には、だいたいこんな顔をしている。
 やれやれと頬杖をつくと、貴仁が話しやすいよう「それで?」と促す。
「うん。実はな……」
「ウチのクラス、新しい先生が来るらしいよ」
 物理的にも会話的にも割り込みをかける少女の姿に目を丸くしながらも、陽平はどこかバツが悪そうに視線を逸せる。
「咲ぃ。わいの楽しみ邪魔するっちゅーのは、どーゆー了見や」
「楽しみもなにも、もうクラス中が知ってることじゃない」
 貴仁が話したからね、と付け加えながらもペロッと舌を見せておどける咲に、貴仁が不満の声を上げる。
「もぉ、咲も落ち着いて。みんなは知ってるかもしれないけど、私たちはまだ聞いてないんだし」
 当然のように会話に加わっている光海が仲裁に加わりつつ、結局いつもの四人が思い思いの立ち位置に陣取る。
 幼馴染みプラスワンの、いわゆる腐れ縁メンバーが揃うことで、ようやく陽平たちの当たり前の日常が姿を見せた。
 もっとも、椎名咲に告白された経緯のある陽平が、少々ギクシャクしてしまうくらいは誤差の範疇である。
「で。結局どういうことなンだよ」
「おう。それがやな。こないだの事件でセンセーの実家がなくなってしもぉたらしくてな」
 事件という言葉に、陽平と光海が僅かながら反応を見せる。
 無理もない。すべてでないにせよ、都市が壊滅……いや、消滅してしまったのだ。担任教師のように家や財産を失った者は、決して少なくはない。
 その原因とも言える事件の当事者としては、やはり後ろめたさを感じずにはいられないようだ。
「とにかく離れ離れになってしもぉた家族に一目会わんと、授業どころやないて飛び出してしもぉたンや」
「まぁ、人として当たり前の反応だけどね」
 そう言って哀しげな顔を見せる咲から目を背けながらも、陽平は今一度巨腕の忍邪兵を思い返す。
 正直、あれに勝てたのは奇跡だった。
 忍巨兵すらも凌駕する戦闘力と、忍邪兵のような重く冷たい生命の息吹。あれが織田信長の力の一端なのだとしたら、自分たちの戦おうとしている相手は神か悪魔の類いだ。  残念ながら、そんなものと戦おうというときに周囲の被害を考えるなど無茶もいいところだ。
(だからって、人を殺していい道理はねぇ)
 それこそ、あれを相手にしながら、よく被害をあれだけに抑えられたものだと褒められこそすれ、奮戦していた光海たちが責められるいわれはない。
 それでも、自らの無力を悔やみ、罪の意識に涙した光海に陽平がしてやれることといえば、側にいてやることくらいなものだ。側にいて、彼女を蝕む悲しみから守ってやる。それが、この時代に呼び戻してくれた光海への、せめてものお礼でもある。
「そういや、その肝心の新しい先生ってのはどんなやつなンだよ」
「おお。それがやな……」
 陽平の質問に、今思い出したとでもいうかのように手を叩く貴仁は、なにか奇妙なものでも見たような難しい表情を見せる。
「ぶっちゃけ、やたらと胡散臭いやつなんや」
「胡散臭い?」
 教師に胡散臭いなどという言葉が当てはまる例は、今のところ見たことがないが、存在自体が胡散臭いこの男が言うくらいだ。途方もなく怪しい風体の先生なのだろう。
 しかし、更に深く尋ねようと口を開いた瞬間、陽平の懐で何かが熱を発した。
 すぐにその意味に思い当たった陽平は、席を立つとトイレだと友人たちに断りを入れ、慌てて教室を駆け出していく。
 先の戦闘で、琥珀から託された額当ての形状をした通信装置、風雅之額当【フウガノヒタイアテ】。これを獣王式フウガクナイに納めている間に誰かから連絡を受けた場合、周囲の巫力を利用して持ち主に知らせる機能がある。
 ようするに携帯電話のマナーモードだと思えばいい。
 階段をひたすら上に駆け上り、重たい鉄のドアを押し開けていく。
 誰もいないことを確認してから屋上に出ると、陽平は念のため貯水タンクの上に飛び乗り、懐から獣王式フウガクナイを引き抜いた。
「もしもし……ってのも変か。こちら陽平」
 現在、この通信機に連絡を入れることができるのは、風雅の里しかない。ということは、今現在風雅の里にる誰かからの連絡ということになるのだが……。
 そう言って反応を待つ陽平は、少し間を置いて勾玉から現れた立体映像を凝視する。
 次第に鮮明になる映像が見知った姿を象る中、陽平は苦笑を堪えずにはいられなかった。
「あの……何かありましたか?」
「お願いが、あります」
 風雅の当主にして統巫女、琥珀が、今にも泣き出しそうな表情でそこにいた。






 風雅陽平は悩んでいた。
 突拍子もない話なのはいつものことだが、いったい自分は、何を求められているのだろうか。
 教室に戻ると同時にチャイムが鳴り、光海に相談する間もなく教室中が静まり返ってしまったため、この苦悩を一人で抱える羽目になったが、まったくもってどうすればいいのか。
 溜め息と同時に机に突っ伏すと、わからんとばかりに頭を掻き毟る。
 だが、そんなことをしていると、教室の外に誰かの気配を感じた。
 大きい。まるで、わざと自分がいることを知らせているような気配に、陽平はさり気なさを装い視線を動かした。
 曇りガラス越しに見える影はおそらく男のものだ。もっとも、陽平よりも高い背丈に広い肩幅を持つ女性というのも確かに胡散臭いが、貴仁の言う胡散臭さというのは別のことなのだろう。
 教室中の誰もがその影に気付き、自然と集まる視線が戸の向こうを凝視する。
 まるでそれを待っていたかのように戸を開き、姿を見せた男の姿に、本人以外のその場にいた誰もが一斉に眉を顰めた。
「よぉし。揃ってるな、生徒諸君」
 その男はずかずかと教卓まで進んでいくと、手にした名簿をばんっ、と机の天板に叩き付ける。
 確かに、これはむちゃくちゃ怪しい。
 まず、スーツの上からロングコートのように白衣を身に着けている。そして、トレードマークのような無精髭。更には、火がついていないとはいえ、学校内の、それも教室での咥えタバコ。そして首から下げられた銀のロザリオ。
 確かにこれは、あまり教師らしくはない男のようだ。
 そういう意味では本校の古典教師、伊達誠一──通称ダテちゃんといい勝負かもしれない。
 それに、普通の学生じゃ気付かないかもしれないが、残念ながら今の陽平になら分かってしまう。
 この男の身のこなしは素人のものではない。そう、例えるならば陽平の父、風雅雅夫と同じ、数多くの経験を踏まえた達人の動きだ。
 それに、さり気なさを装ってはいるが、この男の視線は自分と光海を交互に見つめている。
 ガーナ・オーダの刺客かもしれない。そんな疑いを持ちながらも、あえて目を合わせないよう机に伏したまま、話にだけは耳を傾ける。
「なぁるほどねぇ。いい面構えの生徒どもだ。よし、まずは自己紹介からだ」
 そう言って黒板に名前を書き始める男に、陽平はそっと顔を上げる。
 白いチョークがカツカツと音を鳴らし、深緑の黒板に名前が書かれていく。

来栖健吾

 書き終え、黒板をばんっ、と叩く教師に、教室中の視線が集まった。
 大きな音を鳴らすことで、自然と注目を集めているらしいことは分かる。しかし、意図が読めない。
「来栖健吾【クルスケンゴ】。さしずめ、来栖先生と呼んでもらおうか」
 いったい何を言い出すかと思えば。さしずめもなにも、それ以外の呼び方があるとも思えない。
 やれやれと小さな溜め息をつくと、来栖は再び教室内をぐるりと見回す。
「聞いた話じゃ、このクラスには忍者がいるらしいな。それに、戦国武将顔負けの弓の名手も」
 その言葉で、陽平と光海に教室中の視線が移動する。
 巧い。たったそれだけのことで、陽平は来栖と目を合わせねばならなくなった。
 なるほど。どうやら陽平が視線を外していたことに気付いていたらしい。
 これだけでも、この男が只者ではないことが窺い知れる。
「このクラスには剣道部や弓道部員も多いらしいな。なんだ、お前ら戦国マニアか?」
 そう言ってわざとらしく笑う来栖に、咲が質問とばかりに挙手をする。
「ん〜、椎名咲か。よぉし、質問を認めてやる」
 どこか疲れた表情を見せながらも立ち上がる咲は、一つ息を吐くと捲し立てるように口を開いた。
「来栖先生。まずはその口に咥えたままのものをしまってください。ここは学校ですよ。職員室ならいざ知らず、教室内で咥えタバコは非常識です」
「おお。悪い悪い。俺ぁこいつがないと落ち着かないタチでな」
 まただ。またわざとらしく笑い、タバコを白衣の胸ポケットに滑り込ませた。
「これで、構いませんかね。委員長」
 委員長なんかじゃないと抗議しつつも、願いが聞き届けられたことに咲は渋々と腰を下ろす。
 だが次の瞬間、教室中の視線が一斉に驚きに変わった。
 来栖の胸ポケットに黒い染みができたと思うと、次の瞬間には火がついたではないか。
「先生、胸!」
「火! 火がついてるって!」
 生徒が指を差して指摘するが、来栖はさして慌てるわけでもなく自分の胸元に視線を落とす。
「おお。こいつはまじぃな。誰か、水持ってないか」
 来栖の言葉に焦りがないことはわかる。だが、それに反して教室中は瞬く間に大騒ぎになっていく。
「先生! ジュースあるからこれで火ぃ消して!」
「お茶、私お茶あります!」
 慌てて差し出されたお茶に、視線を落とすと、何を考えているのか「悪いな」などと言いながらお茶を一気に飲み干した。
「先生! 飲んでどぉするの!」
「叩け! とにかく雑巾で叩いて消せよ!」
「いや、いいから白衣脱げって!」
 口々に叫ぶ生徒たちに愛想笑いを浮かべつつも、来栖は慌てるような素振りも見せず、大きな掌を火の上から胸ポケットに押し付ける。
「ばか! なにやってんですか!」
「手ぇ火傷してまで鎮火してどうするんです!」
「ん〜。火傷ねぇ」
 まったく意に介さない様子の来栖は、思わず立ち上がる生徒たちを制すると、何事もなかったかのように手を開いて見せた。
 驚くべきことに、そこには火傷どころか掠り傷一つなく、代わりに胸ポケットには溢れんばかりの花が差し込まれている。
 紳士ぶってその花を手に取ると、来栖は真正面の席に座る女生徒に差し出した。
「まぁ、こいつは挨拶がわりだ」
 突然見せられたマジックに一同がぽかーんと口を開ける中、唯一人、貴仁だけは「あのくらい、俺かてできるわ」などと対抗意識を燃やしていた。
 ちらほらと来栖に対して、凄いだの、面白いだのと意見が聞こえ始める教室で、陽平は無言のまま来栖に対して視線を投げ掛ける。
 まるで、わかっているとでも言いたげな不敵な笑いがこちらを見ている。
(野郎……)
 これだけ派手なことを仕掛けておきながら、来栖の注意は常に陽平に向けられていた。
 敵か味方かといった問答の必要はない。この男が陽平たちの秘密を探ろうとする者であることがわかっている以上、ここからは隙も情けも捨ててかからねばならない。
「よぉし。とりあえず授業なんざ何やりゃあいいかわからんからな。今日は自習だ。以上!」
 自習という言葉にワッと盛り上がる教室で、いくつかの思想が交錯し、陽平と来栖、二人の睨み合いは授業終了まで続いていた。













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