勇者忍伝クロスフウガ
特別編
『月夜の恋人』
数日後──。
陽平はやっとのことで到着した我が家の前で、盛大な溜息をもらしていた。
先日、風雅忍軍の協力者であり、また、風雅忍軍として戦う仲間たちの実姉でもある風魔椿の要請で、彼女の実家である奈良の山奥まで出向いたわけだが、まさか忍者としてのいろはを一日がかりで叩き込まれることになるとは思わなかった。
父・雅夫の行う修行とは違い、まさに勉強と称するにふさわしい過酷な特訓は、陽平の体力を著しく削り、解放されたのは今朝方。やっとの思いで帰宅したというわけだ。
「忍者修行の一環として歴史なんかはいいとして、なんだって数学やら英語までやらされたんだ俺は…」
どうやら修行ではさほど堪えていないらしく、体の不調よりも珍しく酷使したことによる偏頭痛に悩まされているようだ。
「しかも貴重な試験休みを使ってまで勉強させられるなんて…」
本来なら解放感でいっぱいの試験休み。久しぶりに骨董品屋にでも行って手裏剣でも漁ろうと思っていたのだが。
「まぁ、終わったことをとやかく言ってても仕方ねぇ」
そんなことを呟きながら家の戸を開けようとしたそのとき、まるでタイミングを見計らったかのように勢い良く戸が開かれた。
「よーへっ!」
謎の奇声と共に飛び出してきたそれを見事にキャッチすると、陽平は胸に押しつけられる柔らかな感触に目を白黒させる。
なんだかいい香りがする。柔らかいし、なにより悪い気はしなかった。
「……っじゃねぇ!! 光海以外に間延び族はいねぇはず。いったい誰だっ!?」
間延び族とは、陽平の名を「ヨーヘー」などと間延びした呼び方をする幼なじみ、桔梗光海を陽平が独自に分類したときのカテゴリー名である。
半ば無理矢理引き離された相手は、しかし気を悪くした様子もなく、手を腰の後ろで組んでにっこりと笑って見せた。
見た目は15〜6歳の少女だ。ちょん、と結ったポニーテールは彼女が嬉しそうに首を傾げる度に犬の尻尾のように揺れている。
ミニスカートから伸びた足は健康そのもので、なかなか理想的な体型をしていると思われる。
(足……速そうだな)
そんな見当違いの感想を抱きつつ、陽平は再び少女の顔を凝視する。
基本的に一度見た顔は忘れないようにしているのだが、不思議とこの少女に該当する名前が出てこない。
「ねぇ、どーしたの?」
下から覗き込むようにして見上げる少女に、陽平はどうしたものかと首を傾げる。
「よーへ?」
「あのさ、初対面だよな?」
陽平の問いに、少女は髪を揺らして頭を振った。
「…どこで?」
「よーへ、ホントにわからない? 一緒にお風呂だって入ったのに…」
少女の突拍子もない発言に、陽平は壁に頭を打ちつけた。
「ンなバカな!?」
「ホントだよ♪ よーへ、ご飯も食べさせてくれたよね」
あ〜ん、の真似事までする少女に、陽平はさらに頭を打ちつけた。
「俺はいつから夢遊病になってたんだ…」
刹那、背後に感じた視線に、陽平は少女を庇いながら横に跳ぶ。
一瞬遅れて、陽平の頭があった場所に突き立った矢に、陽平は額から玉のような汗を流した。
「殺す気かっ!?」
「女の子に手を出しておきながら『夢遊病か?』なんて姑息な手で逃げようとするばかなんて死んで当然でしょ?」
声は笑っているが目がぜんぜん怖いままだった。
いつからそうしていたのやら、弓を構える幼なじみの少女に、陽平はやれやれとばかりにズボンの汚れを払った。
まったくもって誤解もいいところだ。
そもそも、この見知らぬ少女が嘘をついている可能性だってあるのに。
しかし、そんなことはお構いなしに、光海はジト目で陽平を睨みつけた。
「ヨーヘー!」
「あンだよっ!」
「この子……どちらさま?」
それを尋ねていたら光海が狙撃してきたのではないか。とは言わないでおく。気が立っている今の光海にそんなことを言おうものなら、たちまち矢の餌食になる。
「ねぇ、ホントにわからない?」
少女の問いに、陽平は迷わず頷いた。
「あたしはかぐや。か・ぐ・や・だよ、よーへ♪」
「は?」
少女の言葉に陽平はぽかんと口を開けた。
かぐやと言えば、4日ほど前の早朝に、父、雅夫と共に山の中で見つけた謎の少女につけた名だ。
いわゆる竹取物語なシチュエーションだっただけに、かぐや≠ニ名付けて保護していたのだが。やはり安直過ぎただろうかと後悔している。
…ではなくて、かぐやと言えば、10歳前後の少女だったはず。それがどうだ。目の前にいる少女は自分をかぐやと名乗り、あまつさえ同一人物だと言い張っている。
確かに雅夫は「この子は美人に育つぞ」と言ったが、それとこれとは別問題だ。
「信じて…ない?」
「にわかに信じがたい」
かぐやの問いに、陽平は即答した。
「じゃあ質問して? あたしなんでも答えるから♪」
答えるから♪……じゃなくて、いったいどういうことか説明をしてほしかった。
しかし、かぐやはすでにやる気らしく、陽平の質問を今か今かと待ちかまえている。
仕方ない、と頭をかき、陽平はいくつかの質問をすることにした。
本物の、10歳前後の、竹から生まれたかぐやにしか答えられない質問。
「じゃあ、俺は今までどこに行ってた?」
「奈良だって言ってた。椿さんって人に呼ばれたんでしょ?」
正解だ。
出かける前、やたらとぐずるものだから、必死になって理由を説明してなだめたのだ。
「俺と翡翠の関係は?」
「忍者とお姫さま。あたしもお姫さまにして言ったらよーへ困ってたよね?」
また正解。
翡翠が自分を妹じゃないと言ってしまったために、かぐやの興味を引いてしまったらしい。
結局、リードや忍巨兵のことを伏せたまま延々と説明するハメになった。
本当のことを説明してしまうと、翡翠はガーナ・オーダに滅ぼされた惑星リードの姫で、忍巨兵獣王クロスの忍びとして陽平を選んだ張本人と言うしかなくなってしまう。
「俺の日課は?」
「雅夫パパと朝からランニング♪ その途中であたしを見つけてくれたんだよね?」
またまた正解。
すべてかぐやに説明した通りの回答が返ってきていることに、陽平はやれやれと溜息をついた。
どうやら彼女は本当にかぐや本人らしい。
「ねぇ…、まだわからない?」
「いや、十分だ。理屈はわからねぇけど、お前さんは本当にかぐやらしいな」
ようやく観念したと手をあげる陽平に、かぐやは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「しかしなんだってたったの一晩でこんなに…」
陽平が出かける前のかぐやと比較すると、身長も体型もかなり違うことになる。
「雅夫パパは寝る子は育つって言ってたわ」
育つにしても限度というものがあるだろう。
一晩寝てこれだけ育つなら、今もミンミンとうるさいセミのように一週間で人生を終えてしまうのではないだろうか。
ともかくだ。いつまでも玄関先でこんなことをしていても仕方がない。
本当なら風呂にでも入ってゆっくりコレクションの手入れでもしようと思っていたのだ。
「まぁ、そういうわけだから…」
そそくさと手をあげて玄関を潜ろうとした瞬間、陽平は咄嗟に歩みを止めた。
理由は語らずともわかるだろうが、あえて語ろう。
光海の構えた矢が後頭部にコツンと当てられているからだ。というか、なにゆえ音もなくそんなことをできるんだと問いつめてやりたいが、そんなことを口にすれば命はないだろう。
「まだ私、なぁんにも聞いてないけどなぁ」
さっきと同じ。顔は笑っているが声がぜんぜん笑えていない。
正直、ムチャクチャ怖い。
おとなしく両手をあげ、抵抗の意思がないことをアピールした。
(こうなったときの光海は手がつけられねぇからなぁ…)
「なにか言った?」
勘も鋭い。
どうやら本当に白状するまで解放する気はないらしい。
「とにかく落ち着けって」
「お風呂」
「は?」
なにを言ってるんだこいつは、と言ってやりたかったが、矢がぐいぐいと押しつけられては押し黙るしかない。
「お風呂……一緒に入ったの?」
「ノー」
即答した。というか、本当に入ってなどいない。
「あの子は入ったって証言してたみたいだけどなぁ」
「泡が嫌だ。一人は怖いって泣きわめくガキンチョを湯船に放り込むのを一緒に入る≠チてぇなら辞書ひきなおせ」
さすがにぐうの音も出ないらしい。
「じゃあ、ご飯一緒に食べたって…」
「一緒に住んでりゃメシだって一緒だろーが」
徐々に劣勢に追い込まれ、光海の語尾が小さくなっていく。
さすがに呆れてものも言えず、陽平はわざとらしく溜め息をつくと、取り落とした荷物を担ぎなおした。
「とにかく、かぐやのことはまた説明すっからさ。そう拗ねンなよ」
ぽん、と光海の頭を叩くと、誰の言葉も待たずに陽平は玄関を潜っていった。
ふと、かぐやの視線と光海の視線が交差した。
互いに言葉を発することなく見つめ合う。
光海の頬が微かに赤い。それがなにを意味するかを瞬時に悟ったかぐやは、なるほど、と人差し指を顎に押し当てた。
「よーへのこと、好きなんだ♪」
屈託のない笑みで告げられ、光海は自分の鼓動が早鐘のようになっていくのを感じた。
頬が熱い。おそらくかぐやはそのことにも気づいているはずだ。
「あなたはよーへのなに?」
尋ねられ、思わず回答に詰まる。
なにと言われても、幼なじみ以外の何者でもないわけだが、いつかはそれ以上になれたらな、などという想いもある。
しかし、光海の口から出たのは、まったく別の言葉であった。
「そういうあなたは誰? ヨーヘーのなに?」
「あたしはかぐや。よーへがつけてくれた名前があたしであり、それ以上にも、それ以下にもなれない存在」
かぐやは足取り軽く玄関を潜ると、ピタリと歩みを止めて光海を振り返る。
「ショーブだよ、光海」
わけがわからない。いったい何事なのかと聞き返そうとしたとき、かぐやはすでに風雅家の戸を閉じていた。
その夜、かぐやは主不在の陽平の部屋を訪れていた。
なにかしらイニシアチブがほしいのだが、出会って数日のかぐやと、付き合いだけは誰より長い幼なじみ、勝敗は火を見るより明らかだ。
「ちょっとだけ……いーよね」
キョロキョロと中を伺い、ひと気がないことを確認すると、かぐやは明かりのない部屋へと身を滑らせる。
最初は真っ暗でなにも見えなかったが、次第に目が慣れると、ある程度見渡せるようにはなった。
かぐやにとって、見るものすべてが新鮮だった。
とくに陽平という人物は極めて興味をそそる。
優しいかと思えばぶっきらぼうだったり、笑ったと思えば怒り出したり。
なにも知らないかぐやに、それらが感情だと教えてくれたのも陽平だった。
日に日に大きくなっていく心と身体。
かぐやの無意識は次第に陽平を欲し始めていた。
「よーへ、いないよね?」
いないことはわかっているが、念を押してから部屋の奥へと進んでいく。
そのとき、ベッドの上で動いた何かに、かぐやは毛が逆立つような勢いでビクリと跳ね上がる。
早鐘のような心臓を押さえつけ、足音を殺してそっと近づいていく。
一歩、二歩、と近づいたところで、再びなにかが動いた。
「誰かいるの?」
それはなにも答えない。
いや、まるで答えているかのように、もぞもぞと動いているではないか。
意を決し、そっと伸ばした指先がタオルケットを掴み、勢い良く引きはがしたその瞬間、それはもの凄い勢いでかぐやに襲いかかってきた。
「ようへいっ!」
「ひゃぅっ!?」
かぐやにしっかりと抱きついた少女は、胸に頬を寄せながら何度も陽平の名を連呼する。
突然の出来事にパニックに陥ったが、落ち着いて見ればなんてことはない。
かぐやは少女のことを知っていた。
「翡翠…?」
「ん…? ようへいちがう?」
眠たそうに目をこする少女──翡翠に、驚かさないでよ、とかぐやは溜息をもらす。
それにしても本当に驚いた。
いくら見えなかったとはいえ、抱きついたときの翡翠は獣のように素早かった。
翡翠はいつもこの調子で陽平に抱きついているのだろうかと思うと、悔しかった。
ほんの数日前までは、自分だって無邪気に抱きついていたのに、今では陽平に避けられる始末。
大は小を兼ねるというが、あまりアテにはならないと思った瞬間だった。
それにしても、どうして主不在の部屋に翡翠が眠っているのだろうか。
「翡翠、なにしてるの?」
「ん…、ようへいとねてた」
「よーへと?」
しかし当の本人はこの場にいない。
そういえばどこか陽平の匂いがする。なるほど、そういうことか。
「ようへいのふとん、たいよういっぱいのようへいのにおいする」
その手があったかとばかりに肩を落とすかぐやに、翡翠は小さく首を傾げる。
さすがは陽平のお姫さまといったところか。こちらが考えもしない手で攻めてくる。
「あ〜あ。あたしだってよーへのこと、いっぱい知ってるのに…」
ぼふっ、とベッドに倒れ込み、陽平の枕に顔をうずめる。
なるほど、確かにこれはいい。
ふと、そのとき陽平の机がチカリと輝いた。
いや、机が…ではなく、机の上にあるなにかが光を放ったのだ。
勢い良く体を起こしたかぐやは机に歩み寄り、光の正体を覗き込む。
「今の……これかな?」
それは銀色をしたビー玉サイズの球体であった。
あの日、かぐやを保護した日に、陽平が現場から持ち帰ったものなのだが、その事実を知っているのは当の陽平くらいなものだろう。
惹かれるものでもあったのか、それに手を伸ばしたかぐやは、二つの予感を感じていた。
一つはいい予感。これを手にするのは必然で、必ず必要なことだという予感。
もう一つは悪い予感。これを手にしたことで、なにかが起こってしまうような……そんな予感だった。
二つの予感に左右されながらも、かぐやはそれを拾い上げる。
手にしたそれは想像以上に軽く、逆に肩すかしをくらったほどであった。
「なーんだ。なにも起こら──」
かぐやの言葉が途切れた瞬間、翡翠はかぐやに向かって駆け出していた。
掌にある玉からは銀の光が溢れだし、暗い部屋を光で満たしていく。
「かぐやっ!」
必死にかぐやの名を叫ぶが返事はない。
その光が窓や戸、いたるところから溢れ出し、光の柱となって夜空に浮かぶ月へと消えていく。
その様子は、風雅家から遠く離れた場所にいる雅夫と陽平に、近くに住む光海に、そして、風魔の兄妹にも届いていた。
「親父っ!?」
「なにかあったな……、急ぐぞ」
雅夫の言葉に頷き、風雅の親子が夜の時非を疾走する。
「ヨーヘー…翡翠ちゃん!?」
慌てて上着を羽織り、パジャマのままで光海が飛び出していく。
「まったく、椿姉ぇのヤな予感ってのはよく当たるよ」
「おいていくわよ」
屋根から屋根へと飛び移り、風魔の兄妹──柊と楓が風雅家を目指す。
5人が風雅家に到着したのは、ほぼ同時であった。
そのときにはすでに光の柱はなく、静かな夜が再び風雅家にも訪れている。
「柊、楓…」
一つ年下の後輩の姿に、陽平はどうして…と呟いた。
「姉さんが雅夫さまから聞いていたんです。件のかぐや姫のことを…」
「そしたら椿姉ぇのやつ、アニキに良くないことが起こるかも〜なんて言うもんだからね」
二人の言葉になるほどと頷き、陽平は自室にあたる二階の窓を見上げた。
ガラスが割れているような様子はない。つまり、あれは光だけだったのだろうか。
そんなことを考える陽平に、光海が不安の面持ちで歩み寄る。
「なんて顔してンだよ」
「でも……、あの子なんでしょ?」
光海は昼間出会ったかぐやを思い出す。
どこか現実離れした印象を受けたのだが、どうやら間違ってはいなかったらしい。
「先輩、入らないんですか?」
「いや、親父がさっさと入ったからな。と、言ってるそばから出てきた…」
まるで何事もなかったかのように玄関から現れる雅夫に、一同は息をのんで言葉を待つ。
「全員入れ。話があるそうだ」
雅夫は誰がとは言わなかったが、おそらくはかぐやなのだろう。
促されるままに家に入り、かぐやのいるという陽平の部屋を目指す。
自分の部屋だというのに、どこか近寄りがたい空気を感じる。
意を決して戸を開けたそこには、陽平の椅子に腰掛けるかぐやと、ベッドの上でニワトリのクッションと格闘する翡翠の姿であった。
「待たせたな」
「ようへい!」
素早い動きで陽平に飛びつく翡翠に苦笑を浮かべながらも、光海は全員を適当な場所に座らせる。
「ってか、俺の部屋なのになんで光海が仕切ってンだよ」
「いいじゃない。勝手知ったる幼なじみの部屋だよ」
そーかい、と呟きながら、陽平はニワトリのクッションと戯れる翡翠の頭を撫でた。
「さてと…」
かぐやに向き直り、陽平は真剣な眼差しで少女の目線にあわせる。
「聞かせてもらえるよな? さっきの光のこと…」
「うん。それどころか、あたしの正体やこれからしなくちゃならないことも……ね」
かぐやの言葉に陽平は驚愕の表情を浮かべる。
彼女は赤子の姿で光る竹から見つかり、風雅家に保護されて今日に至る。つまり、事情を説明するだけの記憶はないはずなのだが…。
「あるよ……記憶」
まるで陽平の思考を読んだかのような回答に、陽平はまさか…、と首を傾げる。
「よーへが持ってたんだね。あたしの記憶…」
「俺はそんなもの…」
「このくらいの小さな玉、覚えてる?」
指で輪を作り、説明するかぐやに、陽平はあの日持ち帰った銀の玉を思い出す。
「あれが…記憶?」
呟くように答える陽平に、かぐやは無言のまま頷いた。
「あれには、何代にも亘るかぐやの記憶が封じられていました」
「かぐやって……どういうことだよ!?」
「まってヨーヘー」
思わず身を乗り出す陽平を光海が制する。
「その辺りも…教えてくれるんだよね?」
光海の問いに頷き、かぐやは昔語りをするかのようにぽつりと話し始めた。
「かぐやは、月の巫女なの」
まるで夜空を見上げるように語り出すかぐやに、柊も空を見上げてみる。
窓の外は良く晴れた夜の空が広がり、煌々と輝く月をより一層美しく映し出す。
「月って……あの月?」
夜空を指さす柊に、かぐやは頷いた。
「月には、この地球に存在するすべての負≠ェ集まるの。怒りや憎しみ、妬み、悲しみ……そのすべてが」
つまり、人が怒りや憎しみのみに身を任せることなく日常を暮らしていけるのは、月がそれらを少しずつ集め、浄化しているからだという。
「その浄化を行う巫女を月ではかぐや≠ニ呼ぶの」
しかし、いかに負の力を浄化できるとはいえ、かぐやもまた命ある者。いつかは力尽きることになる。
そのため、銀の玉にかぐやとしての記憶を封じ、次のかぐやへと使命を託すのだ。
「かぐやちゃんは月の巫女なのに…、どうして地球の竹から生まれたの?」
「光海は…家族の誰かが……ううん、身近な誰かが生涯をかけて浄化を行い続けなければならないとしたらどう思う?」
それは途方もなく気が遠くなりそうな話だ。
女としての人生を捨て、人としての生を捨て、地球から集められた穢れをただ浄化し続けるだけの存在。
「そんなこと…」
気安く嫌だ。可哀想。≠ネどと口にできようはずがない。
「それはつまり、人柱の一種なんですね」
楓の言葉に、陽平は怒りを露わにする。
「そんなこと……俺が許さねぇ!!」
立ち上がる陽平に、一同の視線が集まる。
「知り合いを差し出すのが嫌だから、わざわざ地球に生まれるように仕向けるってのかよ!! ふざけンな!!」
声を荒げる陽平に、翡翠が不安の面持ちで見上げる。
「命ってのはな、等しく幸せになるために生まれてくるンだよ!!」
「よーへ、あたしのために怒ってくれてありがと。でもね、誰かがやらなきゃいけないの」
自嘲気味に告げるかぐやに、陽平はつかつかと近づき、その華奢な両肩に痛いくらいの力で掴みかかる。
「そんなこと、俺が許さねぇ!! お前は家族なんだ。俺も…俺の家族も、誰も家族を売ったりしねぇ!!」
まくし立てるようにそう叫ぶと、陽平はかぐやの足下に跪く。
「俺たちが守ってやる。かぐやを、使命って言葉から守ってやる…」
陽平の言葉に光海、柊、楓の3人が頷き、翡翠も嬉しそうにかぐやの手を握る。
「わたしもかぐやまもる。だいじょうぶ。みんなつよい♪」
「よーへ、翡翠……ありがと」
溢れ出す涙を手の甲で拭い、かぐやは翡翠の手に自分の手を重ねる。
「よーへ、それにみんな。あたしに力を貸して。月の巫女かぐやとしてじゃなくて、風雅かぐやとしてあたしは使命に立ち向かっていきたい。そんなことできるかなんてわからないけど……、諦めたくない」
かぐやの言葉には確かな意思を感じた。投げやりや、受け入れたわけではなく、運命に立ち向かう人間の強さ。
「そーゆーコトならお任せ! だね、アニキ?」
「ああ。…でも、具体的にはなにすりゃいいんだ?」
守ると息巻いたはいいが、肝心なとこが抜けているあたりが陽平であった。
「まずは、かぐやとしての力を取り戻す。場所は……不死の山」
「死なねぇ山? そんなのがあるのか…」
「先輩、富士山のことです」
楓のツッコミに「は?」と間抜けな声をあげる。
「不死の山……その呼び名から富士山ってつけられたって説もあるくらい有名な話だね」
柊の言葉に光海も頷いた。
そもそも一説には、かぐや姫のもたらした不死の薬を捨てたことから名付けられたともされているが、あえてそれを告げるような真似ははばかられた。
「よし、それじゃあ行くか。……富士山に!」
「うん」
陽平に続き光海が立ち上がる。
「あいよ」
相変わらずのテンションだが、柊の目つきが変わっていることは言うまでもない。
「はい」
風雅忍軍参謀の同意も得られ、一同は最後に翡翠へと視線を投げかける。
「翡翠、とりあえず今回は待っててくれるか?」
「ん、まってる。みんな…いっぱいがんばる♪」
小さな姫のエールに4人は不敵な笑みで応える。
「いつだってそうさ!!」
降魔宮殿──。
風雅忍軍と敵対にある織田信長率いるガーナ・オーダの居城は、相も変わらずおびただしい障気に覆われていた。
空間の歪みにあるこの城に、通常空間からの侵入はほぼ不可能と言ってもいいだろう。
しかし、珍しいことに宮殿謁見の間には来客──いや、本来在るべき存在が永きに亘る不在から帰還していた。
どこか古代中国の武将にも見えるその者、名はイーベルという。
織田信長を守護する6翼──6武将の1人、武将帝イーベル。それがイーベルの二つ名であった。
銀の甲冑に跪き、イーベルは久しぶりに会う主人に深々と頭を垂れる。
「武将帝イーベル、永きに亘る不在よりただいま帰還いたしました」
イーベルの言葉に呼応するかのように銀の甲冑に青白い炎が宿る。
まるで瞳のようにゆらゆらと揺れる炎に、イーベルは再び頭を垂れた。
「風雅の者に鉄武将めが不覚を取ったとか…」
信長はなにも答えない。ゆらゆらと揺れる炎は、ただイーベルの言葉を聞いているだけだ。
「我の追い求めていた力もようやく現世に現れた兆しがございます。しからば、信長さまへの手土産に、不死の力と風雅の首……お持ちいたしましょう」
そう。この武将帝イーベルが城を離れた理由とは、地球で見つけた書物から不死の薬なるものの存在を知ったためであった。
ありとあらゆる手段を用いて調べあげた結果、近々不死の力を手にした巫女が目覚めるはず。
「信長さまが一日も早くそのような姿を捨てられますよう…」
一瞬、甲冑が笑ったような気がした。
しかし、それの意味するところはわからず、イーベルはあえて良好ととらえることで自らの気勢を高めることにした。
「これはこれは、武将帝殿…」
背後から近づく声に、イーベルは不機嫌を露わにする。
「永きに亘る探求はいかがでしたか?」
「蘭丸か…」
振り返ろうともせず、イーベルは蘭丸に殺気を放つ。
「鉄武将の件、大方貴様の差し金であろう」
その言葉に蘭丸はなにをばかな…、と笑みを浮かべる。
「風雅如きに鉄武将が不覚を取るとは思わん。ならば貴様以外に考えられん」
「ずいぶんと高く買われていますね、負け犬を」
刹那、イーベルの手に生まれた二股の矛が一閃する。
とても回避できる速度の突きではない。しかし、あえて蘭丸は回避しようともせず、その切っ先をただじっと見つめ続けた。
喉を僅かに切り、筋のような血が矛先へと滴っていく。
「相も変わらず不気味な男だ…」
これだけの突きに顔色ひとつ変えない蘭丸に苦笑すると、イーベルはゆっくりと矛を退ける。
いつものことながら、蘭丸はなにを考えているのかさっぱりわからない。いや、結局はひとつのことしか考えていないのだろう。
(すべては信長さまのために…か)
「まぁいい。鉄武将の弔い合戦も兼ねて、風雅の忍者どもを一人残らず八つ裂きにしてくれる…」
鉄武将を上回る剛を誇る武将帝の出陣に、降魔宮殿を取り巻く空気が震撼する。
退室する武将帝の背中にいつもと変わらぬ笑みを浮かべると、蘭丸は銀の甲冑に跪いた。
「もうしばし、もうしばしお待ちください……信長様」
蘭丸の言葉に、青白い炎は一瞬だけ大きく燃え上がると、陽炎のように消えていった。